一月二十六日
朝、六時頃に起きて準備する。
8時前に西浜御殿に(一位様の)お見送りに行く。供は安兵衞。
雄輔は鉄助宅へ誘いに行く。
岡野の横で見奉る。
事前から凄まじい人出だろうとの廻状があったが、大勢の女達も見物に出ているとのこと。
お行列(葬送の)は凡そ7丁も続き、お先導は和合院で長柄輿の上で真っ白なお顔をされていた。
日頃のお行列通りだそうだ。
御西浜の御庭内で主人は拝した。
白装束の女中が36人。そのほか常からいる者が100人あまり。
こちらは芝の上で少しも土で汚れることはなかった。誠にありがたい。
梅本からかもしかの皮一枚を送られた。
※【西浜御殿】
二代藩主光貞が造営した藩主の別邸で、文政2年(1819)から十代藩主治宝の隠居所として8年の歳月をかけて造営整備された。
治宝は文政7年(1824)に藩主の地位を譲って隠居し、死去するまで、ここで隠然たる勢力を維持し、御庭焼(陶磁器)や文芸活動の主要な舞台ともなった。敷地内には庭園や田畑、亭なども築かれていた。しかし、治宝の没後取り壊され、現在その位置は正確にはではないが、市内西浜の県立和歌山工業高校西門脇に「西浜御殿」の標柱が建てられている。
※【養翠園 庭園】
養翠園庭園は西浜御殿の庭園として造営された約33,000㎡におよぶ大名庭園。池は海水を取り入れた汐入りの池で全国的に珍しく、現存するのは東京の浜離宮恩賜庭園(元の将軍家浜御殿)と養翠園だけである。庭園内には御茶屋 養翠亭が有り、茶室 実際庵(二畳台目)や左斜め登り御廊下など貴重な遺構が保存されている。
現在も和歌山市の観光名所のひとつ。
本居宣長の後継者・本居大平(1756~1833)が西浜御殿の藤の花を詠んだ和歌を残している。「西浜の殿の御庭の藤の花を見侍りて」すなわち10代藩主治宝の隠居御殿である西浜御殿の御庭に咲き誇る藤の花を見てという題詞に続いて、二首の短歌を詠んでいる。一首目は「春ふかきめくみにあをむ草のうへに なミゐてそ見る ふちなミの花」というもので大御所治宝に招かれ青草の上に揃った家臣たちが藤の花を眺めている様子を詠んでいるという。二首目は、「池のへの藤のしなひの長き日に 見れともあかぬ花のいろかな」と詠み、御殿の池の側の藤棚から長く房状に垂れ下がった藤の花と、春の訪れによって日が長くなったことを懸けているという。そのように長くなった一日中、ずっと眺めていても、飽きることはない、西浜御殿内の藤の花の美しさを賞賛している。