八っつぁん、ひとっ風呂浴びて、家に帰ってきます。
「あー、いい気持ちだなあー、嫁さんが来るとなりゃあ、いいもんだろうなー。
だいいち家へ帰って飯を食うにしても、独りパクパク食ったんじゃ旨くもとも何ともありゃしねえや。
『おや、お帰りかい、さっきから待っていたんだよ』 何だいこれっきりか。『今月はこれで我慢おしよ』 冗談言うねえ、百姓じゃあるめえし、人参(にんじん)に牛蒡(ごぼう)で飯が食えるけえ、刺身でもそう言ってきねえ。
『八っつぁんはおかみさんが来てから、付き合いもしないで家で贅沢(ぜいたく)ばっかりしていると言われるのが辛いからさ』 いいからそう言ってきねえってことよ。『たまには女房の言うことを聞くもんですよ。これで食べておしまいッ』なんてな……」
「あー、いい気持ちだなあー、嫁さんが来るとなりゃあ、いいもんだろうなー。
だいいち家へ帰って飯を食うにしても、独りパクパク食ったんじゃ旨くもとも何ともありゃしねえや。
『おや、お帰りかい、さっきから待っていたんだよ』 何だいこれっきりか。『今月はこれで我慢おしよ』 冗談言うねえ、百姓じゃあるめえし、人参(にんじん)に牛蒡(ごぼう)で飯が食えるけえ、刺身でもそう言ってきねえ。
『八っつぁんはおかみさんが来てから、付き合いもしないで家で贅沢(ぜいたく)ばっかりしていると言われるのが辛いからさ』 いいからそう言ってきねえってことよ。『たまには女房の言うことを聞くもんですよ。これで食べておしまいッ』なんてな……」
「おや、八っつぁん。どうしたんだい? 嬉しそうな顔してさ」
「おっ、糊屋(のりや)の婆さんかい。なーに、今晩、この長屋に婚礼があるんだ」
「この長屋で独り者は、羅宇屋(らおや・煙管を手入れする商売)の多助さんとお前さんだけじゃないか。
羅宇屋の多助さんは、たしか七十八になったんだから、まさかお嫁さんも来やあしまいがね。
後はお前さんのところだけだよ」
羅宇屋の多助さんは、たしか七十八になったんだから、まさかお嫁さんも来やあしまいがね。
後はお前さんのところだけだよ」
「そうだ、そのお前さんのところへ来るんだ」
「へえー、そりゃ、ちっとも知らなかったよ。よかったね。おめでとう。そうだったのかえ、 ……いま酒屋から酒が来て、魚屋から肴(さかな)が届いたので預かってあるよ」
「どうも、すいません。 ……しめしめ、ありがてえ、先ず灯りをつけて、うん…… 酒屋は来たし、魚屋は来たし、後はこれで嫁さえ来りゃあいいんだ。
……ああ、ありがてえ。足音がする。ちゃらこん、ちゃらこん、ちゃらこんと来やがら、ああァ、家主が雪駄(せった)を履(は)いて嫁さんが駒下駄を履いて来やがった。
……何だい、ありゃ選択屋のかかあじゃねえか。草履(ぞうり)と駒下駄と履いていやがる。
どうもあのかかあてえのは、いけぞんざいなもんだね、ええ? おや、また足音がする」
……ああ、ありがてえ。足音がする。ちゃらこん、ちゃらこん、ちゃらこんと来やがら、ああァ、家主が雪駄(せった)を履(は)いて嫁さんが駒下駄を履いて来やがった。
……何だい、ありゃ選択屋のかかあじゃねえか。草履(ぞうり)と駒下駄と履いていやがる。
どうもあのかかあてえのは、いけぞんざいなもんだね、ええ? おや、また足音がする」
「ごめんなさい」
「へえ、おいでなさい」
「長々、亭主に患われまして、難渋のものでございます。どうぞ一文めぐんでやってください」
「殴るよ、冗談じゃない。婚礼の晩に女乞食に飛び込まれてたまるもんか。銭はやるから、さっさと帰れッ」
「おっおっ、八っつぁん、えらい勢いだね。 ……さあ、こっちへお入り。待たせたね。時に八っつぁん、この女だよ」
「あ、家主さん、どうも…… 」
「まあ、かしこまらなくたっていいよ。 ……さあさあ、こっちへお入り。
他に誰もいやあしないから、遠慮なんかしないださ。今日からお前さんの家なんだから……
おい、八っつぁん、どうして後ろを向いてるんだ」
他に誰もいやあしないから、遠慮なんかしないださ。今日からお前さんの家なんだから……
おい、八っつぁん、どうして後ろを向いてるんだ」
「へえ」
「さあさあ、二人ともこっちへ並んで、何もじもじしてるんだ。
この男は職人だから口のききようが荒っぽいが、決して悪気のある男ではない。
そこは勘弁して…… お互いに仲よくしておくれ。決して、二人して争いをしてはならん。
……いいか、万事略式だ。 ……杯を早くしなくっちゃいけねえ。
じゃあ、俺がこれで納めにする。 ……いや、おめでとう。後は、ゆっくりと二人で飯にするんだ。
長屋の近づきは、明日、うちの婆さんに連れて歩かせるからな。媒酌人(なこうど)は宵の口、これでお開きにするよ。はい、ごめん」
この男は職人だから口のききようが荒っぽいが、決して悪気のある男ではない。
そこは勘弁して…… お互いに仲よくしておくれ。決して、二人して争いをしてはならん。
……いいか、万事略式だ。 ……杯を早くしなくっちゃいけねえ。
じゃあ、俺がこれで納めにする。 ……いや、おめでとう。後は、ゆっくりと二人で飯にするんだ。
長屋の近づきは、明日、うちの婆さんに連れて歩かせるからな。媒酌人(なこうど)は宵の口、これでお開きにするよ。はい、ごめん」
「家主さん、ちょっと待ってくださいよ」
「俺がいつまで居たってしょうがない。また、明日来るからな」
「ああ、行っちまった。弱ったなあ。 ……へへへ、こんばんわ。おいでなさい。
ま、家主さんから、あなたさまの事も承りまして…… へへへ、お前さんも縁あって来たんだが、あたしのところは借金もないが、金もないよ。ま、何分よろしく末永くお頼み申します」
ま、家主さんから、あなたさまの事も承りまして…… へへへ、お前さんも縁あって来たんだが、あたしのところは借金もないが、金もないよ。ま、何分よろしく末永くお頼み申します」
「せんにくせんだんあってこれを学ばざれば金たらんと欲す」
(賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す・『ふつつかで無学ではありますが、勤勉にお仕え申し上げたく存じます』という意味)
(賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す・『ふつつかで無学ではありますが、勤勉にお仕え申し上げたく存じます』という意味)
「金太郎なんぞ欲さなくてもいいがね。ところで弱ったな。
家主さんにお前さんの名を聞くの忘れちゃった…… お前さんの名をひとつ聞かせてくださいよ」
家主さんにお前さんの名を聞くの忘れちゃった…… お前さんの名をひとつ聞かせてくださいよ」
「自らことの姓名を問い給うや?」
「へえ、家主は清兵衛ってんですが…… どうかあなたさまのお名前を…… 」
「父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は敬蔵、字(あざな)は五光。
母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢見て孕めるが故に、垂乳根(たらちね)の胎内を出でし時は、鶴女と申せしが、成長の後にこれを改め、清女と申し侍るなり」
母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢見て孕めるが故に、垂乳根(たらちね)の胎内を出でし時は、鶴女と申せしが、成長の後にこれを改め、清女と申し侍るなり」
「へえー、それが名前ですかい? どうも驚いたなあ。京都の者は気が長えというが、名も長え。
こいつは一度や二度じゃとても覚えられそうにもねえ。すいませんが、これにひとつ書いておくんなせえ。
あっしは職人のことで難しい字が読めねえから、仮名で頼みます……
えー、みずから、あー、ことの姓名は…… 父はもと京都の産にして、えー、姓は安藤、名は敬蔵、
あざなは五光。 ……何しろこりゃ長えや、俺が早出居残りで、遅く帰って来て、ひとつ風呂へ入ってこようという時に、おお、ちょっとその手拭を取ってくんな、父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は敬蔵、字(あざな)は五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢見て孕めるが故に、垂乳根(たらちね)の胎内を出でし時は、鶴女と申せしが、成長の後にこれを改め、清女と申し侍るなり、おやおやお湯がおわっちまわあ。
それに近所に火事でもあったときに困るな、ジャンジャンジャン、おっ、火事だ、火事はどこだ。
何、隣町だ、そりゃ大変だ。おい、みずからことの姓名は父はもと京都の産にして姓は安藤、名は敬蔵、あざなは五光、母は千代女と申せしが三十三歳の折…… 何てやっていた日にゃあ焼け死んじまわあ。
明日、家主に、もう少し短い名と取り替えてもらうとして、寝ることにしよう」
こいつは一度や二度じゃとても覚えられそうにもねえ。すいませんが、これにひとつ書いておくんなせえ。
あっしは職人のことで難しい字が読めねえから、仮名で頼みます……
えー、みずから、あー、ことの姓名は…… 父はもと京都の産にして、えー、姓は安藤、名は敬蔵、
あざなは五光。 ……何しろこりゃ長えや、俺が早出居残りで、遅く帰って来て、ひとつ風呂へ入ってこようという時に、おお、ちょっとその手拭を取ってくんな、父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は敬蔵、字(あざな)は五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢見て孕めるが故に、垂乳根(たらちね)の胎内を出でし時は、鶴女と申せしが、成長の後にこれを改め、清女と申し侍るなり、おやおやお湯がおわっちまわあ。
それに近所に火事でもあったときに困るな、ジャンジャンジャン、おっ、火事だ、火事はどこだ。
何、隣町だ、そりゃ大変だ。おい、みずからことの姓名は父はもと京都の産にして姓は安藤、名は敬蔵、あざなは五光、母は千代女と申せしが三十三歳の折…… 何てやっていた日にゃあ焼け死んじまわあ。
明日、家主に、もう少し短い名と取り替えてもらうとして、寝ることにしよう」
そのまま枕についたが、夜中になると、お嫁さん、かたち改め、八っつぁんの枕もとに手をついて、
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「えー、改まって何です?」
「一旦、偕老同穴(かおろうどうけつ・共に暮らして老い、死んだ後は同じ墓穴に葬られること)の契りを結ぶ上は、百年千歳(ももとせちとせ)を経るとも君こころを変ずること勿(なか)れ」
「へえ、何だか知らねえが、蛙(かえる)の尻(けつ)を結べって…… お気に触ることがあったら、どうかご勘弁を…… 」
烏(からす)がカァーと夜が明ける。そこは女のたしなみで、夫に寝顔を見せるのは女の恥というので、早く起きて、台所に出たが、ちっとも勝手が分からない。そこで八っつぁんの寝ている枕もとに両手をついて、
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「へい、へい、あーあ。眠いなあ。もう起きちまったんですかい…… 。
え?おい、わが君ってえのは、俺のことかい? うわぁ、驚いたな、何か用ですかい?」
え?おい、わが君ってえのは、俺のことかい? うわぁ、驚いたな、何か用ですかい?」
「白米(しらげ)の在り処、何れなるや?」
「さあ困ったな。あっしはいままで独り者でも、虱なんどにたかられた事はない」
「人食む虫にあらず、米(よね)の事」
「へー、米を知ってるのかい? 左官屋の米を?」
「人名にあらず。自らが尋ねる白米とは、世に申す米(こめ)の事」
「ああ、米なら米と早く言っておくれ。そこのみかん箱が米びつだから、そこに入っている」
八っつぁんは、また寝てしまった。お嫁さんは台所でコトコトやってご飯を炊き、味噌汁をこしらえようとしたが、あいにく汁の実がない。そこへ八百屋が葱(ねぎ)を担いで通りかかった。
「葱や葱、岩槻葱(いわつきねぎ)…… 」
「葱や葱、岩槻葱(いわつきねぎ)…… 」
「のう、これこれ、門前に市をなす賤(しず)の男」
「へい、呼んだのは、そちらで?」
「其の方が携えたる鮮荷(せんか)のうち一文字草(いちもんぐさ・長ネギのこと)、値何銭文なりや」
「へえ、大変なかみさんだな。へえ、こりゃ、葱ってもんですが、一把(いちわ)三十二文なんで……」
「三十二文とや。召すや召さぬや、わが君に伺う間、門の外に控えていや」
「へへー、芝居だね、こりゃ。門の外は犬の糞だらけだ」
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「ああ、また起こすのかい。 ……おい、冗談じゃないよ。朝から八百屋なんか冷かしちゃしょうがねえや。腹掛けのどんぶりにこまかい銭があるから、出して使ってくんねえ」
これで、すっかりお膳立てをして、また枕もとへ来て、両手をつき、
「あーら、わが君」
「あーら、わが君」
「あーら、わが君ってのは、止めてくれねえか。俺の友だちは、みんな口が悪いから、『あーら、わが君の八公』なんか、ろくなことは言わないから、何だい?」
「最早、日も東天に出現ましまさば、御衣(ぎょい・服を着ること)になって、嗽(うがい)手水(ちょうず)に身を清め、神前仏前に御灯明(みあかし)を供え、看経(かんきん・お経を黙読すること)の後、御飯召し上がられて然(しか)るべく存じたてまつる。恐惶謹言(きょうこうきんげん・おそれつつしんで申しあげるという意味)」
「おやおや、飯を食うのが恐惶謹言なら、酒を飲んだら、依(酔)って件(くだん)の如しか(そこで前記記載の通りであるという意味)」
お後が宜しいようで……