いつも本ブログでご紹介している三栄のGPCar Storyですが、3月に発売された第39号はウィリアムズFW13Bを特集しています。ご紹介が遅れてしまいましたが、今回も興味深く読みました。

このマシン、1989年にウイリアムズとルノーが手を組んだFW13の改良型に当たります。FW13も含めて、マシン開発に当たったパトリック・ヘッドをはじめ、ドライバーのプーツェン、パトレーゼのいぶし銀コンビ、テストを担当したマーク・ブランデルらのインタビューで、このマシンを紐解いています。1990年、FW13Bはサンマリノ(イモラ)でパトレーゼが、ハンガリーでブーツェンが勝利を挙げています。ただ、このシーズンはマクラーレン(セナ)とフェラーリ(プロスト)の一騎打ちで、ウイリアムズはこの二チーム、さらにベネトンの後ろのコンストラクターズ4位でシーズンを終えています。
FW13Bについてはドライバー2名の回想によればセッティングが難しく(パトレーゼ)、場所によって好不調が極端(ブーツェン)という評価を下しています。ロングランテストを担当したブランデルによれば、「スィートスポットに当たっていない」ということですので、ベターではあってもベストではない、ということでしょう。それにしても高速でエンジンに厳しいイモラと低速でコーナーが続くハンガリーというのは対照的なコースであり、これはドライバーの勝利でもありますし、エンジンも含めたマシンの総合力が無ければ簡単に勝てるコースではありませんので、ポテンシャルはあったと言えるでしょう。パトレーゼはイモラでの勝利が実に1983年南アGPから99戦ぶりということで話題になりましたし、ブーツェンはハンガリーでタイヤ無交換で走り切り、セナの追撃を抑え込みました。無交換にこだわったのはウィリアムズのピット作業がライバルほど上手ではない、というのもあったようですが。
そしてFW13Bというマシン、セミオートマチック、アクティブサスペンションといった後のウィリアムズがライバルに先んじたデバイスもテストされていました。実戦デビューは2年後のFW14Bを待たなければなりませんが、こうやってウィリアムズは雌伏の時期を過ごしていたわけです。
マシンデザインも特徴的で、扁平のインダクションポッドなどは好例ですが、空力的な特性を格別に考慮したものではなかったようです。同チームが初めてCADで設計したマシンだそうですが(そういえば同時期にKATOがNゲージで小田急10000形をCAD/CAMで設計したことが話題になりましたね)、この年はフェラーリ、ティレル、ベネトンなど特徴的なマシンが多く、いずれもGPCar Storyに取り上げられています。F1ブーム真っ只中だった時代ですが、ブームが一部のドライバーに魅かれたから生まれたものではなく、マシンも、さまざまなドライバーも個性が強く、そこに多くの人たちが魅かれたからではないかと思います。
そして、ルノーについてもリーダーを務めたベルナール・デュドのインタビューが載っています。この時代のルノーと言えばV10エンジンが有名でしたが、もともとはV8、V12なども研究の上、シャーシ側のエンジニアの意見も聞いてV10にした、というのも興味深かったです。1990年代のF1は徐々にエンジンだけでは勝てなくなっており、車体も含めたバランスやパッケージで決まる時代となっていました。そういう意味でも、FW13Bというマシンは、後のウィリアムズ・ルノー黄金期のための基礎を作ったと言えるでしょう。そして、シーズン2勝を挙げることができたという意味では、単なる次へのつなぎ役以上の仕事をしていたと思います。
ドライバーの話に戻りますが、パトレーゼはウィリアムズにいた日々を特別なものとして記憶しているようです。マシンの開発も含めてチームに貢献し、FW13Bだけでなく、それ以降のマシンでも勝利を重ねることができたので偽りのないところでしょう。アクティブサスペンションを搭載した1992年のFW14Bでは「アクティブカー」特有の挙動変化についていくのが厳しく、チームメイトのN.マンセルに後れを取りましたが、しばらくはウィリアムズチームにとどまりたかったようです(結果として1993年にベネトンに移籍し、同年限りで引退)。このあたりの契約事情もやや悔しさをにじませて語っています。ブーツェンもハンガリーでの勝利の時点でチームがマンセルと交渉しており、結局1991年シーズンからマンセル/パトレーゼのコンビとなります。1991年の「ナンバー」誌でせっかく勝ったのにチームからはお祝いの一つもなかった、というようなニュアンスの記事を読んだことがありましたが、ルノーのデュドの発言にあるように「ウィリアムズにとってドライバーは従業員」だったのかもしれません。ブーツェンは91年はリジェでティレルの中嶋と競り合っていましたし、92年にはジョーダンに移籍、シーズン途中で引退しています。興味深いのはパトレーゼのインタビューで、あの頃はコース上で少々激しくやりあっても「ドライバー同士が直接話し合ってルールを決められるというか、お互いに仁義を通していた」と言っていたことで、今のように規則でがんじがらめ、やれスポーツマンらしくない行為でペナルティだ、ということは無かった、と懐かしんでいます。パトレーゼは若いころは少々粗いところもありましたが、この時期には激しいところはあるもののフェアという印象がありました。当時の映像を見ますと、今ならいろいろ言われそうですが、それを言い出すとあの人やあの人もということでキリがなくなりそうです。
二人とも大相撲でいえば「名大関」ではあり、特にパトレーゼは応援していたのですが、キャリアのラストは寂しいものでした。パトレーゼについてはいずれ稿を改めて触れたいと思っています。
さて、チームのボスで昨年亡くなったフランク・ウィリアムズの話が出てこないではないかと言われそうですが、ベテランジャーナリストであり、ベネトンなどのチームでグランプリをともに戦った津川哲夫氏が車椅子の闘将の「F1愛」について語っています。チーム運営が思い通りにいかないこともあったわけですが、勝ったり負けたりも含めて自らが身を置き、愛している世界の出来事、と思っていたのでしょうか。
個性的なマシン、という話をしましたが、F1ブームを追い風に模型でもこのシーズンのマシンは相次いでモデル化されました。このマシンが知られているのも、タミヤが1/20でキット化したからでしょう。私もモデルアート誌でキット評を読んだ記憶があります。タミヤがマクラーレン、レイトンハウス、そしてこのウィリアムズをキット化し、ハセガワは1/24でベネトンとラルースをキット化して日本GPの表彰台トリオが再現できました。また、モデラーズも1/24でティレル019をキット化しています。ある意味目玉だったフェラーリ641/2はタミヤが1/12でキット化しています(後にフジミから1/20でもキット化)。もちろん、レジンキットやトランスキットを含めればもっと出ていましたので、いろいろな意味で幸せな時代であります。当時のタミヤの開発担当だった木谷真人氏のインタビューも掲載されており、なぜこのマシンが選ばれたのかという話や、チームとしてはアクティブサスなど機密に係る部分はパーツ化してくれるなと言われたなど、製品開発の面白さや苦労を知ることができます。キットも割とよく見かけましたが、絶版になって私もあわてて押さえた記憶があります。二人のドライバーとも好きなのですが、やはり「サンマリノGP優勝車」ということで、パトレーゼ仕様で作ることになるのかなあ。
1990年日本GPプログラム(筆者蔵)より

ウィリアムズとドライバー二人を紹介したページ。左の広告は当時、チームのタイトルスポンサーだったキヤノンです。


シーズンのハイライトの記事。
あとで知ったことですが、ブーツェンは母国ベルギーでは我々日本人が思っている以上に人気があり、企業広告などにも登場している、と川井一仁氏が書いていました。もっとも、外国人が見たらあの頃の中嶋悟もそのように言われていたかもしれないですね。

このマシン、1989年にウイリアムズとルノーが手を組んだFW13の改良型に当たります。FW13も含めて、マシン開発に当たったパトリック・ヘッドをはじめ、ドライバーのプーツェン、パトレーゼのいぶし銀コンビ、テストを担当したマーク・ブランデルらのインタビューで、このマシンを紐解いています。1990年、FW13Bはサンマリノ(イモラ)でパトレーゼが、ハンガリーでブーツェンが勝利を挙げています。ただ、このシーズンはマクラーレン(セナ)とフェラーリ(プロスト)の一騎打ちで、ウイリアムズはこの二チーム、さらにベネトンの後ろのコンストラクターズ4位でシーズンを終えています。
FW13Bについてはドライバー2名の回想によればセッティングが難しく(パトレーゼ)、場所によって好不調が極端(ブーツェン)という評価を下しています。ロングランテストを担当したブランデルによれば、「スィートスポットに当たっていない」ということですので、ベターではあってもベストではない、ということでしょう。それにしても高速でエンジンに厳しいイモラと低速でコーナーが続くハンガリーというのは対照的なコースであり、これはドライバーの勝利でもありますし、エンジンも含めたマシンの総合力が無ければ簡単に勝てるコースではありませんので、ポテンシャルはあったと言えるでしょう。パトレーゼはイモラでの勝利が実に1983年南アGPから99戦ぶりということで話題になりましたし、ブーツェンはハンガリーでタイヤ無交換で走り切り、セナの追撃を抑え込みました。無交換にこだわったのはウィリアムズのピット作業がライバルほど上手ではない、というのもあったようですが。
そしてFW13Bというマシン、セミオートマチック、アクティブサスペンションといった後のウィリアムズがライバルに先んじたデバイスもテストされていました。実戦デビューは2年後のFW14Bを待たなければなりませんが、こうやってウィリアムズは雌伏の時期を過ごしていたわけです。
マシンデザインも特徴的で、扁平のインダクションポッドなどは好例ですが、空力的な特性を格別に考慮したものではなかったようです。同チームが初めてCADで設計したマシンだそうですが(そういえば同時期にKATOがNゲージで小田急10000形をCAD/CAMで設計したことが話題になりましたね)、この年はフェラーリ、ティレル、ベネトンなど特徴的なマシンが多く、いずれもGPCar Storyに取り上げられています。F1ブーム真っ只中だった時代ですが、ブームが一部のドライバーに魅かれたから生まれたものではなく、マシンも、さまざまなドライバーも個性が強く、そこに多くの人たちが魅かれたからではないかと思います。
そして、ルノーについてもリーダーを務めたベルナール・デュドのインタビューが載っています。この時代のルノーと言えばV10エンジンが有名でしたが、もともとはV8、V12なども研究の上、シャーシ側のエンジニアの意見も聞いてV10にした、というのも興味深かったです。1990年代のF1は徐々にエンジンだけでは勝てなくなっており、車体も含めたバランスやパッケージで決まる時代となっていました。そういう意味でも、FW13Bというマシンは、後のウィリアムズ・ルノー黄金期のための基礎を作ったと言えるでしょう。そして、シーズン2勝を挙げることができたという意味では、単なる次へのつなぎ役以上の仕事をしていたと思います。
ドライバーの話に戻りますが、パトレーゼはウィリアムズにいた日々を特別なものとして記憶しているようです。マシンの開発も含めてチームに貢献し、FW13Bだけでなく、それ以降のマシンでも勝利を重ねることができたので偽りのないところでしょう。アクティブサスペンションを搭載した1992年のFW14Bでは「アクティブカー」特有の挙動変化についていくのが厳しく、チームメイトのN.マンセルに後れを取りましたが、しばらくはウィリアムズチームにとどまりたかったようです(結果として1993年にベネトンに移籍し、同年限りで引退)。このあたりの契約事情もやや悔しさをにじませて語っています。ブーツェンもハンガリーでの勝利の時点でチームがマンセルと交渉しており、結局1991年シーズンからマンセル/パトレーゼのコンビとなります。1991年の「ナンバー」誌でせっかく勝ったのにチームからはお祝いの一つもなかった、というようなニュアンスの記事を読んだことがありましたが、ルノーのデュドの発言にあるように「ウィリアムズにとってドライバーは従業員」だったのかもしれません。ブーツェンは91年はリジェでティレルの中嶋と競り合っていましたし、92年にはジョーダンに移籍、シーズン途中で引退しています。興味深いのはパトレーゼのインタビューで、あの頃はコース上で少々激しくやりあっても「ドライバー同士が直接話し合ってルールを決められるというか、お互いに仁義を通していた」と言っていたことで、今のように規則でがんじがらめ、やれスポーツマンらしくない行為でペナルティだ、ということは無かった、と懐かしんでいます。パトレーゼは若いころは少々粗いところもありましたが、この時期には激しいところはあるもののフェアという印象がありました。当時の映像を見ますと、今ならいろいろ言われそうですが、それを言い出すとあの人やあの人もということでキリがなくなりそうです。
二人とも大相撲でいえば「名大関」ではあり、特にパトレーゼは応援していたのですが、キャリアのラストは寂しいものでした。パトレーゼについてはいずれ稿を改めて触れたいと思っています。
さて、チームのボスで昨年亡くなったフランク・ウィリアムズの話が出てこないではないかと言われそうですが、ベテランジャーナリストであり、ベネトンなどのチームでグランプリをともに戦った津川哲夫氏が車椅子の闘将の「F1愛」について語っています。チーム運営が思い通りにいかないこともあったわけですが、勝ったり負けたりも含めて自らが身を置き、愛している世界の出来事、と思っていたのでしょうか。
個性的なマシン、という話をしましたが、F1ブームを追い風に模型でもこのシーズンのマシンは相次いでモデル化されました。このマシンが知られているのも、タミヤが1/20でキット化したからでしょう。私もモデルアート誌でキット評を読んだ記憶があります。タミヤがマクラーレン、レイトンハウス、そしてこのウィリアムズをキット化し、ハセガワは1/24でベネトンとラルースをキット化して日本GPの表彰台トリオが再現できました。また、モデラーズも1/24でティレル019をキット化しています。ある意味目玉だったフェラーリ641/2はタミヤが1/12でキット化しています(後にフジミから1/20でもキット化)。もちろん、レジンキットやトランスキットを含めればもっと出ていましたので、いろいろな意味で幸せな時代であります。当時のタミヤの開発担当だった木谷真人氏のインタビューも掲載されており、なぜこのマシンが選ばれたのかという話や、チームとしてはアクティブサスなど機密に係る部分はパーツ化してくれるなと言われたなど、製品開発の面白さや苦労を知ることができます。キットも割とよく見かけましたが、絶版になって私もあわてて押さえた記憶があります。二人のドライバーとも好きなのですが、やはり「サンマリノGP優勝車」ということで、パトレーゼ仕様で作ることになるのかなあ。
1990年日本GPプログラム(筆者蔵)より

ウィリアムズとドライバー二人を紹介したページ。左の広告は当時、チームのタイトルスポンサーだったキヤノンです。


シーズンのハイライトの記事。
あとで知ったことですが、ブーツェンは母国ベルギーでは我々日本人が思っている以上に人気があり、企業広告などにも登場している、と川井一仁氏が書いていました。もっとも、外国人が見たらあの頃の中嶋悟もそのように言われていたかもしれないですね。