工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

旅とミニカーとグランプリと アルファロメオP3

2021年02月24日 | 自動車、モータースポーツ
 私もモータースポーツ好きということもありまして、グランプリの名車や奇車、珍車のミニカーを買ったりしています。最近は値段が高くなって簡単に買えなくなったのと過去の(自分の中でそう思っている)名車は一通り買ったこともあり、コレクションは打ち止めの感がありますが、それでも某パートワーク系の出版社のシリーズで、気になったものはたまに手を出している始末です。そんなミニカーの中には、旅先で購入したものもありまして、モータースポーツのオフシーズンにそれをご紹介しようというわけです。
 10年前の1月の終わり、遅い遅い「夏休み」を取った私はウィーンからイタリアに入り、ヴェネツィアのホビーショップであるミニカーを見つけました。店の名前は「Venice Model Team」といい、主に1/43のミニカーやプラモデルを扱うお店でした。ヴェネツィアでは玩具店はあっても模型屋さんはほとんど見かけませんでしたので、珍しい存在でした。このお店、ヴェネツィアを訪れるたびに幾度か場所を変えて(時には観光名所のリアルト橋のたもとで営業していたこともありました)いたのですが、最近ではサイトも含め見かけることができません。

 そこで見つけたのが写真のRIO1/43、アルファロメオP3でした。かなりクラシカルなマシンですね。1932(昭和7)年に作られ、その後の数年間ヨーロッパのグランプリシーンで活躍した名車です。F1がスタートするのが1950(昭和25)年ですから、F1以前のグランプリの話です。箱には1935年ニュルブルクリンクとあります。もしやあのドイツGPを制した名車かと思ったのですが、私も記憶が曖昧でしたので、お店のご主人に「これってヌヴォラーリがニュルブルクリンクで優勝したマシンですか?」と聞いてみました。
 するとご主人、お店のパソコンで昔のレースのアーカイブを調べてくれました。カーNo.12のマシンは確かにドイツGPの優勝車だね、ということで「じゃあ、それください」となったわけです。
 モータースポーツの歴史に詳しい方なら1935年ドイツGPのことはご存知かと思います。この年のドイツGP、優勝候補にはメルセデスベンツ、アウトウニオン(アウディの前身)らのドイツ勢が挙げられ、それぞれが銀色の流線型をした美しいマシンを持ち込んでいました。特にこの年のメルセデスW25は他を圧倒しており、当時選手権戦として行われていたヨーロッパ選手権で7戦中5勝を挙げてタイトルを獲得しています。7月28日に当地に集まったドイツの観客たちも当然勝つのは我々の国のマシン、と思ったことでしょう。雨が降る中、1周22kmあまりのニュルブルクリンク旧コースを22周するレースが始まりました。イタリア・アルファロメオのエースとして孤軍奮闘のタツィオ・ヌヴォラーリ(イタリア・マントバ出身)は一時2位につけるも、メルセデス勢(カラツィオラ、フォン・ブラウヒッチュ、ファジオーリ)、アウトウニオン勢(シュトゥック、ローゼマイヤー)に対して劣勢のままでした。12周目にピットに入った際に給油装置の不具合もあって給油とタイヤ交換に2分かかり、半分弱のタイムでそれを成し遂げたメルセデス勢をはじめ、ドイツ車勢から大きく離され、6位でコースに復帰します。しかし翌周には猛然とスパート、一気に4台をかわして2位に再浮上しました。鬼神の追い上げは続き、一時は1分26秒あったトップとの差は、最終ラップでは30秒足らずになっていました。トップに立っていたのはメルセデスのドライバー・フォン・ブラウヒッチュでしたが、最終ラップの途中でタイヤがバースト、ここでヌヴォラーリが大逆転でトップに立ち、そのままゴールとなりました。実に500kmの距離を4時間かけて走り切るという、ハードなレースを制しました。
 このレースは表彰式でもまた逸話が残っています。表彰式では当然、優勝ドライバーの国歌が演奏されるわけですが、ドイツGPの役員たちは優勝するのはドイツ勢の誰かと思っていて、ドイツ国歌のレコードしか用意しておりませんでした。ところがヌヴォラーリは「こういうこともあると思って」いつもイタリア国歌のレコードを持っており、差し出して演奏させたといいます。1周の長いニュルブルクリンクの旧コースは戦後もJ.Mファンジオの大逆転など名レースがありましたが、この1935年ドイツGPもまた、レースの歴史に名を残す名レースとなったわけです。
 このミニカーを買った時のことですが、商品を包んでもらう間、つたないイタリア語で「ヌヴォラーリがイタリア国歌のレコードを持ち歩いていて、表彰式でかけさせたんだってね」という話をしたところ、お店のご主人は「ああ、そうだったね」と意外に普通の反応でした。まあ、1935年のドイツGPでヌヴォラーリが勝ったことを知っているなら、表彰式の逸話だって知っているだろう、ということなのでしょうし、欧州のレースの歴史に詳しい方ならば「一般常識」なのかもしれません。この時代の日本に置き換えて言うなら、昭和9(1934)年の日米野球で沢村栄治がベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁するアメリカチームに対して好投した話を外国人のファンが話しているようなもので、ゲーリッグに打たれたことや、実は日差しがまぶしくてルースが難儀したというエピソードも含めて、あなた知っているんでしょ、ということなのでしょう。
 あらためてアルファロメオのマシンを見てまいりましょう。実に無骨なスタイルです。


 アルファロメオを率いていたのは、まだ自身でコンストラクターを興す前のエンツォ・フェラーリでした。その証拠に跳ね馬のマークがついています。

 ヌヴォラーリについて簡単に触れておきましょう。1892年生まれで最初は2輪のレーサーとして活躍、4輪に転じたのちはアルファロメオだけでなく、アウトウニオンで走ったこともありました。非常に勇猛果敢であり、どんな劣勢なときも諦めない走りを見せ、そこがエンツォ・フェラーリに気に入られました。戦争を挟んで戦後も走り続けます。しかし、戦前から活躍するドライバーが参加した初期のF1には健康状態のこともあって参戦せず、1953年に亡くなっています。さまざまな伝説、逸話を残しており、ある日エンツォ・フェラーリからサーキットまでの列車の往復切符を渡されたときに「ドライバーに渡す切符は片道でもいいんじゃないか。帰りは木の箱に収まって貨車の中かも知れないだろ」と答えたなどという話もあります。中にはメディアが作った話も含まれていますので、真偽のほどは分かりません。伝説の時代の話は、いろいろ独り歩きしてしまうもので、前述の沢村栄治が160kmの球を投げていたといったことが語られたりするのと同じことのように思います。このヌヴォラーリの勇敢さや諦めない走りを持っていたのが、1977年から1982年までフェラーリにいて最後は事故死したジル・ヴィルヌーヴであり、エンツォ・フェラーリにまた、愛された人物でした。
 1935年というと、日本はまだモータースポーツの黎明期にあたり、現在の多摩川の河川敷の近くに多摩川スピードウェイができる前年のことでした。当然欧米との本格的な交流の機会もないまま、戦争に向かっていくこととなります。
 さて、こうして買ってきたミニカー、私の大切なコレクションとなりました。戦前の車輌はコレクションとしては少ないのですが、フレンチブルーが美しいブガッティや当時としては珍しいリアエンジンのアウトウニオンなど個性的な名車もあって、我が家で仲良く並んでおります。

(参考文献 世界の有名な50のレース アラン・ヘンリー著 高齋 正訳 グランプリ出版、スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録 ソニーマガジンズ)

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