若旦那は、奉公するために桜湯へ向かいます。
「じゃまあ、行ってくるよ。 ……いやまあ、どうもあの鳶頭(かしら)も人はいいんだが、かみさんに頭があがらない。
……しかし、どうも人間の運なんて分からねえもんだ。昨日まで芸者、幇間(たいこもち)に取り囲まれて『あらまあ、ちょいと、おにいさん』なんか言われてた奴が、おやじのお冠が曲がって、出入りの鳶頭の家へ居候。今日からまた、お湯屋奉公しようとは、お釈迦さまでも気がつくめえってやつよ。
……ああ、ここだ。桜湯は…… こんちは」
「じゃまあ、行ってくるよ。 ……いやまあ、どうもあの鳶頭(かしら)も人はいいんだが、かみさんに頭があがらない。
……しかし、どうも人間の運なんて分からねえもんだ。昨日まで芸者、幇間(たいこもち)に取り囲まれて『あらまあ、ちょいと、おにいさん』なんか言われてた奴が、おやじのお冠が曲がって、出入りの鳶頭の家へ居候。今日からまた、お湯屋奉公しようとは、お釈迦さまでも気がつくめえってやつよ。
……ああ、ここだ。桜湯は…… こんちは」
「いらっしゃい。あ、あなた、そっちは女湯ですよ」
「えへへ、わたし、女湯、大好き」
「好きだっていけませんよ。どうぞ、こちらへ回ってください」
「いえ、客じゃありません。こちらへひとつ、今日からご厄介になりたいんですが」
「ご厄介?」
「ええ、橘町の鳶頭から、手紙を持ってきたんでねえ」
「ああ、手紙を…… 橘町の鳶頭から、ああ、話はありました。しかし、この手紙によると、あなた、名代の道楽者だっていうが…… 」
「えへへ、別に名代の道楽者ってほどのことはない。ただ女の子に回りを取り巻かれて『あら、おにいさん、いやよゥ、そんなところ触っちゃ、くすぐったいわッ』なんてね…… えっへへ、そういうことが好きなだけで…… 」
「大変な人が来たな。さあ、辛抱できるかな? では、始めのうちは外廻りからやってもらいましょうか」
「ようッ、結構。早速、やらせてもらいましょうか」
「若い人は、大抵、嫌がるからねえ」
「いいえ、どういたしまして。あたしは外廻りが得意で…… ええ、札束を懐中(ふところ)へ入れて、綺麗どころを二、三人お供に連れて、温泉湯場廻りをしてくるという…… 」
「そんな外廻りがあるもんか。外廻りというのは、車を引っ張って、方々の普請場(ふしんば・工事現場のこと)へ行って、木屑だの鉋(かんな)っ屑だのを拾ってくるんだ」
「ああ、あれですか? がっかりさせるなあ。どうも…… ありゃいけないよ。色っぽくないもの。
汚い車を引いて、汚い絆纏(はんてん)に縄の帯、汚い股引(ももひき)に、汚い手拭の頬被り、汚い草履(ぞうり)をつっかけて…… ご免こうむりましょう。あんまり音羽屋のやらない役だ」
汚い車を引いて、汚い絆纏(はんてん)に縄の帯、汚い股引(ももひき)に、汚い手拭の頬被り、汚い草履(ぞうり)をつっかけて…… ご免こうむりましょう。あんまり音羽屋のやらない役だ」
「贅沢(ぜいたく)を言っちゃいけない。そんなことを言ったら、あとはやることなんかありゃしないよ」
「ではどうです? 流しをやりましょう。女湯専門の三助ということで…… 」
「女湯専門なんてのがあるもんか。流しだって難しいんだよ。ただ客の肩へつかまってりゃいいてもんじゃないんだから、とても一年や二年じゃものにならないな」
「そうですか? では、その番台なら見えるでしょ?」
「見える? 何が?」
「何が…… だなんて、しらばっくれて。ひとりで見ていて…… ずるいぞ」
「弱ったな。この男は…… 何しろあたしか家内の他にあがらないところなんだから…… しかし、まあ、あなたは身元が判っているから、じゃ、こうしましょう。
仕事のことは、後でゆっくり相談するとして、わたしがご飯を食べてくる間、ちょっとだけ、代わりに番台へ座っておくれ」
仕事のことは、後でゆっくり相談するとして、わたしがご飯を食べてくる間、ちょっとだけ、代わりに番台へ座っておくれ」
「番台、結構、ぜひ一度、あがってみたいとかねがね思っておりました」
「待ちな待ちな。あたしが降りなきゃ、だめだ」
「へえ、そうと決まれば…… さあ、早く降りてください。早く、早く」
「間違えないように、しっかり頼みますよ。番台は見てりゃわけにようだが、なかなか難しい。
昼間はたいしたことはないが、夜分は目が回るほど忙しくなる。
それからね、糠(ぬか・今でいう石鹸のこと)といったら、その後ろの棚に箱があるから、糠袋もそこにある。流しは男湯が一つで、女湯が二つ、拍子柝(ひょうしぎ)を叩いてくれ。
履物(はきもの)に気をつけてな、新しい下駄でも盗られると、買って返すったって大変だから」
昼間はたいしたことはないが、夜分は目が回るほど忙しくなる。
それからね、糠(ぬか・今でいう石鹸のこと)といったら、その後ろの棚に箱があるから、糠袋もそこにある。流しは男湯が一つで、女湯が二つ、拍子柝(ひょうしぎ)を叩いてくれ。
履物(はきもの)に気をつけてな、新しい下駄でも盗られると、買って返すったって大変だから」
「へえ、へえ…… 行ってらっしゃい。ゆっくりと召し上がってらっしゃい。
ふっ、ありがてえ、いっぺん、ここへあがってしみじみと眺めたいと思っていたんだが…… ええ、こちらは…… 男湯、入ってるねえ。一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人…… ふーん、七尻ならんでるよ。
ふっ、ありがてえ、いっぺん、ここへあがってしみじみと眺めたいと思っていたんだが…… ええ、こちらは…… 男湯、入ってるねえ。一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人…… ふーん、七尻ならんでるよ。
あの三番目のは…… 凄い毛だなあ、たまには刈り込んだらいいのになあ、なんてえ汚え尻をしてるんだ。あれがフケツてんだ。
こっちの野郎は、またむやみに痩せてるなあ。胸なんかまるでブリキの湯たんぽだ。軍鶏(しゃも)のガラだよ……
こっちの野郎は、またむやみに痩せてるなあ。胸なんかまるでブリキの湯たんぽだ。軍鶏(しゃも)のガラだよ……
嫌だなあ、男とつき合いたくないね。男なんざ昼間から湯へ入って磨いたところでどうなるってんだよ。こいつらが出ちゃたら、入り口を釘付けにして男を入れるのを止めて女湯専門の湯屋にしちまおう。
さて…… と、問題の…… 女湯…… 何だ、一人も入ってねえのは、ひどいね。
それが楽しみで湯屋奉公に来たてえのに、こっちは…… でも、こうやっているうちに、今に女湯も混んでくるよ。『まあ、今度きた番頭さんは、本当に粋な人じゃないの』なんてんで…… 俺を見染める女がでてくるよ。
それが楽しみで湯屋奉公に来たてえのに、こっちは…… でも、こうやっているうちに、今に女湯も混んでくるよ。『まあ、今度きた番頭さんは、本当に粋な人じゃないの』なんてんで…… 俺を見染める女がでてくるよ。
こうなると…… どういう女がいいかな。堅気(かたぎ)の娘はいけないね。別れる時は、死ぬの、生きるのと事が面倒になるからなあ。といって、乳母や子守っ娘は、こっちでご免こうむるし……
主(ぬし)のある女は罪になっていけないし…… さあ…… そうなると、いないねえ。
主(ぬし)のある女は罪になっていけないし…… さあ…… そうなると、いないねえ。
芸者衆なんぞも悪くないけど…… そうだ、お囲い者てえのがいいや。旦那は、たまにしか来ない。
そういうのになると、湯へ来るのも一人じゃ来ないよ。女中に浴衣(ゆかた)を持たせて、甲の薄い吾妻下駄かなんか履いてね。カラコンカラコン…… 『へい、いらっしゃいまし、ありがとうございます。
新参の番頭で、どうぞ、よろしく』番台をチラリと横目で見て、スーッと墨のほうへ行ってしまう。
といって、わたしが嫌いじゃない。女中とこそこそ話しながら、ときどき番台のほうを見るのが嫌いじゃない証拠ってやつだ。
新参の番頭で、どうぞ、よろしく』番台をチラリと横目で見て、スーッと墨のほうへ行ってしまう。
といって、わたしが嫌いじゃない。女中とこそこそ話しながら、ときどき番台のほうを見るのが嫌いじゃない証拠ってやつだ。
しかし、ここが思案のしどころで、むやみにニヤニヤしちゃいけないよ。
なんてにやけて嫌な男だろう、なんて言われないとも限らないからなあ、かと言って、まるで知らん顔もできないから、二三度来るうちに、女中に糠袋の一つもやって取り入るよ。
『まあ、すみませんね…… たまにはお遊びに…… 』とくりゃ、しめたもんだ。
なんてにやけて嫌な男だろう、なんて言われないとも限らないからなあ、かと言って、まるで知らん顔もできないから、二三度来るうちに、女中に糠袋の一つもやって取り入るよ。
『まあ、すみませんね…… たまにはお遊びに…… 』とくりゃ、しめたもんだ。
早速、遊びに行って、お家を横領して…… 糠袋一つでお家を横領ってわけには行かないかな。
何かいいきっかけないかしら…… うーん、そうだ。上手い具合に釜が毀(こわ)れて体が空く。
そこの家の前を知らずに通りかかるなんてのがいいな。
何かいいきっかけないかしら…… うーん、そうだ。上手い具合に釜が毀(こわ)れて体が空く。
そこの家の前を知らずに通りかかるなんてのがいいな。
わたしの足に女中の撒(ま)いた水が掛かる。『あれッ、ごめんなさい』と、顔を見るとわたしだから『まあ、お湯屋(ぶや)のお兄さんじゃありませんか』、『おや、お宅は、こちらでしたか』、『ねえさん、お湯屋の兄さんが…… 』と奥へ声を掛けると、普段から思い焦がれていた男だから、奥から、こう泳ぐように出てくるねえ。
『まあまあまあ、よく来てくださったわねえ』、『いえ、今日はわざわざ来たわけじゃございません。お門(かど)を知らずに通りましたので…… 』、『まあ、いいじゃありませんの。それに今日はお休みなんでしょ』、『はい、今日は釜が毀れて早じまい』 ……いいセリフじゃねえなあ、こりゃなあ…… 何かねえか。
『まあまあまあ、よく来てくださったわねえ』、『いえ、今日はわざわざ来たわけじゃございません。お門(かど)を知らずに通りましたので…… 』、『まあ、いいじゃありませんの。それに今日はお休みなんでしょ』、『はい、今日は釜が毀れて早じまい』 ……いいセリフじゃねえなあ、こりゃなあ…… 何かねえか。
そうそう墓詣(はかまい)りなんぞいいなあ。『まあ、お若いのに感心なこと』こういう方は女にもさぞかし実があるだろう…… てんで二度惚れてえやつ。『いいじゃありませんの。さあ、お上がりなさいましよ』、『お家を覚えましたから、いずれまた』、『なんですねえ。そんなに遠慮なすって…… あたしと女中と二人っきり。誰もいないんですから、いいでしょ。ちょっとぐらいお上がんなさいましよ』
『いえ、後日、改めまして』女は行かれちゃ困るから、わたしの手を摑(つか)んで離さないよ。
『ねえ、あなた、お上がり遊ばせよ』、『いや、そのうちに』、『お上がりッたら』、『いいえ、また』
『お上がり』、『いいえ』、『お上がりッ』」
『ねえ、あなた、お上がり遊ばせよ』、『いや、そのうちに』、『お上がりッたら』、『いいえ、また』
『お上がり』、『いいえ』、『お上がりッ』」
「えっ?あの番頭の野郎だよ。見てごらんよ。お上がりッて、湯から上がれてえのかと思ったらね。
てめえの手をてめえで一所懸命引っ張ってるぜ。おい、おかしな奴が番台へ上がりやがった」
てめえの手をてめえで一所懸命引っ張ってるぜ。おい、おかしな奴が番台へ上がりやがった」
「面白いから、洗わねえで、番台を見てろよ」