小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

みすゞと男たち  弟・上山正祐

2014-03-16 | 金子みすゞ
〈お菓子〉
いたづらに一つかくした
弟のお菓子。
たべるもんかと思ってて、
たべてしまった
一つのお菓子。

母さんがふたつツていったっら、
どうしよう。

おいてみて
とってみてまたおいてみて、
それでも弟が来ないから、
たべてしまった、
二つ目のお菓子。

にがいお菓子、
かなしいお菓子。

 みすゞの二歳年下の弟。生後一年で母の妹である子供の居ない叔母のフジの元へ養子として貰われていった。養子であることは絶対の秘密であることが約束されていた。それは、叔母で養母となったフジが姉のミチのいる仙崎にも余り来なくなったことでも窺われる。正祐はフジの夫である松蔵からも我が子以上に溺愛されて育った。そのために我が儘なお坊ちゃんに育ってしまった。

 下関の商業高校を卒業した春、仄かに恋心を抱いていた二歳年上の従姉のテルがやってきた。同じ屋根の下での起居が出来ることにさぞや胸をときめかせたことだろう。伯母だと思っているミチの娘であることは知っている筈だった。なのに何故テルは自分の立場を主張せずに使用人扱いで甘んじたのだろうか。

 正祐は書店経営者の修行としてテルが来た翌月に東京の大きな書店に送り出された。跡取りとしてのこの道は松蔵が用意したものである。
 だが、その年の10月、関東大震災に遭遇して帰ってきた。五ヶ月余りとはいえ、日本橋の本屋で働いていたのであるから東京の文化をしっかり吸収してきたことあろう。帰ってみれば、自分が勧めた詩作に励んだテルはすっかり投稿童謡作詩家として知る人ぞ知るという立場になっていた。さぞ、眩しく嬉しかったことだろう。

 その後、再建なった東京へは出ていかず文英堂の若旦那として店を手伝うことになる。松蔵も還暦を過ぎた年で、もう、正祐を遠くに出すのが心配だったのかもしれない。早く嫁でも迎えて店を渡し、孫の顔が見たいくらいの心境だったのだろうか。しかし、正祐はまだ十九歳。一途にテルへの思慕を募らせ、作曲やオルガンに夢中になっていた。
 二十二歳の時、徴兵検査の赤紙がきて正祐は初めて自分が養子であることを知り驚愕、自分の置かれた立場を思う。その驚きと怒りの嵐が去った後は家業に精を出そうとし始める。この時はまだ、ミチが実母でありテルが実姉とは知らされていない。なぜ、戸籍を見なかったのかという疑問が残るが…。
 今は、しっかり店の仕事をしてテルちゃんと結婚できるようにしたい。そう思っていたのだろう。当時、いとこ同士の結婚はそう珍しいことではなかった。

 しかし、正祐の思惑ははずれる。頭の切れる働き者の番頭として宮本啓喜という四歳年上の男が雇われて松蔵の信頼を得ていた。丁寧な態度ではあるが啓喜は正祐の商売上のミスを注意してくる。坊ちゃんの甘さを指摘してくる。松蔵は正祐にテルへの思いを断ち切らせる為に見所のある男としてそんな啓喜にみすゞを娶らせようとする。正祐には納得のいかない縁談だった。「建白書」を松蔵につきつけて訴え、みすゞに駆け落ちを迫った。そして、遂に、実の姉弟であることを知る。 みんなが知ってることを自分だけが知らなかったこと、恋する人が姉であったことは大きな打撃を正祐に与えた。それでも、啓喜との縁談は断わるべきだと説得する。正祐には啓喜がまともな男にはどうしても思えないのだ。

 結局、みすゞは啓喜の妻となった。親戚になったから啓喜は使用人達の中ではトップの座を占め、以前より商売に励んだ。正祐も敵愾心を燃やして商売に勤しむ。だが、所詮は坊ちゃん育ち。成り上がっていこうとする啓喜の迫力には追いつかない。ついに、些細なことで切れた正祐は家出を試みるが松蔵に探し出される。負けた悔しさがそう言う形でしか動けない正祐に苛立ちながらも松蔵は新婚間もない啓喜を馘首する。正祐はどこまでも大切な跡取りであった。
 啓喜がテルを連れて文英堂を出ていく姿を正祐はどんな思いで見送ったのだろうか。早晩、帰ってくると踏んでいたのか。だが、テルは妊娠していた。父を幼くして亡くしたテルには子供の父親は無くてはならない存在なのである。

 もしかしたら、この頃の正祐は急速にテルへの興味を失っていってたのかもしれない。青年期特有の潔癖さから、腰に丸みを帯び、やがてお腹の膨らんでゆくテルの姿は不潔にさえ思えたとも思われる。そして、正祐が愛したテルはみすゞとなって昇華されてゆく。その一方でライバルを失ったことで商売への熱意も薄れ作曲やミニコンサートを開いたり、シナリオの勉強などに精を出していた。心は東京に行っていた。
 たまに来るテルはいつも赤ん坊をおんぶした所帯じみた姿であり、もう、かってのように文学や音楽や詩の話を持ちかける雰囲気は持ち合わせていない。正祐はそんなテルに「テルちゃんは平凡になった。みすゞはどこにいった」と詰ってしまうのである。
 テルにとって一番大切な物が詩作でなく赤ん坊にいってしまったことが二十二歳の正祐には寂しい限りだった。

 もう、ここには居たくなかった。正祐は執拗に上京の許しを松蔵に乞う。根負けした松蔵は期限付きでそれを許した。許さなければ家を出て行ってしまうよな迫力があったからである。二十三歳でようやく正祐は上京する。それも本屋修行ではなく、自分の夢を叶えるために。運良く文藝春秋社の「映画時代」の編集部に入社できた。シナリオを学べる職場であった。充実した一年半の月日が流れ、恋人もできた。
 そこにテルの死が伝えられて帰省。テルは自死。そこまで追い込んだ責任の一端を感じたのだろうか。離婚問題や娘の親権の問題での相談の手紙の往復はあったが、仕事に紛れて真剣に相談に乗れなかったようだ。そこまで追い込まれていたとはと慟哭したのだろうか。遺書と共に三冊の手書きの自作詩集が遺されていた。

 テルの葬儀一切が終わると倉橋五百子を呼び寄せて結婚し、文英堂に腰を落ち着けたかに見えたが、翌年、松蔵が亡くなると「成功するまでは絶対に帰らない」と再度、上京し三十七歳の時の母のフジの葬式まで一度も帰りはしなかった。帰省はしなかったがフジの生存中はよくお金の無心はしてきたらしい。やはり、坊ちゃんだ。
 葬式がすむと東京にとって帰り、以後は東京で暮らし、後年は「劇団若草」を創設し、その方面では知られる人フジとなっていた。おかげでフジの葬式は立派であったという。
 祖母にあたるミチに育てられていたテルの遺児の房江をミチの死後、正祐は面倒をみたのであろうか。それとも、遠い存在でしかなかったのだろうか。興味のあるところである。
 平成元年没。享年八十四歳。
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