朝、起きると顔を洗うひとも多いと思われますが、森田療法の書物を読んでいて、疑問に思うのは、こういう日常性の継続をどのように考えているのかがよく分からないところです。
禅問答に、弟子が師匠に「仏とは何ですか?」と尋ねると、師匠が「朝飯は食ったかな?」と尋ねるので、弟子が「はい。食べました。」と答えると、
師匠が、「それなら、食器を洗いなさい。」と答えたとき、弟子は、仏を直感したなどというものがあります。
鈴木大拙の著作集にも引用されている話で、禅とは、そういうものだという例として使っていたと記憶しています。
森田療法でも、とりわけ、鈴木知準先生や宇佐晋一先生のような「体験重視」の先生に関する書物等でも、そのような記述があったりします。
一般には、師匠が「それなら、食器を洗いなさい。」といったとき、弟子が、「食器を洗うのですか?」と尋ねたり、ましてや、「仏(ほとけ)のことが知りたいのですが、、、」と再び問うたり、頭の中で「なぜ、食器を洗うのか?」と思うことも、
この禅問答では、不正解、すなわち、落第となります。
こういうのは、文章を読んで、意味は分かったとしても、そのこと自体が何かをもたらしてくれるわけではありません。
なので、このような言語の使用は、「療法」となります。本質は、体験的にしか分からないので、「体験療法」とされていたりします。
昂じれば、生活していくことでの工夫と言うことにもなりましょうし、お金も稼がねばならないので、生きていくこと、そのものとも言えます。次回は、「こころに工夫なし」です。工夫は、工学的なものに限ります。