何も知らずに生きてきた。戦争の悲劇は知っているつもりだった。なぜなら子供
時代は母一人・子一人で過ごしてきたからだ。母は住み込み働きで、僕を育てたの
だ。今にして思えば、持ち家の人も少なく、女手一人で子育てするには、最高の仕
事だったと思う。その職場は織物組合で当時は景気の波にのっている工場会社が集
まる組合の住み込み賄い婦といったところか?理事長にお気に入りの母は、会合が
あるたびに食事の担当を一手に任されていた?といってもいつも献立は決まってい
て「スキヤキ」だったと記憶している。皆が集まる前に僕に食べさせるために、牛
肉の一番いいところを拝借して置いて、皆が食べ帰った後、事務員さんら食べれな
かった人たちが集まり心置きなく食べた。僕の小学、中学時代は食べることと、工
場から出るお湯を利用して入る風呂に思い出がある。そして小学、中学時代の父親
への思い、戦争への思いはゼロに等しい。目を瞑ると幼児の頃、疎開して見た竹薮
のはるか彼方に落ちていく焼夷弾の明るさ、そして怖かった防空壕の中だった。
日本が真珠湾攻撃に使った暗号文「ニイタカヤマ」が台湾にあったそんなことも
この歳まで知らなかった。親父に「すまない」気がしてきた。写真は台湾で日本
らしい風景。