モハ1005ーモハ1006ークハ2003 が 好き

大好きな伊豆箱根鉄道を中心に、思い出の電車のことや、「小さな旅」のことなどを書き綴りたいと思っています。

久留米の旅 その3

2012-04-30 06:28:00 | 小さな旅
さて、2回に渡り久留米の旅、食べ物の話が中心になってしまいまして…
今日は久留米周辺での鉄道関係の画像を何点か。

空港から地下鉄で博多へ、博多から鹿児島本線で久留米へと向かいました。
まずは博多駅で。JR九州では、800番台の形式の交流電車が何形式かありますが、このような違う形式の連結もあります。

博多駅にて 813系と811系の連結面


博多⇔久留米間は、快速も20分ヘッドで運転され、たいへん便利です。
また、JR九州と言えばユニークな特急も数多くありますね。
途中の南福岡で。ここには南福岡電車区があり、いろんな電車が見られます。





久留米の駅で見られる様々な車両、上から順に815系・813系・817系です。







長崎本線との分岐駅、鳥栖折返しのワンマン2両編成が活躍しています。


久留米駅は昨年3月、九州新幹線の開業により大きく変わりました。



ちなみに、下の画像は1999年の駅前です。



久留米は前述の久大線も発着しているため、線路容量の都合もあり、快速など一部は隣の荒木駅発着折返しとなっています。



荒木駅は駅前の2棟の高層マンション、新幹線の高架橋が出来ても、のどかな雰囲気が残っています。



久留米と肥前旭の間には壮大な筑後川が流れていますが、ここから電車を眺めていてもいろいろ楽しめて飽きないものです。
陽気の良い日だったら、1日ゆっくり過ごすのも良いかもしれません。



そして、帰りには快速を使う予定だったのですが、ホームにはなつかしい411系が…
九州にはまだ411系が何本か残っていますが、いつまでのことか心配です。



懐かしいモーターのサウンドを楽しめました。
ちなみに久留米⇔博多間、快速では35分程度なのですが、通過待ちなども多くこちらでは1時間以上かかってしまいました。

3日間の「久留米の旅」の Blog にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

久留米の旅 その2

2012-04-29 06:45:00 | 小さな旅
昨年は4月に続き、5月にも久留米へ行きました。
今日はその時のことを中心に。



この時も往復は飛行機で。福岡もスカイマークのおかげで随分安くなりました。
便数も多いですし、福岡空港のアクセスも良いことから、つい使ってしまいます。
本当は寝台車での旅が憧れなのですが…

そして宿泊したビジネスホテル、4月の時には1泊 ¥4,725 のところを利用したのですが、その時なんとそばに、1泊 ¥3,950(アウトバスだったら¥3,460)があって気になっていましたのでそこに宿泊することにしました。
直前予約にもかかわらず、運良く取れましたので。



久留米の中心部で買い物や飲食街も便利、JR、西鉄どちらからもアクセスも良いです。

これでこの値段で… サプライズはこれだけではありません。
なんと、夕食と朝食、軽いものですがサービスで付くのです。
これが夕食。うどんが美味しかったです。もちろんフライも。



そしてこちらが朝食です。納豆も付きます。



これでこの値段で… 満足でした。

翌日は親戚の方に久留米市内や周辺を案内していただきました。



麦畑が輝いていました。

お昼にはこの時期限定の『えつ料理』を頂く事に。
『えつ』は筑後川下流域でしか獲れない幻の魚で、5月下旬から7月初めの限定です。
「弘法大師とエツ伝説」もあります。

これが『えつ』、柳の葉を魚の姿に変えたという伝説の通り、細く銀色の美しい姿です。
お店の方に特別に調理前のものを見せていただきました。



この『えつ』、小骨が多く、調理がとても大変だそうです。
そして料理に! お造り、焼物、酢物、煮物、揚物… とても豪華でした。





昼食後、熊本の阿蘇近辺まで、ドライブしました。
この周辺で2泊目を予定していたのですが、あいにく宿泊先が確保できませんでしたので、
筑後船小屋まで戻り、船小屋温泉『樋口軒』へ宿泊することに。
ここ『樋口軒』は、著名人も多く宿泊されており、またこの地の鉱泉は炭酸含有日本一を誇る天然炭酸水です。
ホテルの前を流れる矢部川、矢部川に架かるガタガタ橋、樹齢400年の楠林の中ノ島公園など、ホテルからの景色は抜群です。




(船小屋の画像は、以前2010年9月に訪問した時のもの)

まだまだ紹介しきれない、素晴らしいところがたくさんあるのですが…

今回は鉄道関連の画像はありません。鉄道関連の画像は「その3」で。

久留米の旅 その1

2012-04-28 06:24:00 | 小さな旅
今日はちょっと前に行った旅行の思い出などを。
九州・福岡の久留米に行ったのは1年前のことです。

久留米市役所の20階展望ラウンジからの眺めです。



こちらは南側、中央の高架は1箇月前に開業した、九州新幹線です。
周辺には高層のマンションなどが急に増えています。



こちらは北側、筑後川が流れ、この先は佐賀県になります。


さて、久留米には、鹿児島本線の他に、久大線があります。
特急の『ゆふ』や『ゆふいんの森』は博多から発着となりますが、ローカルは殆どが久留米の2番線からの発着となります。



以前は久留米から、南久留米、御井、善導寺……でしたが、国鉄がJRになってから各地で途中に駅が増え、こちらにも『久留米高校』『久留米大学』が出来ています。
久留米から5つ目の『善導寺』に停車中の黄色いキハ125



沿線は、殆どが無人化されていますが、改札のラッチ以外は昔の懐かしい日々の姿を残しています。





ここ善導寺は、浄土宗の大本山で鎌倉時代に鎮西上人が開山いたしました古刹です。



こちらは『善導寺』駅ホームから筑後草野方面を臨む。
線路が真っ直ぐに1本伸びています。
帰りの1両の真っ赤なキハ220がやってきました。



やっぱり、久留米と言ったらラーメンが有名ですね。
親戚の方に、『大砲ラーメン』に連れて行っていただきました。
おすすめの『昔チャーシューメン』です。”通称カリカリ”という豚脂の揚げ玉が浮いた昔懐かしい風味だそうです。
チャーシューがたっぷり入っていて、とても美味しかったです。



「久留米の旅」はまだ続きます。

101系の方向幕

2012-04-26 19:19:00 | 国電 101系
通勤型国電の方向幕、79形の末期から登場しましたが、101系のものは103系と比べ、やや横幅が狭かったです。
また、101系の幕は布製のものもあったり、当時は中距離の臨時対応のためなど、様々な行き先も入っていました。

支線のように両行き先を矢印表記したものは、狭い方向幕ではかなり苦心が見られるようでした。
赤羽線の『池袋⇔赤羽』には2種類のタイプが存在しました。


   ↑  池袋・赤羽が縦向き文字
   ↓   池袋・赤羽が横向き文字


書体もずいぶんレトロなものでした。
山手線が103系された後も、この赤羽線だけは101系8両×5編成が残され、南武線の新性能化まで活躍しました。


武蔵野線には0番台よりA基準に改造された1000番台が活躍していました。
当初は、府中本町⇔新松戸間でしたが、方向幕を見るとまるで『府中⇔松戸』のように一見見えました。
この辺は、京急の『神奈川・・・』を省略するのと同じ発想のようです。




更に、南武支線『尻手⇔浜川崎』にも、『尻手』と『浜川崎』が一段のものと、二段のものがあり、矢印の形状も違いました。両先頭車で前後で違う編成もありました。


   ↑  クモハ101-130 1996年3月2日 浜川崎駅
   ↓  クモハ100-178 1996年3月2日 尻手駅


武蔵野線と南武支線では、ローマ字が併記されていませんでした。


今のようなデジタル時代では、このような変化が無いのも寂しいものです。
新しい駅名などにもすぐに対応できてしまいますし…

五日市線や相模湖臨で、幕が無いため方向板を助手席編成番号部に掛けていたのが好きでした。
そんな時は、101系の方向幕に白幕が無かったのか、行き先の真ん中で止めていて半分他の行き先が見えているのも何だか面白かったです。

京浜東北線 101系

2012-04-25 20:33:00 | 国電 101系
西武電車を見て育った私にとって、家の都合で沿線を離れ、引越先の京浜東北線は全く別の世界でした。
とは言っても、当時はまだ73系が健在でした。その吊り掛けモーターの音もやがて聞かれなくなり、103系ばかりの京浜東北線に、50両の101系が中央線・総武線からやって来た時は、103系の低い喧しい音に比べ、高く軽い音は心地良いものでした。
線路沿いにあった中学の教室の窓からよく眺めていたものでした。
授業中も、101系の音に、席の離れた101系好きの友人と相槌を打ったものでした。

そんな中、特に好きだったのがクモハ100-18でした。
初期製造車で、京浜東北線に移ってからも暫くはパンタグラフが唯一、PS-13でした。
写真撮影時は残念ながら、PS-16化されていましたが…

1976年1月22日 浦和電車区 クモハ100-18他


わずか50両しか無いにも関わらず、編成には10両貫通あり、横浜側先頭がクハ100のものあり、サハ101-200 の2両続きなど、結構いろいろと楽しませていました。
たまには10両貫通編成と3+7編成を繋ぎ代えた変則編成が走ったり、入場中のサハに変わってMc-M’の入った8M2T変則編成が出たりと、なかなか興味尽きないものでした。
また、一次関西線の101系6両×2編成が借り入れられ、これを6+4の変則でウグイス色の101系が走ったのには驚きました。
ただなぜ関西線の車両がわざわざ上京したのか、今でも謎です。

そんな101系の変化を追いかけ、ウラ電(浦和電車区)にはよく行ったものです。
再三の写真撮影にも快く受けていただき、電車区内を歩き回ったものです。
当時の運転事務所の方には本当に感謝しております。

その101系も、南武線の新性能化などのため、数年で103系に置き換えられてしまいました。ほぼ同時期、私も西武沿線に引越すことになりましたが…

1977年2月20日 浦和電車区 クモハ100-120他


電車区内では実際には使用されなかった、こんな方向幕も見られました。