小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

みすゞと男たち  兄・金子堅助

2014-03-07 | 金子みすゞ

〈くれがた〉
兄さん
口笛
ふき出した。

わたしは
袂を
かんでゐた。

兄さん
口笛
すぐやめた。

表に
こっそり
夜がきた


〈海へ〉
祖父さも海へ
父さまも海へ
兄さも海へ。

海のむかうは
よいところだよ、
みんな行ったきり

おいらも早く
大人になって
ゆくんだよ


 堅助はみすゞの二歳年上の兄。五歳の時、父親に死なれて十五歳で家督を引き継いだ。父親が母ミチの妹である叔母の夫の松蔵に頼まれて上海に行かなければ不慮の死を遂げることはなかっただろう。しかも、その松蔵の全面的な援助によって本屋を生業とし、小学校を出ると同時に店主として一家の責任を負うことになる。しかし、若くして書店の店主になったことが彼をインテリに育てた。仙崎でただ一軒の本屋であり、それは真っ先に東京からの情報が入ってくることを意味している。

 弟の正祐が貰われていったのが六歳の時であるから悔しさや哀しさは体験していたのであろう。それが、せめてこの妹だけは守ってやらなければという思いに繋がっていったとしても不思議ではない。情報が入ってくるだけに女性の幸せは結婚だけではないと思ったのか、成績のよかったテルを今の奈良女子大学にまで行かせようとした。自分の夢を託したのかもしれない。やがて、母が松蔵の後妻に入って去っていき、祖母とテルと自分の三人家族となり、益々、テルとは親密な兄妹になっていく。

 また堅助は、なかなか進取の精神も強く、まだ珍しかったラジオを作ったり麻雀を取り寄せたりバイオリンやテニスもやりと、かなりの趣味人で生活を楽しむことも知っていたようだ。だが、それは商売人には向いていなかったのかもしれず、心中のどこかに潜む虚しさからきていたようにも思われる。

 そして、二十一歳の若さでの結婚。結婚の決意と同時に数々の夢に封印して仙崎の書店のオヤジとして生涯を過ごす覚悟を決めた。花嫁は大島チウサという幼なじみでテルの小学校の時の同級生であった。どういう経緯で結婚に至ったのか、また、どんな人物であったのかは不明である。ただ、子供もできず夫婦仲は良くなかったらしい。とはいえ、新婚時代はやはりそれなりの雰囲気に包まれていたのだろう。テルは大好きな兄を奪われた寂しさを味わう。チウサにしても、いつも級長をしていた、本ばかり読んでいる同い年の小姑は目の上のたんこぶのような存在だっただろうと思える。本の感想などを言い合う夫と小姑の中に割り込んでいけないもどかしさもあったのかもしれない。

 次第に、テルの居場所はなくなってゆく。そこで、母親が店員としてテルを下関へ引き取った。これで、新婚夫婦と祖母だけの暮らしとなって落ち着く筈だったのだが、堅助はまたも己の不甲斐なさをなじらなければならなかった。みすゞが後妻の娘、すなわち「お嬢さん」として迎えられるのであればまだしも、実の弟を「坊ちゃん」と呼ばなければならない境遇に妹を追いやってしまったのである。いなくなって、さらにその存在感が大きくなったテルにチウサは悔しい思いをしたことだろう。

 堅助は母や松蔵にどんな思いを抱いていたのだろうか。
 彼は、何も書き残していないので真実の程はわからない。

 チウサは病気がちだったようで度々実家に滞在して静養していたらしい。そして、その都度、テルが戻って祖母と堅助の世話をしていた。堅助はテルに縁談などを勧めたことがあるのだろうか。いや、金子みすゞとして世に出たことを誰よりも喜び、その方面での大成を願っていたのだろう。掲載誌を繰り返し読んでは批評していた。
 だから、松蔵の都合で進められた結婚話には怒りさえ感じていたのだろう。いや、むしろ、それを安易に受けようとするテルに怒りの矛先は向いていたのかもしれない。才能がありながら、なぜ、自分の足で歩いて行こうとしないのか。平塚雷鳥たちが世の女性達を盛んに啓蒙していた時代である。門を叩けば与謝野晶子とて金子みすゞを受け入れてくれただろうに。

 しかし、自分が文英堂の支店という立場では松蔵に強くはいえなかったのかもしれない。自分たち夫婦の問題が結婚反対の談判に行けないほど深刻化していたのだろうか。正祐を焚きつけて強固な反対をさせるのが精一杯だったのか。
 とにかく、この人の書き残した物は一切残っていないので、こちらが想像力を逞しくするしかない。困ったものだ

 テルは三年間の結婚生活の果てに娘を一人残して自殺。
 娘は子供の居ない兄に育てて欲しいと遺書にあった。
 託された堅助はその子を慈しんで育てる決意をするが、ずるずると続いていたチウサの妊娠が判明してそれは叶わなかった。その前年の祖母の死も影響が強かったのだろう。恋敵のようなテルの娘を引き取るのなら別れるとでもチウサが言ったのかも知れない。

 テルの逝ってしまった翌年、松蔵が亡くなった。
 正祐は名を挙げるまでは帰らないと結婚して上京したまま。結局、堅助が仙崎の店を譲って下関の文英堂本店へチウサと共に移り住んだ。書店の経営には自信があっただろうし、支店を幾つも持つ大きな書店の経営にはそそるものもあったのかもしれない。
 思いがけない母との同居。テルの遺児には父とも言える存在。実の子も生まれ、家庭も円満と初めての安らぎの時、だったのではなかろうか。しかし、どちらが先なのかわからないけれど、二児をなしたチウサと離婚し、保証の判をついて保証倒れとなって文英堂を破産させている。
 その後の確かな足取りは不明だが昭和五十八年の八月に大阪で亡くなったそうだ。享年八十二歳。


〈お葬ひごっこ〉
堅ちゃん、あんたはお旗持ち、
まあちゃん、あんたはお坊さま、
あたしはきれいな花もって、
はら、チンチンの、なあも、なも。

そしてみんなで叱られた、
ずゐぶん、ずゐぶん、叱られた。

お葬ひごっこ、
お葬ひごっこ、それでしまひになつちゃった。


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