小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

みすゞと男たち  伯父&義父・上山松蔵

2014-03-24 | 金子みすゞ
伯父&義父・上山松蔵
 上山松蔵は旧姓を石田松蔵といい、文久二年(1862)に兵庫県の農家に生まれた。十歳の頃、大阪に出て書店に奉公に出た。ここで上山という老女の養子となって石田から上山に改姓し、独立。山口県の萩で書店を始めたがうまくいかず、店を下関に移し「上山文英堂」として開店した。三十九歳でテルの母の妹、フジと結婚。
 文英堂が大きくなったのは日露戦争の折に中国に日本人で最初の書店を出したことにあるという。外地での兵士たちは日本語で読めるものに飢えており、どんな本でも、定価よりも高くてもいくらでも売れた。松蔵は商才にたけており、五店にもふえた中国各地の支店に定価を貼り替えた書籍や雑誌を次々と送り込んだという。
 その支店の一つを任されたのがテルの父親で反日感情のトラブルで殺害された。それは、テルの夫になった啓喜が若くして株で大金を掴み花街で派手に札びらを切っていた頃でもある。

 松蔵は戦争が終結して不景気の波が襲ってきても、株屋の啓喜とは違い、しっかりと基礎固めをすませ、本店の他に三軒の支店を持ち九州方面への卸しもやりと、大きな規模の書店を作り上げていた。
 その経営方針はかなり厳しいもので、常時五,六人居る店員は朝の五時から夜は十一時頃まで休む間もなく働かせた。しかも、暇な時期になると茶碗を割った程度のしくじりを盾にとって解雇し、多忙な時期になると職安から新しく雇い入れるという技を多用していた。店員は常に初任給で使おうという魂胆だったのだろうか。いずれにせよ、ローマ字入りの下関の地図を発行したり紙質にも詳しくやり手だったことは間違いない。

 松蔵がどういう経緯でテルの母親の妹フジと結婚したのかはわからないが、この結婚がテルの父親の死をはじめとし、金子家に多大な影響を及ぼした訳で運命をも左右したのである。
 若いときの遊びが祟って子供が出来なかったとの説もあって、松蔵は正祐を養子に貰い受けたのだが、その溺愛ぶりにはいささか驚かされる。フジの死後は正祐の為にと実母のミチと再婚までしている。一代で築いたものをわが子に継がせたいのは当然ではあるが、その正祐とその姉であるテルへの接し方の違いを見ると首を傾げたくもなってくる。あまりにも正祐には甘すぎるし、その出生の隠し方も異常である。徴兵検査があることなどは当然知っていただろうし、戸籍謄本を見れば一目瞭然なのになぜそこまで悪あがきのようにしてまで隠したのか?
 これが、もし、実子であるのならと仮定すればすべてに納得がいく。妹の後釜として嫁いでいったミチ、テルを引き取って店員扱いをしたミチ、不幸になるとわかっていながら松蔵の意向に逆らえずに啓喜にテルを嫁がせたミチ。すべては、正祐の出生の秘密を守るためではなかったのか?であれば、愛を貫いた近代的な女性としての尊敬にあたいするのだが…。

 松蔵はテルの死んだ翌年(昭和六年)の四月に六十九歳で死去した。
正祐は葬儀に帰省した後、ミチの葬儀(昭和十八年)まで一度も下関には帰っていない。従って彼の文英堂は跡継ぎとして育てた正祐以外の金子家の人々のものとなって、やがて、破産してしまった。皮肉なものである。
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