工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

美しきヴェネツィアの風景・・・カナレット展を観てきました

2024年12月21日 | 日記

 先日、新宿のSOMPO美術館で開催の「カナレットとヴェネツィアの輝き」という展覧会を観てきました(12/28まで)。カナレットは18世紀ヴェネツィアで活躍した画家で、ヴェネツィアの風景を美しく、細密に描いたことで知られています。18世紀のヴェネツィアは文化の爛熟期とでも言いますか、既に地中海、欧州の経済大国ではなくなっていたものの、都市国家としての魅力は衰えておらず、折しもこの時代にイギリスの上流子弟の間で流行した「グランドツアー」と呼ばれる大規模な「卒業旅行」の行先の一つでもありました。

 こうしてヴェネツィアを訪れたイギリス人たちが買い求めたのがカナレットの絵とも言われており、今なら絵葉書を買うところでしょうが、裕福な人たちはこれらの絵を土産にイギリスに帰ったわけです。土産にできるサイズですので、巨大な絵は少なく、教会の聖堂を飾るよりも屋敷で飾れるサイズという感じです。ヴェネツィアでもカナレットの絵は美術館にありましたが、お土産で持ち帰った先のイギリスでも多くの美術館や個人が所蔵しており、今回の展覧会もイギリスの美術館から多数来ていました。

美術館入り口にて

 

 もともとヴェネツィアという街はどこをとっても「絵になる」場所ばかりでして、こうしたさまざまな名所をカナレットは描いています。今も変わっていないところも、変わってしまったところもありますが、しばし18世紀のヴェネツィアにタイムスリップした気分でした。ゴンドラも今より大きく、小さな船室を構えていますし、大運河を結ぶ橋もリアルト橋くらいです。名所だけでなく、元首が執り行う「海との結婚式」と呼ばれる行事なども、元首の御座船と共に描かれていますし、レガッタなども題材になっています。浮世絵的な言い方なら「名所ヴェネツィア百景」という感じです。

 細密な絵を描くことができた理由として、カメラ・オブスキュラと呼ばれる道具をカナレットが使っていたとされています。これは原始的なカメラであり、ピンホールを使って画像が写しだされるというもので、後の写真機とは違って画像を定着させることができませんが、それでも画家にとっては見たままの風景を写し取ることができたわけですから、便利な道具だったでしょう。展覧会場にもカメラ・オブスキュラを体験できるコーナーがありました。

 カナレットは絵画だけでなく、素描や版画も遺していて、版画などはなかなか見る機会がありませんでしたので、点数はそれほど多くありませんが、興味深いものでした。また、オーストリア継承戦争の影響もあり、イギリスからの「グランドツアー」が減ってしまうと、今度はカナレット自身がイギリスに出向いて、イギリスの風景を描いています。これもイタリアで見ることはありませんでしたので、新鮮でした。

 展覧会は同時代の画家や、甥のベルナルド・ベロットの作品もありました。甥のベロットはドイツやポーランドで活躍し、伯父さん譲りの細密で美しい風景画を描いています。その描写の正確さが、後年思わぬ形で役立ったそうで、第二次大戦の空襲で灰燼に帰したドイツのドレスデンの復興の際に、ベロットが描いた建物が再建の参考になったそうです。

 私が気になったのはこちら(ちなみに館内は一部を除いて撮影自由でした)。

18世紀頃の画家で作者不詳とのことですが、サンタ・ルチア聖堂とスカルツィ聖堂、とあります。手前のサンタ・ルチア聖堂は19世紀後半に鉄道がヴェネツィアまで通った際に鉄道駅の用地として取り壊されています。今は駅の名前(ヴェネツィア・サンタ・ルチア)として残るのみです。

また、スカルツィ聖堂のあたりも、後に大運河を渡るスカルツィ橋がかかり、風景は一変しています。私がヴェネツィアを訪れた際によく泊まっていたホテルがこのあたりですので、18世紀はこんな風景だったんだなと思わせます。ヴェネツィアは18世紀の終わりころにナポレオンのフランスの前に降伏し、共和制の国家ではなくなります。その後は大国の思惑に翻弄されるかのように「持ち主」が変わり、日本で言えば幕末、明治維新の頃に統一したイタリアに組み込まれ、今に至っています。

ヴェネツィアは政体が変わろうが、属する国が違ってもその後も多くの画家を惹きつけていて、展覧会ではモネなどカナレット以降の画家の作品もありました。ヴェネツィアと美術と言いますと、個人的には16世紀くらいまでのルネサンス期の画家に興味が行きがちでしたが、イタリア本国でもあまり見られないくらい、カナレットの作品を堪能しました。今も変わらない場所の絵を見るにつけ、手紙を書くと言ってずっとそのままになっていた現地の友人に、手紙を書いて送ろう、と思い起こさせた展覧会でもありました。

(12月21日に一部訂正しました。スカルツィ聖堂が取り壊されたと書きましたが、今も残っています)

 

 

 


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マナーとルールと、自由のあいだ

2024年12月06日 | 日記

 先日の岐阜基地航空祭の折に、飛行機に近い場所で持ち込みが禁止された物品を持ち込んだお客さんに対し、自衛官が土下座をしているような画像が出ていた、ということで航空祭と関係のない、しかもあまり楽しくないことが話題となっていました。時間帯、場所とも分かりませんし、私がその場に居合わせたわけではありませんので、このことについて、どうこう言うつもりはありません。また、航空機を愛する大多数のファンと、多くの一般の来場者の方なら普通に守れるルールの話など、今さら書くのもどうかと思いますが、こういった出来事全般への私見として、書かせていただきます。

 まず、航空祭で開放される基地でありますが、公園でもないし、ましてやテーマパークでもありません。本来なら一般の立ち入りなどが容易にできない、軍事的な場所でございます。公園やテーマパークだって、その場所のルールがあるわけですが、基地においてもそれは同じで、来場者は当然守らなければいけないルールもありますし、ルール以外の部分でも、マナーは守ってくださいね、ということになるかと思います。

 椅子やレジャーシートといったものを飛行場地区に持ち込めない、あるいは持ち込めたとしても飛行機から離れた場所に限ったりしているのは、椅子を止めている部品や、レジャーシートを何かのはずみで飛行機が吸い込んだら、エンジンが止まってしまうどころか、即・修理となってしまい、多大な時間と多額のお金(税金)が使われてしまうということは、このブログの読者なら説明の要は無いでしょう。税金払っているのに何が悪い、と言ったところで、あなたが1年で収める税金なんぞ、飛行機の数時間の燃料代かもしれません。長時間コンクリの地面に座ったり、立ちっぱなしでしたらそれは疲れるでしょうし、楽に過ごしたいという気持ちも分かるのですが、最前列で椅子など広げてしまえば一人の専有面積が広くなってしまい、周りにも迷惑がかかります。特に混み合うところでは譲り合うということも大切ですので、その方が車いすでもない限り、腰が痛かろうが足がつらかろうが、そこはどうか我慢してください、ゆっくり見たければ他の場所で、他の方法でお願いします、ということになろうかと思います。最前列という「特等席」を得ることは、それと引き換えに何かを我慢しなければいけないことを理解してほしいです。私は以前ほどガチに飛行機を追わなくなっているので、朝早くから最前列に陣取る、ということはしなくなりましたが、かつてそのようなことをした折には、自分の面積は最小限に、基本は座るまたは中腰にして、後ろでカメラを構える方の邪魔にならないようにしていました。

 鉄道ファンよりも航空機、とりわけ軍用機のファンの数が少ないからか、それとも対象が対象だけに規制は織り込み済みという意識が働くからか、私は「撮り鉄の迷惑行為」みたいなものは航空機に関しては見た記憶はありません。しかし、かつては航空祭ともなりますと最前列は脚立や三脚が並び、後ろの人は地上展示機を見られない、といったような時代もありました。ときどき航空誌の投書などでこういった行為に苦言を呈する読者もいらっしゃったのですが、なかなか規制されませんでした。いつの頃からか脚立、三脚の類は持ち込み禁止となっていたり、持ち込める場所を限定するなどの対策がとられています。

(1986年入間基地航空祭にて。前方に脚立の方が何人か見られます。その前にはF-5Eが!そして上空にはバートルです)

 また、地上展示機についても人が滞留しないようにロープか何かでエリアを区切り、歩行しながら見たり、写真を撮ったりしてね、ということもあり、確かにその方が人の滞留も少なく、みんながまんべんなく見られるように感じます(一部の美術展でも目玉作品ですとこういった方法は見かけます)

 もっと徹底しているのはモータースポーツの世界でして、鈴鹿サーキットでは観客席に持ち込める望遠レンズの長さをあらかじめ制限していたかと思います。F1日本GPでも、長く、大きなレンズを装着したカメラを持つファンは、専用のビブスを着用し、カメラマンエリアと呼ばれるところからシャッターを切っています。こういう方がよほどすっきりしています。

 マナーやルールが守れなかったり、それが元で事故になるのはコアなファンよりも地元でたまたまカメラを持っていた人が原因、などという話を聞いたことがあります。航空祭も私が基地に通い始めた10代の頃に比べますとたくさんの方が来場されますし、自衛隊への理解が進んだことや、ときにはテレビドラマの題材になったことで、これまで飛行機など見向きもしなかった層も来場しています。私もどこかで迷惑をかけているかも知れませんし、偉そうなことを言う資格もないわけですが、せめて我々ファンは、節度ある行動で楽しく航空祭の一日を過ごしたいものだと改めて思いました。

 こちらの写真はかつて(1987年)の入間基地です。ロープが外されているので15:00以降に「イベントはすべて終了したからみんな帰りましょうね」となっている時間帯かと思います。地面をご覧ください。たくさんのごみが落ちています。近年はマナーやリサイクルの意識が高くなったのか、こういう光景は見かけませんし、基地によっては「ごみは持ち帰って」とアナウンスしているところもありました。

 それから、これは大切なことですが、基地でもサーキットでも、万が一のことは起こります。そして、そのリスクは公園やテーマパークといった場所よりも高いでしょう。もちろん、万が一が無いに越したことはないのですが、安全への配慮と、自分や同行者の身を守ることも、どうかお忘れなく。

あの頃はこういった機体をカメラに収めるのも一苦労でしたし、親から借りた一眼レフも35-105mmといったレンズでしたので、上空の飛行機の写真などは小さく写るのみでした。それ故に地上での飛行機と隊員の姿の方に目が行くようになりました。

 


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埴輪 はにわ! ハニワ!!

2024年11月16日 | 日記

  今秋は埴輪好きにはたまらない展覧会が開催されています。私も高校生の頃、東京国立博物館で埴輪としてはみんなが知っている「踊る人々」を見て衝撃を受け、以来、仏教以前の日本の美術、さらには考古学といった分野まで興味が広がりました。今日のように多くの人が訪れるより前に古代からあるような神社を訪れたり、考古遺物の展示を喜んで見に行くようになったわけです(仏像、お寺への傾倒は社会人になってからでした)。

 そんな私ですので、上野の国立博物館で開催の特別展「はにわ」は大変楽しみにしておりまして、入間基地の話と前後いたしますが、10月に見に行ってきました。

 今回の展覧会、有名な「挂甲の武人」が国宝指定されてから50年という節目もあっての開催のようです。

看板中央が200円切手でおなじみ「挂甲の武人」です。

 

 まずはお出迎えがこの2体、踊る人々です。

(写真は博物館サイトより拝借)

埼玉県で発掘されたこの埴輪、以前は髪型などから「踊る男女」として記載されていました(右側・小さい方が男です)。驚いたような、喜んでいるような独特の表情とポーズがたまりません。近年では踊っているのではなく馬を牽いているという説もあるようですが、やっぱり踊っているようにしか見えません。実はこの2体、近年大規模な修復を行い、きれいになって戻ってきました。それにしてもシンプルな造形、個人的には「二体分粘土があるから、これでなんか作ってよ」と言われて当時の工人が作ったように思えます。逆に狙って作れるようなものではないかも。目と口は指で突いて穴を開けたようにも見えます。この二体だけがそうではなく、ここで出土した他の埴輪の顔もこんな感じでした。

 今回展示されているものの多くが、どこかで以前お会いしたものが多く、メスリ山古墳の巨大円筒埴輪をはじめ、全国各地で展示されているものが来ています。個人的にはこちらが衝撃でした。

顔つき円筒埴輪。顔のついた円筒埴輪は珍しいです。なんで顔付けたのかなあ。動物の埴輪についても「見返りの鹿」意外に全国各地にあるなあとか、意外な発見がありました。やはり奥が深い。

今回は「挂甲の武人」の5兄弟勢ぞろいということで、おそらく同じところで作られ、群馬県内のあちこちの墳墓に置かれ、後世に出土後は国内の博物館に、さらにはアメリカに旅立った五体が揃うということで、一つの展示室に集められていました。

こちらは五体のうち1体。今は奈良県・天理大が所蔵しています。解説の中で5体の中には「1体から2体を修復したという説もある」という記載があり、ほほう、と思いました。めったなことは書けませんが、現代の学術的な調査とは違い、発掘と盗掘、修復と改変が表裏一体だった時代もあった、と書くにとどめておきましょう。また、実際に墳墓の上に立っていた頃にどのような色だったかを復元した武人埴輪も展示されていました。墓の造営は現代の公共工事のようなものだったでしょうし、埴輪の製作も、他の地域への供給も含めて計画的に行われていたのではないかと思います。

こちらの武人はともかく、人物の多くは喜びを表現しているものが多いですし、兵馬俑のような整然とした感じは見られず、いい意味でルーズさがあります。農夫も、盾を持った人物も、時にはへらへらしていますし、稚拙ではあるものの頭に壺を乗せ、幼子を背負った埴輪などは、人間生活の営みそのものという感じがいたしまして、被葬者が生前に「いつもの暮らしと同じような埴輪を作って」とリクエストしたのではないかと思います。

水鳥の埴輪。動物は馬、犬、鹿、牛、猿、魚など実にさまざま

 

人物にはこんなものも。力士です。

 

グッズも自分にとっては目新しいものは少なく、図録などを買って会場を後にしました。それこそTシャツからネクタイ、ミニチュアに至るまで(いや、でかいのもいるなあ)持っておりますので、それだけで「モノものがたり」何回分にもなりそうです。

普段、埴輪を含めた日本の考古遺物は特別展「はにわ」が開かれている「平成館」の1階にいます。留守を守っているのはこちらでした。

盛装の女子です。こちらも女子像としては代表的で落としてはいけないものです(って落としたら割れちゃうから)。

その昔、埴輪も含めた考古展示物は国立博物館の「表慶館」で展示されていました。人もまばらな館内で、埴輪や土偶、銅鐸を独り占めして観た頃が懐かしいです。表慶館はクラシカルな内装も含めて好きです(写真は博物館公式サイトより)。

 

さて、日を改めて、今度は国立近代美術館で開催の「ハニワと土偶の近代」も観てきました。国立博物館が埴輪そのものなら、こちらはハニワや土偶を明治以降の日本人はどのように見つめてきたか、というテーマです。ここでは「はにわ」ではなくカタカナの「ハニワ」です。ポップな感じですね。ハニワは抽象・具象問わず絵画をはじめさまざまな形で描かれ、ついにはコミックや教育番組にまで進出していますが、日本神話との関連付けからとらえられていた時代が長く続きました。戦前のハニワの展示の様子も触れられていて「踊る埴輪」が当初は石こうと思われる白い部材で下半身のほとんどが補強、補修されていることが分かります。ハニワは戦後、より学術的な対象として捉えられるようになりますが、そこに現れたのが岡本太郎ほか現代芸術の旗手たちで、彼らは古墳時代の埴輪よりもさらに遡った縄文土器や土偶の美しさに魅かれるようになります。ここでハニワは土偶に「追い上げられた」わけですが、今もハニワは根強い人気を見せていて、この人たちも「復活」しています。

はに丸様は「はに丸王子」ですから(byひんべえ)「大王(おおきみ)に、オレはなる」と言っているのでしょうか(おいおい)。

こちらの展覧会の方が、初めて見聞きするものが多く、得るものが多くありました。ハニワ好きならぜひ見ておくべきです。私自身が高校生から大学に入ったあたりまでしばらくは、日本とは、日本人とは、ということをよく考えていて、仏教以前の日本・つまり古墳時代の美術からひもとくべきなのか、さらにそれ以前の縄文時代まで遡ってこそ、日本なのかといったことを自分なりに模索していました。やはり自分もハニワと神話をどこかで結び付けて見ていたことは否めません。ついでに岡本太郎の著作に感化された一人でもあります。これは答えが出ないもののようにも思えますが、10代の頃、表慶館で観たハニワや土偶たちのことを思い出しながら、美術館を後にしました。

土偶に関しては「原始芸術」の感がありまして、海外でも15年前にイギリスの大英博物館で特別展が開催され、たまたまロンドンを訪れていた時でしたので、見た記憶があります。ハニワに関してはどうでしょうか、古墳時代は西洋では古代ローマが終焉の時を迎え、中世の入り口と言う感がありますが、それ以前のギリシャ・ローマ時代にはかなりリアルな彫刻が遺されています。素朴でユーモラスな造形はそれはそれで日本のオリジナルにも見えます。西洋人はどうとらえているのか気になるところです。

 

なお、お気づきかとは思いますが、後半部分では国立近代美術館の展覧会のタイトルに合わせ、あえてカタカナの「ハニワ」という表記にいたしました。

 

こちらはだいぶ前に東京国立博物館で買ったはにわ柄の手ぬぐいとはにわ、土偶柄のネクタイ(右)。気に入って使っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


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王族、貴族とグランプリと、オリンピック

2024年07月28日 | 日記

 このところブログをほったらかしで失礼しました。模型でちょっと大きめのものをやっていて、締め切りが近いものですからどうしてもパソコンの方に向かう時間がなかったり、仕事が忙しいまま(これは来春まで変わらない)だったりというのもあり、久々の投稿です。

 パリ五輪が開幕し、たくさんのお客さんの中で選手たちが健闘されているのを観ると、やっぱりお客さんを入れてこそ盛り上がるよなあという感じで、東京大会になまじ中途半端に関わってしまったものですから「忘れたいけど思い出せないのだ(Ⓒバカボンパパ)」という感慨を持ってしまうのです。

 さて、先日「フェラーリ」という映画を観た話を書きましたが、そこにもポルターゴ侯爵ら貴族出身のドライバーが出ていました。自動車が一般にいきわたる前の時代では、自動車を持つことができ、さらにそれを「レース」という道楽に使える層となりますとだいぶ限られます。古代~中世において騎士が馬具、武具を自費でひと揃えしたのと同じで、自動車レースもお金がかかるわけです。F1でもポルターゴ侯爵、フォン・トリップス伯爵(ドイツ)などが出走していましたし、90年代にもシチリア貴族の血を引くというラバッジというドライバーがミナルディにいました。ピットウォールでドライバーに情報を伝えるラバッジのサインボードには「CONTE」(伯爵)と表記されていたと聞きます。また、王族では以前ご紹介したタイのビラ王子もいました。

 さて、こうしたやんごとなき方々の中にはF1に飽き足らずほかのスポーツにも挑戦、中には五輪に出場した方もいました。ポルターゴ侯爵は1956年(先日の映画の舞台になった前の年のことですが)の冬季五輪にボブスレー2人乗りのスペイン代表として出場、4位に入る健闘ぶりでした。また、ビラ王子はレーシングドライバーを止めた後にセーリングの選手として1964年の東京大会を含め、何度か五輪に出場しています。

 で、一つ気になったことがありました。今ほどではなかったにせよ、レーシングドライバーはメーカーと契約すれば報酬も得ますし、自費でマシンを揃えるプライベーターであってもレースでそれなりの報酬を得ているわけですから、そういう人たちがアマチュアスポーツの祭典だった頃の五輪に出場して問題なかったのか、という疑問です。F1を含め自動車レースが現代のように大量のお金と人が動くスポーツになる前だったということもありますが、プロスポーツであり、特に入賞すればお金を得ることには変わりはありません。やはり、王族、貴族はそれが「職業」であり一般とは切り離された「別の世界」の人々ということだったのでしょうか。IOCは今も王族だったり、爵位を持つ人たちで占められていますからね。私自身はここで君主制や貴族制度をどうこう言うつもりはありませんが、F1をはじめ西洋発祥のスポーツでよく語られる「ヨーロッパ文化の森」とやらも、霧がかかっているというか、だいぶかすんで見えてしまうことがあるのです。

 かつての五輪と言えばアマチュア以外に参加は認められず、社会主義国や西側の国ではイタリアもそうですが、公務員の立場で鍛錬を積み、試合に出場する「ステートアマ」だったり、社業はほどほどで企業にアスリートとして所属する「企業アマ」を本当の意味でアマチュアと呼べるのか、といったことが指摘されたこともありました。ポルターゴ侯爵については現役のF1ドライバーですし、ビラ王子も引退していたとはいえ、元プロスポーツ選手という立場です。1912年のストックホルム大会でジム・ソープというアメリカの陸上選手が金メダルを獲得するも、学生時代に夏休みに野球のマイナーリーグでプレーしていたことが理由で、メダルをはく奪といったこともありましたし(アメリカ先住民の血を引くソープに対する人種差別の面もあるようですが)、1970年代くらいまでアマチュアに対する縛りというのはかなり厳格だったように記憶しています。余談ですが日本でもバラエティ番組に無断で出演したら即引退、みたいな縛りがあったと聞きます。メディア出演のマネージメントを芸能事務所に依頼する選手がいる現在とは大きな違いです。

 このブログにしては少々小難しい話を書いてしまいました。鉄道への妨害行為があったり、大雨の中で開幕など、100年ぶりのパリ五輪も波乱のスタートとなりましたが、あとは無事に大会が運営され、選手たちの活躍が見られることを期待しています。国や人種は問わず、すごい人たちの博覧会であることには、今も昔も変わらないわけですから。

 

 


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レパントの海戦に参加したサムライの話 その2

2024年04月01日 | 日記
(前回から続く)
日本から長い時間をかけてヴェネツィアに辿り着き、蛭子十郎太から「アゴスティーノ・イルコ」と名乗るようになった青年は、ヴェネツィア人として生きていた。肌の色の違う彼を、ときに地元の人々は好奇の目で見ていたが、ヴェネツィアの言葉も、ラテン語やギリシャ語の一部、中東で話される言葉もカタコトなら解していたので、単に使用人以上の存在とみなされるようになっていった。彼もまた、活版印刷が盛んなヴェネツィアで書物を手にすることが増え、さまざまな「情報」に触れていた。ただ、イルコ自身は出自や肌の色が違う人たちに親近感があったようで、ゴンドラを漕ぐ黒人奴隷や、やはり異国からやってきた船乗り、商人たちとも言葉をよく交わしており、その行動はヴェネツィアの情報機関「十人委員会」からも監視の対象にはなっていたが、好ましからざる人物ではなかった、と当時の報告書に記載がある。
やがて、ヴェネツィアとオスマントルコの間が風雲急を告げるようになった。オスマントルコがヴェネツィア領だったキプロスを攻略、激しい攻防戦の末に陥落せしめたのだった。オスマントルコの勢力は欧州にも影を落とすどころか、16世紀にはウィーンの近くに迫ったこともあった。ここで紆余曲折はあったものの、対トルコの同盟を欧州諸国が結び、連合艦隊が組まれることとなった。そうは言っても艦船の多くは当時第一の海運・海軍国だったヴェネツィア共和国が提供した。

(海軍史博物館のレパントの海戦の部屋に展示されているガレー船の模型)
 こうして1571年10月に起きたのが、キリスト教国の艦隊とオスマントルコの艦隊が激突した「レパントの海戦」だった。アゴスティーノ・バルバリーゴも指揮官の一人としてガレー船に乗り込んでいた。そして傍らにはアゴスティーノ・イルコもいた。当初、バルバリーゴはキリスト教国の連合艦隊に異教徒のイルコを入れることには積極的ではなく、本国に置いていこうとしたが、イルコは「仕えた家に忠義を尽くすのが武士である」と譲らず、緋色の船体のガレー船に乗り込んでいた。その姿はどこか日本の武士のようにも見えたが、違うのは彼が上半身に西洋式の甲冑を身につけていたことで、銀色に鈍く光っていた。兜は一見日本のそれのように見えるが、やはり金属製で、前にはバルバリーゴ家の紋章が入っていた。両腕は鎖帷子のような装甲の上にさらに追加された装甲で覆われ、足はわらじではなく、さすがに革でできた靴だったようである。
 当時の海戦は大砲、鉄砲、弓矢といった飛び道具だけでなく、船から相手の船に乗り込んでの白兵戦もしばし行われた。バルバリーゴ率いる艦隊の左翼とて同じでトルコの有力な海賊の一人シロッコ率いる艦隊と激しい交戦となった。そんな中、バルバリーゴを一発の銃弾が襲った。それを見たイルコは、シロッコの船に飛び乗り「狙うはシロッコが首のみ」と叫び、刀を抜いて敵の中に飛び込んでいったという。シロッコはこの時の戦闘が元で、数日後に亡くなった。トルコの軍船の中には彼と同じような肌の色をした青年がいて、捕虜となったという。

(ガレアッツアと呼ばれる大砲を装備した大型のガレー軍船の模型。海軍史博物館にて)

 その後、イルコがどこに消えたのか、その行方は杳として知れない。イルコは戦闘を生き延びたと言われているが、主人のバルバリーゴが戦死したことで居づらくなったと感じたのか、ヴェネツィアの街で彼を見たものは居なかったという。彼を慕うダルマツィア出身の船乗りや、捕虜となっていた後にイルコの手引きで「解放」されたイルコと同じ肌の色の男とともに、細身のガレー船を駆り、アドリア海で交易と海賊のようなことをしていたという説もあれば、このあと10数年後に起きたアルマダの海戦でイギリス側にいた、という説もある。
 そんな話、噂やウソに決まっているではないか、とおっしゃる方もいるだろうが、ちょっと待ってほしい。ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)にある「国会議事堂」に相当する大評議会の間には、レパントの海戦を描いた大きな絵画が飾られている。その中に武士のような恰好をした兵士が描かれているのを見ることができる。また、同じ建物に16世紀頃の武具などを展示した部屋があるが、そこには日本の火縄銃(短筒)のような銃器が展示されているのである。

(右手前・ピンクの建物が元首官邸)


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