小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

一月二十六日

2018-04-04 | 嘉永六年 癸丑日記

一月二十六日 

朝、六時頃に起きて準備する。
8時前に西浜御殿に(一位様の)お見送りに行く。供は安兵衞。
雄輔は鉄助宅へ誘いに行く。
岡野の横で見奉る。
事前から凄まじい人出だろうとの廻状があったが、大勢の女達も見物に出ているとのこと。
お行列(葬送の)は凡そ7丁も続き、お先導は和合院で長柄輿の上で真っ白なお顔をされていた。
日頃のお行列通りだそうだ。
御西浜の御庭内で主人は拝した。
白装束の女中が36人。そのほか常からいる者が100人あまり。
こちらは芝の上で少しも土で汚れることはなかった。誠にありがたい。

梅本からかもしかの皮一枚を送られた。


※【西浜御殿】
二代藩主光貞が造営した藩主の別邸で、文政2年(1819)から十代藩主治宝の隠居所として8年の歳月をかけて造営整備された。
治宝は文政7年(1824)に藩主の地位を譲って隠居し、死去するまで、ここで隠然たる勢力を維持し、御庭焼(陶磁器)や文芸活動の主要な舞台ともなった。敷地内には庭園や田畑、亭なども築かれていた。しかし、治宝の没後取り壊され、現在その位置は正確にはではないが、市内西浜の県立和歌山工業高校西門脇に「西浜御殿」の標柱が建てられている。

※【養翠園 庭園】
養翠園庭園は西浜御殿の庭園として造営された約33,000㎡におよぶ大名庭園。池は海水を取り入れた汐入りの池で全国的に珍しく、現存するのは東京の浜離宮恩賜庭園(元の将軍家浜御殿)と養翠園だけである。庭園内には御茶屋 養翠亭が有り、茶室 実際庵(二畳台目)や左斜め登り御廊下など貴重な遺構が保存されている。
現在も和歌山市の観光名所のひとつ。





本居宣長の後継者・本居大平(1756~1833)が西浜御殿の藤の花を詠んだ和歌を残している。「西浜の殿の御庭の藤の花を見侍りて」すなわち10代藩主治宝の隠居御殿である西浜御殿の御庭に咲き誇る藤の花を見てという題詞に続いて、二首の短歌を詠んでいる。一首目は「春ふかきめくみにあをむ草のうへに なミゐてそ見る ふちなミの花」というもので大御所治宝に招かれ青草の上に揃った家臣たちが藤の花を眺めている様子を詠んでいるという。二首目は、「池のへの藤のしなひの長き日に 見れともあかぬ花のいろかな」と詠み、御殿の池の側の藤棚から長く房状に垂れ下がった藤の花と、春の訪れによって日が長くなったことを懸けているという。そのように長くなった一日中、ずっと眺めていても、飽きることはない、西浜御殿内の藤の花の美しさを賞賛している。





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一月二十四日、二十五日 

2018-04-02 | 嘉永六年 癸丑日記

一月二十四日  

極上の天気だ。
風呂を焚く。
二時頃にいさが日高のりを五十枚持参できた。





一月二十五日 

快晴。
酒を取ってくる。
さて、明日は六時頃から御葬送がありお見送りに行く予定。
小梅は襖を貼り替える。



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一月二十二日、二十三日

2018-04-01 | 嘉永六年 癸丑日記

一月二十二日 

暖かい。
世間はひっそりとして声もない。
夜前から町々の門を宵から閉める。
このようなことは今までに無い。
一位様がお出かけ遊ばされお留守の時にも門はあけてはいたが、この度から夜は十時までで門を閉めるとのこと。
灯し油を雄輔が買いに行く。



一月二十三日 

暖和なり。
今日も中将様へご機嫌伺いに伺候する予定だったがとりやめた。
権七を買い物にやる。
松下へ手形書きし礼に牡蠣を送るつもりだったが牡蠣売りがこなかったので饅頭を送ることにして万次郎が行く。
 
※ 中将様
徳川慶福のことで後の十四代将軍の家茂のこと。
幼名は菊千代で一位様こと徳川治宝死去の時は八才。
三才で藩主となったので治宝が治世を行っていた。
従三位に叙せられ左中将に任じられたことから「中将様」と呼ばれていた。



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