気仙沼市のリアス・アーク美術館で行われている「わたしが選んだちひろ展in気仙沼」を昨日観にいってきた。
原画ではなく「ピエゾグラフ」(セイコーエプソン㈱によって開発された極めて高度なプリント創作技法)による展覧会であるが、違和感がなく普通に見ることができた。
その昔、いわさきちひろはあまり好きでなかった。
いかにも女性(女の子)が好みそうな絵で、サンリオとあまり変わらないのではないか(ファンの方失礼をお許しを)と思っていたのである。
それが、数年前信州を旅したとき「安曇野ちひろ館」を(やむを得ず)訪れ、その作品にじかに接し、彼女の生涯について知ったときから「いいんじゃないか」という気持ちに変わった。
ポワーっとしたというか、ぼんやりしたというか、そういう印象であるが、実はよく見るとそうでもないシャープなところがある。そして「空白」というか白の部分がいいバランスである。と思うのである。
とはいえ、この絵のついたアクセサリーなんかを持ち歩くのにはまだ若干抵抗があるのだが・・・
さて、今回、いわさきちひろは「戦争のない平和な世界」を望んでいたことを改めて知ったのである。
母が子をかばう絵を見て強いショックを受けた。われわれがいつも見ている絵とはちがうのだ。
世界的にはまだ紛争や戦争が局地的にあるが、我が日本は「戦争」について心配をすることもなく平和で自由な社会になった。少なくても明治末の日清、日露戦争から昭和の大戦までのような、社会全体を覆う危機感と焦燥感、不自由な社会ではない。
しかし、平和と自由な社会を得てわれわれは本当に幸せになっただろうか?
家族や隣人たちとのコミュニケーションは少なくなり、地域で助け合うことも少なくなった。
親が子を殺し、子が親を襲う。
平和な社会の中でも強いものが弱いものから命を含めて何かを奪おうとしている。
日本人すべてが目指す社会の形さえもない。
それが戦争のなくなった世界なのだろうか?
いわさきちひろの絵をみて、本当の平和とは真の自由とはなんなのだろうか?
なんて思ってしまったのである。
追伸
いわさきちひろの絵の中で好きなのは「ぶどうを持つ少女」なのである。
さらに、この展覧会は6月30日までである。(月・火は休館)
原画ではなく「ピエゾグラフ」(セイコーエプソン㈱によって開発された極めて高度なプリント創作技法)による展覧会であるが、違和感がなく普通に見ることができた。
その昔、いわさきちひろはあまり好きでなかった。
いかにも女性(女の子)が好みそうな絵で、サンリオとあまり変わらないのではないか(ファンの方失礼をお許しを)と思っていたのである。
それが、数年前信州を旅したとき「安曇野ちひろ館」を(やむを得ず)訪れ、その作品にじかに接し、彼女の生涯について知ったときから「いいんじゃないか」という気持ちに変わった。
ポワーっとしたというか、ぼんやりしたというか、そういう印象であるが、実はよく見るとそうでもないシャープなところがある。そして「空白」というか白の部分がいいバランスである。と思うのである。
とはいえ、この絵のついたアクセサリーなんかを持ち歩くのにはまだ若干抵抗があるのだが・・・
さて、今回、いわさきちひろは「戦争のない平和な世界」を望んでいたことを改めて知ったのである。
母が子をかばう絵を見て強いショックを受けた。われわれがいつも見ている絵とはちがうのだ。
世界的にはまだ紛争や戦争が局地的にあるが、我が日本は「戦争」について心配をすることもなく平和で自由な社会になった。少なくても明治末の日清、日露戦争から昭和の大戦までのような、社会全体を覆う危機感と焦燥感、不自由な社会ではない。
しかし、平和と自由な社会を得てわれわれは本当に幸せになっただろうか?
家族や隣人たちとのコミュニケーションは少なくなり、地域で助け合うことも少なくなった。
親が子を殺し、子が親を襲う。
平和な社会の中でも強いものが弱いものから命を含めて何かを奪おうとしている。
日本人すべてが目指す社会の形さえもない。
それが戦争のなくなった世界なのだろうか?
いわさきちひろの絵をみて、本当の平和とは真の自由とはなんなのだろうか?
なんて思ってしまったのである。
追伸
いわさきちひろの絵の中で好きなのは「ぶどうを持つ少女」なのである。
さらに、この展覧会は6月30日までである。(月・火は休館)