goo blog サービス終了のお知らせ 

工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

軍旗は引き継がれる

2021年05月17日 | 自動車、モータースポーツ
 5月というのは著名なグランプリ・ドライバーがサーキットで事故死しており、アイルトン・セナ(1994年5月1日)、ジル・ヴィルヌーブ(1982年5月8日)が亡くなっているため、節目の年には追悼行事が開かれるなど、こうした事故のことを思い返し、サーキットやレースの安全対策に終わりがないことを再認識するような月となっています。
 日本でフジテレビの全戦中継が始まったのは1987年ですが、その前年、1986年5月15日にテスト中の事故でF1ドライバーが亡くなっています。
 彼の名はエリオ・デ・エンジェリスといい、イタリア・ローマ出身で貴族の末裔と言われています。1979年にシャドウでデビュー、以来、ロータスに長く在籍したほか、ブラバムにも在籍し、1984年シーズンにはマクラーレンの2台に差をつけられてはいますが、ロータスでランキング3位になっています。1958年生まれですので、ピケ(1952年生まれ)、プロスト(1955年生まれ)より年下でセナ(1960年生まれ)より少し年上という世代にあたります。

(デ・アンジェリス最後のマシンとなったブラバムBT55 ミニチャンプス1/43)
 貴族の血を引き、ハンサムな風貌にピアノが特技ということで、古き良き時代のドライバーを思わせるところがありました。ピアノに関してはこんなエピソードもあります。1980年代初頭、F1の運営・興行をめぐってFOCA(F1製造者協会・イギリス系のコンストラクター=製造者が中心)とFISA(国際自動車スポーツ連盟・ヨーロッパ大陸系のチームが支持)が対立、一部のレースをFOCA系がボイコットしたり、独自にグランプリを開催を企図するなど、いまから見ると不毛な争いにも見えるような出来事がありました。1982年南アフリカGPでドライバーへのスーパーライセンス発給を巡ってFISAとドライバー達が対立、ホテルにこもってやれストライキだといきり立っている中で、そこにあったピアノを演奏してその場の空気を和ませ、みんなを諫めたのがデ・アンジェリスだったと伝えられています。
 黒と金のJPSカラーのロータスが似合うデ・アンジェリスでしたが、チーム内で台頭してきた若きセナに押し出されるように1986年にブラバムに移籍、チームメイトは同じイタリア人のパトレーゼでした。このシーズンのマシンは低い車体が特徴のBT55で、ブラバムで野心的なマシンづくりをしていたゴードン・マレーがデザインしていました。5月14日にフランス・ポールリカールサーキットでのテスト中に事故が発生、テスト中だったこともありサーキットに救助活動ができるスタッフも少なく、救助が遅れた上にマシンから火災が発生、救助活動が難航した上に救急搬送にも遅れが生じ、翌15日に亡くなっています。これがもしレース中だったら、救助、消火活動ができるコースマーシャルが十分に配置されていたら、と思うと言葉がありません。28歳の若さであり、グランプリ通算2勝でしたが、もっと勝つことができたのではないかと思わせる資質を持っており、早すぎる死でした。

(F1倶楽部 第10号 特集「レーサーの死」より。デ・アンジェリスの事故の模様についてはベテランジャーナリスト、ダグ・ナイ氏が解説しています)
現在ではテストはシーズン前に数日行われる程度しか認められておりませんが、かつてはシーズン中に頻繫にテストが行われ、ホンダも鈴鹿サーキットを使って国内のドライバーなどの手でF1エンジンのテストをしています。中嶋悟もF1デビュー前はウィリアムズ・ホンダのマシンを鈴鹿で走らせ、エンジンのテストをしていたのもこの頃です。
 私がデ・アンジェリスの名を意識したのは1991年か92年のシーズンで、その頃フジテレビのF1中継では放送作家の高桐唯詩氏の文章に乗せ、オープニングにそのグランプリにゆかりのある元ドライバーらを紹介していました。その中で前述のピアノのエピソードとともに、デ・アンジェリスのことが城達也氏のナレーションで語られていました。
 さて、デ・アンジェリスの物語はここで終わったわけではありません。あるドライバーが彼の遺志を受け継ぐように、自らのヘルメットにデ・アンジェリスのヘルメットのデザインを取り入れました。そのドライバーはジャン・アレジで、アレジはジル・ヴィルヌーブのファンでもありましたが、デ・アンジェリスにも敬意を抱いており、本人へのインタビュー記事によれば「戦士は倒れても軍旗は引き継がれる」という言葉とともに、デ・アンジェリスのヘルメットのデザインであるサイドの紺と赤の帯を配したヘルメットを被っているということでした。頭頂部の青はアレジ本人のオリジナルですが、ヘルメットの地色がクロームメッキのような仕上げになったときも青と赤の帯は変えずにいました。

(デ・アンジェリスのヘルメットのデザインは紺と赤を配したシンプルなもの。80年代のドライバーの多くがこうしたシンプルなデザインでした)

(1989年日本GPプログラムより。当時は「アレージ」と紹介されていた。ページ中央のヘルメットのデザインに注目)

(1994年オーストラリアGPプログラムより)
 アレジの子息、ジュリアーノ・アレジが日本でもレースに参戦しており、日曜に行われたスーパーフォーミュラのレースで雨による途中終了ではありましたが、見事に優勝を遂げています。そのジュリアーノ・アレジのヘルメットのデザインもまた、父と、そしてデ・アンジェリスと同じく、青と赤の帯を配したものとなっています。軍旗は、引き継がれているようです。

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする