工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

年末あれこれ・・・てっぱくの後は、こちらにも

2024年01月07日 | 自動車、モータースポーツ
 昨年末のブログで鉄道博物館を訪れた話を書きましたが、そのあとはこちらも訪問しました。青山にありますホンダのウェルカムプラザです。ちょうど年内の開館がこのあたりまでで、タイトルを獲得したマシンなど(ショーカー含む)が展示されていました。
 なお、年明けからは展示が変わっていると思いますので、あくまでも参考程度にご覧ください。
 レッドブルのF1マシン。フェルスタッペン、本当に強かったですね。


 色も形も似ていますがこちらは国内のスーパーフォーミュラのマシン。野尻、ローソンの二人です。ローソンは昨季F1デビューを果たしました。


 角田裕毅のスペシャルヘルメット(ラスベガスGP用)

 そのラスベガスではガンダムとコラボしていました。それをあしらった展示となっていました。

アルファタウリ柄のガンダム、なかなかかっこいいです。普段ガンプラは作らない私ですが、これなら欲しくなる・・・と言いたいところですが製品化は無いとか。

NSXはモックアップモデルだそうです。


シビックTYPE-R


もちろん二輪関係も。8耐優勝車をはじめ、いくつも展示されていました。



このマシン、またがって写真が撮れるようになっていしまた。コーナリングするライダーになれますね。


もともとこの展示、12月中旬に家人が豚児を連れて見に行っています。豚児も初めて見るレーシングマシンに大満足だったようで、その日は買ってもらったHOTWHEELのミニカーで遊んでおりました。




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「じゃない方」のホンダがフィーチャーされたのは・・・ロータス100T

2023年11月17日 | 自動車、モータースポーツ
 前回に続いて三栄の「GP Car Story」の話です。先日発売されたのはロータス100Tという1988年のシーズンを戦ったF1マシンを特集していました。

 このマシンの特集が前号で予告された時には少々驚きました。この「GP Car Story」は、グランプリの名車だったり、日本のファンにとってエポックメイキングなマシンを主に特集しています。しかし、ロータス100Tというマシン、これと言った成績を残していません。このシーズン、ウィリアムズでタイトルを獲得したネルソン・ピケが移籍、2年目の中嶋悟とコンビを組みました。最高位はピケの3位がある程度で、中嶋も参戦2年目でだいぶ慣れて、予選で上位につけたこともありましたが入賞1回(当時は6位以内が入賞)で不得手な市街地で予選落ち2回という残念な経験もしています。一方でロータスと同じホンダエンジンのマクラーレンはロータスから移籍のアイルトン・セナとアラン・プロストの二人が圧倒し、二人で16戦15勝、セナが初の王座に就いたことは、レースの歴史に詳しい方ならご存じでしょう。同じ最強のエンジンを積みながら、なぜロータスは勝てなかったのか、そのあたりが本号では解き明かされています。
 当事者の中嶋悟、川井一仁両氏の対談によれば「剛性の無いマシン」と中嶋さんも評価しており、引退後に乗った1988年のマクラーレン・ホンダを「こんなにドライブしやすいマシンだったのか」と驚嘆しています(これは鈴木亜久里さんもイベントか何かのときに話していました)。チームメイトのピケもマシンの剛性のなさ、出来の悪さについては同様な評価で、特にピケはメカニズムに明るく、それを自分の言葉で伝えられるタイプのドライバーでしたので、インタビューが載っておりますがなかなか興味深い話ばかりでした。

(2018年鈴鹿にて)

 ロータスは前年を99Tというマシンで戦いました。こちらはアクティブサスペンションを採用するなど「攻めて」いたのですが、なかなか熟成が進まず、セナが市街地で2勝(結果的にロータスとして最後の優勝)どまりで、ウィリアムズ・ホンダが終始優位にシーズンを戦っていました。


(ロータス99Tとパワーの源泉、ホンダV6ターボ)
 1988年はターボエンジンにとって最後のシーズンでした。毎年のように積載燃料の制限、過給圧の制限とターボエンジンに対して手かせ足かせが掛けられておりました。一方でウィリアムズ、ベネトン、レイトンハウスなどは3.5リッター自然吸気エンジンを載せている、というのがこのシーズンでした。ロータスのマシンのデザインに関しては、87年型のフェラーリを参考にしているということで、確かに並べて見るとよく似ています。

(フェラーリF187)

(ロータス100T。ドライブは中嶋悟自身によるもの。いずれも2018年、鈴鹿にて)
 中嶋・川井両氏の対談にもありましたが、中嶋氏自身は2年目で手ごたえをつかんだところもあったということで、それが予選での好調にも現れていたようです。前年までのチームメイトとの差はだいぶ縮まり、特にベルギーでは僚友ピケより好タイムをマークしていますし、予選でトップ10に幾度も入っています。ただ、エンジントラブルに泣かされたり(本書では言及はありませんでしたが、エルフガソリンとのマッチングを指摘する声を聞いたことがあります)、凱旋レースの鈴鹿のように予選6番手につけながらスタートでエンスト、最後尾から追い上げて7位フィニッシュというレースもありました。故・海老沢泰久氏の「F1走る魂」によれば、87年の過給圧4バールのエンジンはパワーが有り余っており、中嶋はあえて過給圧を下げて、必要なときだけフルパワーにしていたといいます。また、故・今宮純氏が以前書いていましたが「エンジンパワーが必要なところだけで欲しい」ということで今でいうところのトラクションコントロールみたいなものが作れないかとホンダに打診したという話も聞いています。88年は過給圧が下がったことで好都合に働いていたということでしょうか。
 ピケについては前年のチャンピオンですから大いに期待されたところで、おそらくチームもマクラーレンとの優勝争い、タイトル争いを期待していたと思われますが、表彰台の端に立つのがやっとで、これが名門ロータス最後の表彰台となってしまったのは残念なところです。チームも期待外れだったと言わんばかりです。ただピケの場合、本書には言及はありませんが前年のサンマリノ(イモラ)でのクラッシュの後遺症に悩まされていたとも聞いていますので、何らかの影響が出ていたのではとも思います。本書と前後して刊行されたレーシング・オン誌がセナ・プロスト対決を特集していて、プロストへのインタビューでは、ホンダは当初、マクラーレンにピケを乗せようと考えていたとも言われており、それに対してセナを推したのがプロストだったという話が出ています。プロストにとっても、若いセナなら手なずけられると思ったのか・・・。もし、あのままセナがロータスにいたら、どんな風にマシンを仕上げて走ったでしょうか。
 ホンダのエンジニアたちの回想も興味深く、ロータスはマクラーレンに比べてトップに立つという強い意志がなかった、と言う指摘もありますし、過給圧が抑えられたことで車体側の良しあしがはっきりしてしまったという指摘も、ロータスが勝てなかった理由かもしれません。これも「F1走る魂」によりますが、マクラーレンは当時バンバン実施されていたホンダの鈴鹿での実走テストのためにスタッフを日本に常駐させるなど、他のチームには無い協力体制を敷きます。勝つために必要なことは細かなことでもすべてやる、というチームとそうでないところの差なのでしょうか。
 ホンダのエンジニアからも「どうしてこのマシンを特集するの?」と目立った成績を残せたわけでもないマシンへの疑問が呈されたと聞きます。編集長は中嶋さんのマシンはすべて取り上げたいということで、このマシンを選んだようです。
 ホンダが88年をもってロータスを去ることが決まり、中嶋も放出の話があり、中堅どころのアロウズなど、いろいろ噂もありましたが、代わりに獲得しようとしたジョニー・ハーバートはケガもあってあきらめ、ピケの言葉を借りれば中嶋のスポンサーだったエプソンが多少役に立ったのでは、ということで翌年もこのコンビが続きました。89年のマシン、ロータス101Tについては、近いうちに特集されるのでしょう。逆に、鈴鹿でエンストにならず表彰台に上っていたら、というのはよくある「タラ・レバ」話なのですが、前述の今宮氏はナンバー誌上で、中嶋が表彰台に上がれたらその後のF1キャリアも違ったものになったのでは、と思っていたようです。

 さて、このマシンが日本のファンに受け入れられているのはもう一つ理由があるように思います。このマシン、今回ご紹介した写真のように各地のサーキットで展示、デモランを行っています。比較的保守的な設計ですし、アクティブサスペンションではないので手入れやセッティングも99Tよりは複雑ではないのでしょう。エンジンもマクラーレンMP4/4と同じですしね。現役を退いてからも人々の前で雄姿を見せることができるというのは「名車」かもしれないですね。


カウルを外したところです。昔のマシンってこんな感じでした。


ピケは、エンジンとシャーシの間くらいで剛性不足が顕著だったと述べています。


走行のため、ホンダコレクションホールのスタッフが整備をしています。

本書では現役時代の中嶋悟の写真がありますが、ピットでの姿などは精悍なサムライ、という感があります。うちの亡母も引退後の中嶋悟の姿を見て「現役のときの方がかっこよかったよね」と言っていました。




 
 

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フレンチブルーはグランプリ制覇を夢見て 昔、リジェと言うチームがあった

2023年11月12日 | 自動車、モータースポーツ
 これからF1関係の話が少し続きます。三栄の「GP Car Story」では特定のマシンだけでなく、チームにフォーカスした号も出ており、既にイタリアの中堅・ミナルディの号もありましたが、9月にリジェチームの号が発売されました。リジェの名前を聞いて懐かしい、と思われる方はかなり古いファンでしょう。フレンチブルーを身にまとい、タバコのジタンをはじめフランス系のスポンサーをつけたマシンで知られていました。創設者のギ・リジェも既に物故者となっているほか、関係者もかなり高齢化していますので、インタビューを集めるのも苦労があったようです。

 リジェの創設者、ギ・リジェですが、第二次大戦後ラグビーやボートの選手を経て、道路建設業に乗り出します。ここでフランソワ・ミッテランという政治家と知己を得ます。後のフランス大統領ですが、この頃から彼と彼の属する社会党とのパイプができます。建設業で財を成し、リジェ自身はレーシングドライバーとしても活動します。F1ドライバーとしても結果は残せなかったものの参戦経験があり、ちょうどホンダ第一期の頃でしたので、当時の中村良夫監督はその頃の「好漢」リジェのことをエッセイに書かれています。そのホンダの空冷マシンにリジェの盟友、ジョー・シュレッサーが乗ってデビューを果たしますが、マシンはクラッシュ・炎上してシュレッサーは還らぬ人となります。リジェもドライバーに見切りをつけ、やがてレーシングカーのコンストラクターに転身しました。マシンの頭にはシュレッサーのイニシャルから「JS」というコードがつけられました。
 念願のF1参入は1976年でした。巨大なインダクションポッド(ティーポットとあだ名された異形のマシンです)をつけたJS5は、やはりフランスのマトラエンジンとともに(マトラ社の名前はミラージュ戦闘機とセットで出てくるマトラ・マジックというミサイルでご存じのファンもいるのでは)デビューしました。インダクションポッドがでかくなったのは他のチームでもありましたが、リジェのそれはかなり独特な形でした(ミニカーとか持っていないので見たい人はググってください)。1977年にはジャック・ラフィットの手で初優勝を遂げます。本書でもラフィットのインタビューが掲載されていますが、彼はチームのエースとして途中ウィリアムズに移籍した時期はあったもののけがで引退するまでチームにおり、チームの「顔」でもありました。コンストラクターとしても79年3位、80年2位と、侮れない実力を持ったチームでした。
 ところが、サーキットにターボエンジンのサウンドが響くようになった1980年代以降低迷し、優勝はおろか入賞さえおぼつかなくなります。1987年には開幕直前にアルファロメオと組む話が反故にされるなど、参戦そのものが危ぶまれることもありました。ちょうどF1ブームの頃「妖怪とうせんぼじじい」と揶揄されたアルヌーがいた時代です。フランスでは社会党の長期政権となっており、かつて知己を得たミッテランもエリゼ宮の主でした。このあたりからリジェは「政治力」の方も発揮するようになります。1980年代のフランス政界では大統領は社会党、首相は共和国連合という「コアビタシオン」の時期もありましたが、この時期に社会党系首相も復活し、盤石な権力基盤を築いていました。そんな中、社会党の地盤でもあったようですがリジェ・チームの本拠地があるマニ・クールのサーキットにフランスGPが移ったことも話題になりました。マニ・クールでは2000年代までフランスGPが続きます。また、同じフランス系のラルース(代表のジェラール・ラルースはかつてリジェの元で働いていましたが)に難癖をつけて、コンストラクターズポイントをFIAに圧力をかけてはく奪させ、さらには同チームのランボルギーニエンジンまで奪う、ということまでやってのけます。ポイントはく奪を行うことで自チームのコンストラクター順位が10位に繰り上がり、グランプリ転戦の際の輸送費などで便宜を受けられるなどの「特典」が欲しかったからだと言われています。ラルースはバブル崩壊で日本企業のスポンサーを失っただけでなく、ここでも割を食う形になり、同チームで表彰台に上がった鈴木亜久里にとっても不利な状況に追い込まれてしまいました。この一件で日本のファンの中にはリジェっていやな奴、というイメージを持たれた方もいるのではと思います。
 1992年に念願かなって当時の最強エンジン、ルノーV10を積むことができました。ちょうど「浪人」中のアラン・プロストがテストし、リジェもプロストを乗せたがったのですが袖にされ、リジェもショックを受けたと言います。チーム運営の情熱も失ってしまったのか、名前こそ残りましたがチーム運営からは撤退、以降、さまざまなオーナーの元で主に中団を走るチームとして戦いました。鈴木亜久里も95年にシーズンの半分を走り、ジタンの広告にも使われています。1996年に無限と組んで優勝したのがリジェにとっての最後の勝利でした(最後の数年はジタンではなくゴロワースがスポンサーでした)。チームはかつて袖にされたアラン・プロストに買収され、1997年に「プロスト・グランプリ」として再出発するも、5年で活動を止め、ここに名実ともにリジェの名はなくなりました。
 リジェ自身の生前のインタビューでは、やはりドライバーからオーナーになったフランク・ウィリアムズのようになりたかった、というのが印象的でした。リジェ自身は「オールフレンチ」にこだわりはなかった、とも述べていて、グランプリを制するためにはホンダなど「外国企業」と組むのも必要と感じていたようですが、フランス国内の反発が予想以上に激しくて諦めたと言っていたのが意外でした。リジェはフランス産業省に出向いて支援を求め、産業省の役人から「善処します」と言われても結局何もならず、ということで「彼らの言葉を信じた自分が愚かだった」と言っています。確かにフランク・ウィリアムズはアラブ系のスポンサーをつけてみたり、ホンダ、ルノー、BMW、トヨタとさまざまなメーカーと柔軟に組んでいましたね。既にチーム運営からは退いていたものの無限と組んで勝ったのを見て復活の兆しがある、と感じていたようでが・・・。
 彼の元で走ったドライバーも「相思相愛」だったラフィットや表彰台に上がる活躍をしたチーバー、最後の優勝者となったパニスなど、いい思い出を持っている人たちもいますが、中には「いい思い出がなかった」としている人もいて、そのあたりはリジェが憧れたウィリアムズ同様、ドライバーも「従業員」だったのかなと思わせるエピソードです。ギ・リジェが退いた後の1993年にはイギリス人コンビ、ブランドルとブランデルという紛らわしい名前の二人になっています。今でも親友同士らしく、一緒に事業をしたりという仲だそうですが、実際にはウィリアムズがルノーエンジンをライバルのベネトンに取られたくなくて、ギアボックスも含めてリジェに提供していたというのも興味深いところです。ブランデルもウィリアムズのテストを行ったことがありましたし、セカンドチーム的な立ち位置になっていたということでしょう。ただ、表彰台に乗れる力をつけるなど、それまでよりは随分と良くなっていたという印象が私もありました。仲の良い二人であってもコース上で絡んでしまうこともあって、その帰りの飛行機の機内の様子はインタビューを読む限り微笑ましいものがあります。状況は変わったとは言いつつも、やはりフランス系チームにイギリス人コンビは居づらかったようで、二人とも翌年にはチームを去っています。
 リジェとしての最後にエンジン供給者となった無限の坂井典次エンジニアのインタビューでも、お互い英語が母国語ではない同士だったのが良かったのか、英語でのコミュニケーションもかえってスムーズだったし、フランス人の方が懐に入ってくる感じでイギリス人より付き合いやすかったとも述懐しています。このシリーズでの無限エンジンを特集した号でもインタビューはありましたが、今回はリジェのスタッフとの思い出やモナコ勝利の裏話が出ています。ただ、ブランドル、ブランデルにしても、坂井氏にしても、ファクトリーで作業の手を止めて昼間からワインを飲むフランス人の習慣にはついていけなかったようですが。
 ドライバーにしても、エンジニアにしてもインタビューを読んで感じたのは牧歌的なところがありながらも組織がきちんとしていた「プロフェッショナルなチーム」だったこと、さらにボスであるギ・リジェが父親のような存在だったということで、さまざまな理由でチーム存続危機となってもつぶれずに済んだのはリジェ本人の不屈の闘志と情熱のおかげ、と口を揃えているのもこのチームが浮き沈みを経験しながら20年余りを過ごせた理由かなと思いました。前述の中村良夫氏のエッセイによればリジェ自身は道路関係の国際会議で来日するなど、実業家としての顔も持っていたようですし、本書によればレースカーだけでなく、産業用のマイクロカーでも成功を収めています。なかなか知っていたようで知らないリジェとそのチームを知る機会になった好著でした。
 
思えばリジェのマシンって、ミニカーで持っていたのはこれと以前ご紹介した無限と組んだものくらい。1993年シーズンの終盤にブランドル車のみヒューゴ・プラットがデザインしたカラーリングのマシンです(デアゴスティーニのF1マシンコレクションから)。タバコ広告はこうしたものでも規制されるため、肝心のジタンのシンボルである踊る女性像が入っていません(泣)。1993年日本GPプログラムにも、ジタンブロンドの広告と共に掲載されました。



1988年ベルギーGPの映像、何年か前にフジテレビNEXTで放送されましたが、アルヌーがリタイアしたシーンになぜかうちの豚児が反応して駆け寄った場面です。奥でリタイアしているのはデ・チェザリス(!)。息子よ、そこに食いつくか。

参考文献 私のグランプリ・アルバム 中村良夫著 二玄社

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2023 F1日本グランプリ 決勝のはなし その2 

2023年09月30日 | 自動車、モータースポーツ
 決勝に向けて、各車それぞれのグリッドに向けて姿を現しました。コースを1周してホームストレートのところで一度エンジンを止め、あとはメカニックたちが押しながら所定のグリッドまで運びます。

(角田のマシンもメカニックに押されながら9番グリッドを目指します)

前日飛んだブルーインパルスの本番です。こちらの席からは逆光となってしまいますが、いくつかの演技を披露していきます。









上空に大きな桜の花びらを一機ずつが描く「サクラ」


おなじみ「ビッグハート」

手を止めて空を見上げるメカニックも見えました。日本グランプリでアクロバットチームの飛行は珍しいからでしょうか。パドックがショーの「センター」いわゆる特等席で演技していたような感じでした。ただ、パドック側の背後から進入する演目もありましたし、全体に高度高めでスピードも普段の航空祭より遅めにしていましたし、航空祭なら一方向からしか視線を受けないところを東西南北さまざまな方角に座席があるサーキットですから、演目構成にはいつもと違う苦労もあったかと思います。高速で「ファンブレイク」とか好きですけど、サーキットでやられても場所によっては「?」となってしまいますからね。
やはり航空自衛隊から女性の自衛官・森田早貴3曹の国家独唱もあり、いよいよスタートとなっていきます。
スタート前のグリッド上の風景です。


ドライバーが冷却効果を高めるスーツを下に着ており、昔の(10月下旬とか)日本グランプリでは考えられません。

タイヤウォーマーが外されて・・・

各車フォーメーションラップに向かいます。

フォーメーションラップから戻り、所定のグリッドに戻ってきました。



レースがスタート。トップ争いが「手に汗握る」だったのは2コーナーのあたりまでで、フェルスタッペンがマクラーレン2台をがっちり抑え込み、そこからは独走でした。国際映像にもトップ以外のマシンの争いが映るような状態がチェッカーまで続きます。上位も下位もそれなりに争いがあり、一台一台が間隔が空いて推移するよりは面白いレースでした。

こうして、フェルスタッペンが独走で勝利。前週のシンガポールで敗れた後でしたが、きっちり取り返しました。決勝日はホンダの75周年の創立記念日にもあたり、またフェルスタッペンの優勝でレッドブルはコンストラクターズ(チーム)タイトルも獲りましたので、二重におめでたい一日となりました。
2位、3位をマクラーレンが獲りました。予選と逆で2位ノリス、3位ピアストリです。マクラーレンのピットクルーたちが歓喜の中、自分たちのマシンを迎えます。

表彰式

表彰式の後はストレートに下りることができましたので、余韻に浸っておりました。暑い一日でしたが、長い影ができています。

撤収作業に入る各チーム。フェラーリもなんとか二台揃って入賞ですから、最低限のことはしました。アストンマーチンのアロンソも入賞、彼が憧れるサムライの国で入賞できましたが今年は好調で、まさに「鉄人」の感があります。


角田は順位を落としてフィニッシュ。入賞はなりませんでした。予選と決勝では戦略も変わりますので、そこがまた、モータースポーツの面白さであり、厳しさでもあります。彼の9番グリッドには多くのファンがいました。

バスの時間も気になりまして、サーキットを後にしました。ゲートのところでは昔の中継のエンディングテーマ「In this country」がかかっていました。

これを聴くと芝生にはみ出るマンセル、ひっくり返るデ・チェザリス、そして赤いレーシングスーツのセナやプロストがシャンパンファイトする表彰式の様子を思い出す・・・。
バスは人が揃い次第出発、という感じで、たくさんのツアーバスが駐車場にいました。出発時刻の17:30よりだいぶ前に「出発」できたのですが、なぜか他のツアーバスともども駐車場内で待つような感じで、長い列ができていました。結局17:30頃にようやく出発、土曜日よりも道路がとても流れていて、18:30頃には津に着きました。予定より早く名古屋に出て、ホテルに預けていた荷物を引き取り、名古屋駅できしめん食べて新幹線に乗り込みました。中断等あって帰路が大変だった昨年よりは余裕をもって帰宅できました。
かくして、長いグランプリの三日半も終わりました。ということで月曜からは通常とおり仕事となりました。


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2023 F1 日本グランプリ 決勝のはなし その1

2023年09月28日 | 自動車、モータースポーツ
 決勝の日曜は少々早く起きて、ホテルのチェックアウトをしてから近鉄特急に乗って津を目指します。特急「ひのとり」は白子にも臨時停車し、多くの乗客が降りました。みなさん、白子からシャトルバスでサーキットを目指すのでしょう。車内で朝食を食べ、津で土曜と同様にツアーバスに乗り込みます。私のように名古屋から津に出て、という方も何組か見かけました。
 サーキットに着いて家人と豚児のためのTシャツを買って席に赴くと、サポートレースのBMWとミニのレースをやっていました。

ミニと言っても昔のあれではなく、BMW傘下になっての現代のミニですのでだいぶ大きいです。BMWは山西康司が優勝しました。その名前を聞いてちょっと懐かしく感じました。山西選手はまだ20歳そこそこで中嶋企画から国内のトップカテゴリーのフォーミュラニッポンに出ていたり、GTにも出ていたので名前を憶えておりました。今ではドライバーをしながら、鈴鹿のレーシングスクールで後進の指導にもあたっているそうです。ミニについてはレース歴の浅い選手も多いということでしたが、カラフルな車が走る姿は、これもまたサーキットの景色であります。

(BMW 優勝した山西の46号車)
 そのあとはポルシェのレースが行われ、こちらは小河諒が二年続けて優勝ということで、小河選手も今年は敵なしの強さを誇っているそうです。台数は以前に比べて少々寂しかったのですが、ワンメイクならではのレースを楽しみました。

(グリッドにつく小河のマシン)
 昼過ぎからF1決勝に向けた動きが出てきます。まずは恒例、ドライバーズパレードです。今回は航空自衛隊の中部航空音楽隊が、ブライアン・タイラー作曲の公式テーマ曲(中継の時にドライバー紹介でかかるあれです)を演奏しながらドライバー達が入場します。生演奏ということで、これはグッとくるものがありますね。


(ドライバー達を待つクラシックカー)
クラシカルな車(と言ってもホンダの場合はS800なので私の世代にとっては「ちょっと昔の車」ですが、平成生まれの方にとってはクラシックカーですよね)で場内を一周していきます。ホンダ系のパワーユニットに関わりのある4人のドライバーは2コーナーのあたりに作られたレッドブル・アルファタウリの応援席の近くで車をいったん止めてご挨拶です。

(フェルスタッペン)

(角田)

(予選を沸かせたマクラーレンから、ノリス)

(同じくマクラーレンのピアストリ)

(メルセデスのエース、ハミルトン)

(フェラーリのルクレール)

(フェラーリのサインツ)

(ハースのマグヌッセンはロールスロイスで。大きな車体です)
 その後は鈴鹿のフォーミュラスクール用のニューマシンのお披露目があって、いよいよF1のスタートに向けて人も、マシンも準備が始まりますが、こちらは次回に。
 
 
 

 

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