小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

みすゞ、自立と自殺

2014-02-27 | 金子みすゞ
 みすゞには奈良女子大学への推薦入学や、多くの文学者たちのように上京して働きながら仲間と研鑽してゆく道など山口県を出ていく機会が何度かあった。結婚と離婚を決意したときも正祐は上京を勧めている。そう、みすゞは全くと言えるほど、夫の実家の熊本以外には山口県を出てはいないのだ。本屋勤務であれば「青鞜」などの雑誌も読んでいただろう。ましてや、その二代目の編集長の伊藤野枝は福岡県の出身で下関に暮らしていたこともあるから話題にもなっていたろう。
 資質と言ってしまえばそれまでだが、「女の子だから私ばかりが叱られた」という詩を書きながらも女性解放運動には全く興味を示していない。多分、自分の小さな心の中の問題だけでいっぱいだったから社会へ目を向ける余裕がなかったのだろう。それに加えて、幼時から蓄積されてきた無常観のようなものがある種の諦念をみすゞに植え付けてもいたの違いない。この街でささやかなしあわせを得ることが出来ればそれで満足できそうだったのかもしれない。もしかしたら、この街を飛び出しても苦労が同じ分量だけあることを知っていたのだ。

 西条八十の童謡を見てこれなら書けそうと、たいした努力もしないまま(だから天才という人もいる)その御大に認められたことはみすゞにとって幸せなことだったのだろうか。それを踏み台にして哀しい街から飛び出すこともできただろうに…と、同じ事を思ってしまう。毎回の投稿作品が入選することで投稿仲間という友人ができたことで、それだけで満足だったのかもしれない。自分を認めてくれる人ができたことがどんなにか嬉しかったことだろう。だが、それも御大八十がいてのこと。その批評がみすゞのフアンを作っていく。みすゞは筆まめに八十へは勿論のこと、投稿仲間にも長文の手紙を書き続けた。それは自分自身へのラブレターであった。手紙を書く相手の向こうに自分が居た。

 やがて、なぜか八十が遠ざかっていき、詩集を出版する夢も消えた。当然ながら家庭の事情も病気のこともあっただろう。詩を書くことを禁じられたから書かないというより、もう、書く気力が失せていたのではないのか。
勤めていた店経由で文通を続ける知恵を持っていたみすゞである。八十の態度の変化を敏感に察して、もう、自分のことを受け入れてくれる人がいなくなったと、その思いが生きる気力さえをも無くさせた。
精神科の医者によれば、自殺は自己否定の手段ではなくて、むしろ、自分を変えないための自己保存の手段であるという。死ぬことによってしかみすゞは自分を守ることができなかったということになる。

 結局、みすゞ=テルが愛したのは自分だけであったのだ。たくさん、たくさん努力はしたけれど、他者を受け入れる余裕がなかった。受け入れて欲しいと思う人で受け入れてくれる人が西条八十一人であったことも哀しいが、そのたった一人もが離れていったとき、自分を守るためには死ぬしかなかったのだろう。

 死を決意して撮った写真と年譜の頁の二十歳の時のそれを見くらべてみればその切なさに胸を打たれる。
テルは松蔵に、みすゞは八十に殺されたと、脚本を書いたときにはそう結論を出したのだが、今は、さみしさから身を守るために死ぬことの自由を選んだのだと思うようになっている。

みすゞの詩の中で一番好きな「あさがほ」を紹介して「みすゞ、その愛」の項を終わりにします。

≪あさがほ≫
青いあさがほあっち向いて咲いた、
白いあさがほこっち向いて咲いた。
ひとつの蜂が、
ふたつの花に。
青いあさがほあっち向いてしぼむ、
白いあさがほこっち向いてしぼむ。
それでおしまひ、
はい、さやうなら。


簡単な年表をアップしておきます。閉鎖したHPに掲載したものです。

http://www.jtw.zaq.ne.jp/kamifu-sen/misuzunenpu.html

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