波佐見の狆

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佐世保で「沈黙」を観ました。

2017-02-23 10:33:19 | 平清盛ほか歴史関連

あれほど、読むのも怖いと思って長いこと本棚に置いたままにしていた「沈黙」の原作を、やっと読み、そして、、映画も観てしまいました・・・!

父命日の2月18日。三回忌法要を済ませた後、急いで佐世保の繁華街へ。そこでYumikoさんと待ち合わせて、今では佐世保で一つだけになっている映画館へ入りました。

牛久では、ちょうどぱぱが稀勢の里優勝パレードを楽しんでいるころ・・・。

月並みすぎる言葉ですが・・・本当に素晴らしかった。

当初は、拷問・処刑シーンが酷く恐ろしくて、観終わったあとは、さぞ後味の悪い暗い気分になるだろうと覚悟していたのですが・・・・

確かに、そういうシーンは盛りだくさんでしたけれども、後味はそんな嫌なものではなく、むしろ心がさぶん、ざぶんと洗われ、たましいが純化されるような気持ちになりました。

それにしても、自分の、キリシタン関係に関する知識、認識が、いかに浅くて単純なものであったかが分かって、愕然としました。

細部については、ネタばれになるので、書かないほうがいいかもしれませんけど、たとえば、踏絵。踏みさえしたらOKで無罪放免となるのだと思っていたら・・・そうじゃなかったのですね。役人は「それでお上を騙したつもりか。お前らの息遣いが荒くなったのを見逃してはおらぬぞ。」と言って、さらに、マリア像につばをかけ、淫売だとののしれと命じるという、二段スクリーニング?!でキリシタンをあぶり出す・・・聖母を心から崇拝するキリシタンは、それはさすがにできず、ついに、処刑されてしまう(長崎奉行の井上筑後守が、自身、出世のために洗礼を受けたことがあるため、キリシタンの弱みを熟知していたからだと!)その方法が、予告編にも見えますが、水磔(すいたく)といって、海中に立てた十字架に縛り付けて徐々に溺死させるものですが(水面に首が浸かってしまわないくらいの位置に設定して、数日間苦しませる)、それを他の村人たち対する見せしめとする、というなんとも酷いやり方です。

そして、フェレイラ神父についてですが・・・

一人の神学者としても誰からも尊敬され、日本における宣教活動のトップとして大きな責任を負っていた彼が、中浦ジュリアンらとともに、穴吊りの拷問を受けたとき、ジュリアンらが最期まで耐えて勇敢な殉教を遂げたにもかかわらず、自分だけたったの5時間で我慢しきれなくなり、棄教した。神父としても人間としても卑怯でダメな人物だと、軽蔑していました。だからこそ、彼との対比で、どんなに痛めつけられようとゆるぎない信念を全うしたジュリアンが、立派で高潔な人だと、私はずっと思ってきました。つまり、穴吊りという、キリシタン拷問方法のなかでもおそらく最も心身を苦しめられるそのおぞましい時間に、耐えられなかった=× 耐えられた=○ という単純な公式しか、私の頭にはありませんでした。

しかし、この作品を読み、観て、そんなに単純なことではなかったのが、やっと分かり、さらにいろいろと考えさせられています。

フェレイラは、肉体の苦しみに負けたから、「転んだ」のではなかった。少なくともそれだけが理由ではなかった。このようなおぞましい拷問を、多くの信徒たちも同様に受けていて、お前が転ばねば、彼らの命は救えぬと脅されて、言われる通りにするしかなかった。そして、何より、自分がそれまで固く信じてきた神に対して不信感、絶望が大きくなり、キリスト教そのものに意味を感じなくなった・・・そういうことなんですね。だったら、フェレイラを卑怯者とか弱虫とか呼べないように思えます・・・

人間のあり方って、そういうふうに一方的に優劣をつけられるほど、単純なものではない。

「転び」は、確かに深い闇ではあるけれど、その闇に一筋の光を当てたのが、遠藤周作氏ですね・・・。

物語の最大のクライマックス、フェレイラがロドリゴに、転べと説得する場面。。。穴吊りされて苦しみもがく哀れな信徒たちを目の前に、パニックになるロドリゴに、フェレイラは、どんなにカトリック教会の汚点だとか裏切り者だとか言われようと、今、目の前で殺されようとしている人々を救うのは何より大きな愛の行為なのだと言います。基督だって、自分のすべてを犠牲にしてでも人々のために転んだだろうと・・・これは、もしかしたら、誰かを自分と同じ裏切り者の仲間に引き入れたいだけの詭弁かもしれないけれど・・・あのぎりぎりの状況で、愛弟子だったロドリゴに対してフェレイラがしてやれることは、そういう理詰めの説得だけだったのかもしれません。

話はそれますが・・・迫害下において日本国内で活動していた宣教師たちを大まかに分けると、「棄教派」と「殉教派」に分かれて、どちらのグループも、それぞれの考え、思いがあったでしょうから、一概には言えないでしょう。(中には、単に肉体の責苦に我慢できなかっただけの人だっていたのかもしれませんが。)でも、ジュリアンのような殉教派が、何があっても、純粋に神を見ることができ、誰かが目のでどんなに苦痛で呻いていても、その先に神の愛を確信できたというのは、強かったというより、本人は幸せでしたよね。というと、究極の自己満足のようにも聞こえるかもしれませんが、殉教派にとっては、他人はどうでも、自分はそうするのが務め(定め?=神のご意思)と信じていたからですよね。遣欧使節としてローマへ赴いたジュリアンには、なおさらのことだったでしょう。

話を「沈黙」に戻しますが・・・ロドリゴが、転んだ後どういう人生を送り、どういう死を迎えたのか、についても、丁寧に描かれます。転びバテレンと言われる人たちも、人生の最期が訪れたとき、表向きは仏教徒の顔を続け仏教徒として葬られながらも、心のコアの部分では、信仰に立ち返ることがあったのではなかろうか、いや、一度は転んだからこそ、最期は真の信仰をみつけたのではないだろうか、という大きなメッセージが発せられていました。それは、原作にはなかった、スコセッシ監督からの、すべての人々に対する贈り物でした・・・仏教とかキリスト教とかの問題ではなく、人間誰しも人生の終焉で、コアの部分がどうありたいか、自分にとって一番の真実は何か、、その答えを出せたら幸せだなと・・・。

(そういえば、天正遣欧使節団の4人のうち、棄教して弾圧側に回った千々石ミゲルも、最期にはキリスト教に戻ったのではないか、と言われていますしね・・・。)

大絶賛されている日本人役者さんたちのなかでも、私が特に気になったのは、水磔に処せられる3名のうちの2人「モキチ」を演じた塚本晋也さんと「イチゾウ」役の笈田(おいだ)ヨシさん

水磔のロケは、かなりの程度まで実際に海の中でやったとか、どこかに書いてありましたけど(注1)、塚本さんは、殉教シーンの撮影中にこのまま本当に死んでしまっても構わない、と思えるくらいだった。自分にとってはそれほどの映画だった、と話していました(こちら)。そういう言葉を事前に聞いていたからかもしれませんが、塚本さんの話し方、表情にとても引き込まれました。

そして・・・ 笈田ヨシさん。彼は日本ではほとんど?知られていないのですが、パリを拠点にヨーロッパで活動している俳優さん(オペラ歌手/演出家)で、欧米ではかなり有名な方だそうです(詳しくはこちら)。

実は、20年前に中浦ジュリアンを主人公として描いた「アジアの瞳」という映画が、日本とポルトガルの合作として制作されたのですが、そのなかで、ジュリアンを演じたのが彼だったのです。

私は、この映画のことをつい最近知ってDVDを買いました(こちら レビューが素晴らしい)。ダイジェストをYouTubeで見られます。

asia-edit.avi

「アジアの瞳」では、ジュリアンとフェレイラが獄中で対話するシーンがあり、フェレイラは既にある程度、神に対する猜疑心を持ち始めていて、心が覚めてきており、その考えをジュリアンに投げかけるのですが、ジュリアンは絶対に揺るぎません。「沈黙」には、中浦ジュリアンへの言及は一切ないのですが、「アジアの瞳」で崇高な殉教者の姿を演じきった笈田さんを、スコセッシ監督が是非とも自分の作品にも殉教者として出て欲しいと望んだのではないでしょうか・・・?!そして笈田さんが「沈黙」で演じたのが、トモギ村の長(つまりかくれキリシタンたちのリーダー)で、「じいさま」と呼ばれて尊敬され、パードレがいなかった長い年月、その代理的役割をしてきた老人、イチゾウ。笈田さんは、現在なんと80代半ばですし、誰よりも、この役にぴったりという感じでした。「アジアの瞳」では穴吊り。「沈黙」では水磔。2回もの勇敢な殉教で(お疲れ様です~)こんなに魂を揺さぶってくれるなんて、彼以外にいないでしょう!

「アジアの瞳」についても、「沈黙」についても、たくさんの想いが溢れますが、また後日おいおい語るということで、今日のところはここまで。クリスチャンでもない能天気な人間のとりとめない感想ですし、勉強不足でお恥ずかしいですが・・・少しでも書き留めておきたかったのです。

皆さんの感想もお聞かせください。 (イギリスのYukoさんもご覧になりましたか?)

Yumikoさんと、「沈黙」を一緒に見られて、本当に嬉しかったです。なにせ、びびりの私・・・1人で観る勇気がなかったのですが、うまい具合に、佐世保でも2月3週目まで上映されていて、父三回忌でたったの2泊3日という短い滞在期間中に、しかも、法要が終わってすぐにかけつけてぴったりの時間帯の上映だったおかげで、地元でYumikoさんと堪能できたのです。稀勢の里パレードは見逃してしまいましたが、それを埋め合わせるに余りある時間を、父がプレゼントしてくれたのでしょう。お父さん、粋な計らい、ありがとうね!

 注1) 後からまたよく読んでいてわかったのですが・・・正確にいえば、干潮時のみ実際に海で撮影して、 満潮になって顔に水かかかるシーンから先は、超大型撮影用プール(各種の波を再現できる装置を備えている) を利用し、背景をCG合成したそうです。でも、人工波とはいえ苦しいもので、恐怖と戦いながらの必死の撮影だった、という趣旨の話を塚本さんがしています。(詳しくは、こちら。プールについては、こちらの「ロケ地について」の撮影用タンクの説明を参照。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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15 コメント

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観たくなりました (桃たろうの母)
2017-02-26 18:34:46
これだけの記事をアップする光くんままさん、すごいです。
なかなか思いを文字に変換するのは、難しい分野ですものね。

映画、観たくなりました。
その前に、もう一度本かなあ。
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フォーラム福島で (Keiko)
2017-02-26 22:37:49
桃くんの母さん、ありがとうございます!そうですね、とても難しいです!ネットで検索すると多くの人たちがもっと上手に語っていますが、自分は自分なりに書けばいいかなと。

スコセッシ監督は、基本、原作に忠実に作ったといっていましたが、ちょっと違う部分もあり、監督独自のメッセージを込めたりしているんですね。
映画は、たぶんもう殆どの地域で来週末くらいで終わりになるようですよ。。見に行けるお時間とれるといいですね。あ、今調べてみたら「フォーラム福島」という映画館で3/2まで。。。!

本を繰り返し堪能するのもいいですね~



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おはようございます (manami)
2017-02-27 09:04:41
映画は観ていませんが、何度も読み返した小説なので、Keikoさんの記事を読ませて頂いて凄く共感する部分がありました。
私、何度読んでも何を受け止めればよいのか、まったく分からなかったんです。
転ぶ=× 殉教=〇
私もずっと日本人的な倫理観みたいものに囚われてしまって、
転んだ後、日本名で生きたこともよく分からなかったです。
(書いてあることが作品上必要なのかも分からなくて・・。泣)

キリスト教の教義が分かっている人はこれほど悩むこともないんでしょうね・・。
マタイ受難曲を聴くと明るい旋律の対訳がとんでもなかった(死ぬのが嬉しいみたいな?)りして、
マタイもずっと分からなかったんです。
でも、最近はイエスが磔になっている姿が両手を広げて慈しんでくれているように私も見えるようになりました。
演奏会などで教会に行った時に、十字架にかかったイエス様の見ると、愛しくて涙が出てきます。

なので「沈黙」も今なら少しは分かるのかも?と、凹むのを覚悟で観てみたいです。
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ぜひご覧になってください (Keiko)
2017-02-27 16:32:50
manamiさん!!お久しぶりです。。。清盛掲示板も投稿がなくなってしまい、あそこで出会った方々とはもうお話できないのかな。。と寂しくなっていましたが。。今朝manamiさんのお名前をこちらで見つけて、信じられないくらい嬉しかったです!
(その後ちょっと出かけたので、お返事が遅くなりました)

manamiさんは、原作を何度も読まれたのですね。私は映画を見る前に1度だけ読んだのですが。。本当に難しいと思いました。ロドリゴが日本名を押し付けられて・・については、巻末の、漢文で書かれた切支丹屋敷日記の部分が、私も、一応目を通したのですが、何が書いてあるのか殆どわからないので、ここは単なる付録?だろうと思っていました。そしたら、映画では、この部分をちゃんと描いていて、それでやっと、ロドリゴが岡田になってから以降のキチジローとの関係がわかって、この関係がとても重要なものであることが分かったのでした。今いろいろ検索して読んでいるところです。

日記の内容については、こちらの回答者が、的確に説明しているみたいですね。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1136967356

なお・・記事中にも書きましたが、映画のラストが、スコセッシ監督独自のこだわりのシーンで終わっており、これは、見に行った人だけが味わえる感動ですよ!

マタイ受難曲やヨハネ受難曲・・恥ずかしながら、私は殆ど聴いたことがありませんが、これから聴いてみます!(なぜかここ数日、モーツアルトの「レクイエム」ばかり聴きたくなっていて。)manamiさんはよく研究されてるんですね。。「死ぬのが嬉しいみたいな」というのは、殉教で息絶えたとたんに、ラッパが鳴って天使が舞い降りて祝福されるみたいな、理想の明るい殉教?を賛美しているんでしょうかねえ。ロドリゴが、モキチヤイチゾウの水磔を目の当たりにして、殉教とはこんなに惨めで悲しいものか・・と愕然とするところが、原作にもありましたけど・・・ああーー私みたいなぬくぬく生きたい人間には、本当に難しい。。

イエス様の慈しみ・・私も、遠藤作品を通して、そういうものを少しでも感じられるようになれば、幸せだなと思います。

manamiさんのお住まいの地域で、上映期間が間に合うならば、どうぞぜひ観に行って、さらなる感想をお聞かせくださいね!凹んだりはしないと思いますけどね・・・むむむ。
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高校生の時に (金太郎の飼い主A)
2017-03-01 06:49:24
「沈黙」は高校生の時に読みました。
人間の心の表裏。
表裏の中にある、その人にとっての真実。
真実は、善悪ではないはないこと。
正義は振りかざすものではないことを、
漠然と感じたかなぁ。

高校生の私には「狐狸庵」シリーズの方が面白かったけど。

映画苦手。寝ちゃうのよ。
DVDになったら見るかな。

心を揺さぶられる作品に出逢えて、
しあわせだったわね。
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「侍」もいいですよ (Keiko)
2017-03-01 10:41:16
みゆきさん、ありがとうございます。10代で、しかも学校の授業とかで読んだという人多いですね。わたしは、長崎の学校だったにもかかわらず、、、まったく記憶にないんですけどね。

正義派振りかざすものではない、、いい言葉ですね。

ちなみに、同じ遠藤作品で、仙台藩の支倉常長をモデルにした、「侍」は読まれましたか?私は「沈黙」の前にそっちを読んだのですが、これがまた、話としてはめっちゃ地味なんですが魂揺さぶりまくりなんですよね・・・

こりあんシリーズも読んでみたいです。人間観察面白そう~~

DVDね、すぐに出ると思いますよ~~
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神の沈黙 (Yuko)
2017-03-03 20:30:07
Keikoさん、せっかく記事上でお声をかけていただいたのに、コメント遅れまして申し訳ないです。

映画は、ぜひ映画館でじっくり見たかったのですが、ケンブリッジでも、始まったと思ったら、あっという間になくなってしまいました。
映画の質としての評価は、イギリスでも非常に高かったのですが、テーマがテーマだけに、観客を動員できなかったのだと思います。本当に残念ながら、予算に対して興行成績は振るわなかったようですしね。 ですので、映画に対しては今はコメントできず、ごめんなさい。

小説の方は、30年ぐらい前に初めて読みました。「人間の受難に対する神の沈黙」というテーマに、非常に暗く、重い気持ちになったことを覚えております。
それでも、神はただ黙って見過ごしていたのではなく、「一緒に苦しみを背負って共有していた」という希望を感じさせてくれるものでもありました。
それは、まさにキリストの受難そのものなんですよね。一人一人の苦難は助けてあげられないけれど、皆の苦しみを背負って命を捧げるという意味で。

だから、色々な宗教がある中で、私にとっては、キリスト教が一番しっくりするというのは、この悲しみや喜びを共有するという部分なんですね。いわゆる行動する宗教で、教会(寺社仏閣)で信者が集まってただ一緒に祈って聖歌を歌うだけではなく、外に出て行って、未信者の人とも共に祈り、話し、学校を建てては教育に貢献し、病院を作っては病人を癒し、お金や物を寄付するという、常に何らかのアクションがあるからです。それを偽善的だと非難する人もいますが、何もしない偽善よりは何かする偽善のほうがよほどマシです。

室町から江戸にかけてのキリスト教弾圧に関しては、本当に本が何冊も書けるぐらい大きな問題ですけれども、宗教的理由と言うよりは政治的理由の方が大きかったということはわかります。
そして、先の戦時中でも、キリスト教は敵国の宗教と言うことで、プロテスタントの宗派は無理やり一つにまとめられ、それを拒否したある日本聖公会の主教などは投獄されているのです。
日本のキリスト教の歴史は苦難に満ちていましたね。。。。

ところで、私が文京区に住んでいた時に、近くに切支丹屋敷跡がありました。そういうご縁もあったのですねえ。感慨深いです。。。
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2017-03-03 23:44:23
Yukoさん、ありがとうございます。

映画は、そうですね、、、万人受けはしませんよね。。まあ、スコセッシ監督としても、自分が20年以上あたためていたものを納得のいくまで作りたかったということなので、ヒットしなくてもいいのでしょう。

「一人一人の苦難は助けてあげられないけれど、皆の苦しみを背負って命を捧げる」なるほど・・ちなみに、私は、基本的なことが分かっていないのですが、クリスチャンが「主」と呼ぶのは、神なのですか、基督なのですか?ざっと検索したところ、三位一体ということで、主=キリスト「主」は、神とキリストの両方を指すとか??
「沈黙」で、結局ロドリゴは基督の声を聞きますが、ということは、神は彼にちゃんと存在を示して何かをしてくれた、という理解でいいのでしょうか??

シェアし、行動するのがキリスト教・・これも、なるほどです。何もしない偽善よりは何かする偽善のほうがよほどマシ・・・そうですよね!

文京区の切支丹屋敷跡!ロドリゴのモデルとなったキアラ神父などが幽閉されていたところですね。石碑があるそうで、私もぜひ訪れたいと思います。



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三位一体は理解が難しい! (Yuko)
2017-03-04 06:20:25
おお、良いご質問が出ましたね~!
「主」とは、英語ではLordですが、ユダヤ教では父なる神のことを「我らが主」Our Lordと呼んでいたのですね。ですので、旧約聖書の中では、主とは父なる神のことです。
それが、イエス・キリストが出現し、神の子であると信じた弟子たちが、イエスを「
我らが主」と呼ぶようになったのです。
ということで、キリスト教では、「主」とは主にイエス・キリストを指していますが、父なる神のことを言うこともあるということですね。

The Father, the Son and the Holy Spiritが三位一体であるというコンセプトの解釈は難しいのですが、Google ImageでHoly Trinityと検索すると、わかりやすいGodを中心に据えた三角形の関係図が出てきます。
父は神であり、キリストは神であり、精霊も神であるので一体だが、父はキリストではなく、キリストは精霊ではなく、精霊は父ではないので、三者は別々でもあるという「ややこしや~」のコンセプトです。
ユニタリアンなど、この三位一体を否定する宗派もありますね。あくまで神は一人で、イエスは神である父の「子」ではあっても、神ではないという考えですね。

ロドリゴが、許しを請うために現れたキチジローの顔を見て聞いた「イエスの声」、確か「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」というのと、「弱いものが強いものより苦しまなかったと誰が言えるのか?」という言葉でしたよね。ロドリゴの単なる妄想か想像か、それとも本当に神の声を聞き、たとえ表面上では棄教したとしても、心の中で自らの信仰を守って生きていくことを決意したのかどうかは、読む人の考えにもよると思うのですが、これこそまさに、遠藤周作自身が、長い間自身の信仰について疑問を持ち、「神の沈黙」の理解に苦しみ続けてきた挙句にたどりついた回答だと思うのです。
神は人間の受難に沈黙しているのではなく、そばに寄り添って一緒に苦しんでいる。そして、神を裏切る弱い者に対しても、キリストがユダを許したように、弱く過ちを犯す人間を常に愛し、赦してくれる。何があっても揺るがない絶対的な愛と赦し。それがキリスト教の真髄だということを、遠藤周作は「沈黙」で訴えたかったのだと思います。

東北大震災、まもなく6周年を迎えますが、あの時、神も仏もあるのかと、激しい怒りを覚えたり、あるいは神が人間に下した天罰だと絶望する人も多かったと思いますが、あのように大規模な地震と津波という自然現象が、多くの命を奪うことになり、それを天罰どころか、神も自らが愛の力で生み出し、自由意志を与えた世界とそこに住む全ての生物の受難を、一緒に悲しみ苦しんでいたのだと思えば、慰められます。そして、その後の世界中の人々の反応と支援の規模は、まさに奇跡、人々の中には神の愛が宿っていると実感できました。

文京区小日向の切支丹屋敷跡では、数年前にキアラの後に幽閉されていた宣教師シドッチの人骨が発見され、その顔を復元したモデルが公開されましたね。記念碑が建っていますが、その近くの坂まで「切支丹坂」と呼ばれています。ぜひいつかお訪ねくださいね。
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Unknown (とむとむ)
2017-03-04 10:11:18
予告を見ただけで胸が苦しくなりました。
若いころはこういう小説や本もたくさん読んだけど、年を経るごとにその肉体や精神の苦しみを想像できるようになり耐えられなくなりました。
そしてその苦しみを与えることを行う人間の性?それが恐ろしいです。
深く考えるまえに放棄してますね、私。
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