工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

エブロ1/24 シトロエンHバン・モバイルキッチンを作りました

2023年09月11日 | 自動車、モータースポーツ
 エブロ1/24 シトロエンHバンのモバイルキッチン仕様については、随分前に製品化され、市場から消えるのも早かったと思います。今はバージョン違いでクレープ屋さん仕様が出ています。モバイルキッチンについては私も興味があり、発売直後に買ったのですが、どんな設定にするかで考え、さらにキットのパーツでは足りないものを自作したり、他社のパーツなどを使ったりで、構想2年、製作3年という感じになってしまいました(さっさと作れよ、ということですよね)。完成したのは今年の1月でしたが、今の時季にお見せしたく、ブログに掲載しました。

 キットではフランスのパン屋さん仕様となっており、当然ですが全体にフレンチテイストです。クロワッサンやバゲットのサンドなどのパーツも入っています。厨房部分はガス台、レンジ、コーヒーマシンなどもあり、ちょっとした軽食も出せるパン屋さんの屋台が開業できるわけですが、私はあれこれ考えて、これをF1のサーキットで軽食を提供しているキッチンカー風、それもイタリアのキッチンカーとしてみました。
 全体の説明となりますが、キットそのものはほぼストレートに組んでいます。車体はMr.カラーの「アルミナイズドシルバー」を吹き付け、アイボリー部分はGMカラー21番、アイボリーAです。

店の名前は「ポールポジション」にしました。こういう場所の軽食ですから速さが命、ということでこういう名前にした、という設定です。イタリア語と英語でパニーニやコーヒー、飲み物を扱っている、とあります。こちらは以前もご紹介した自作デカールです。
キットのオリジナルには無いものも適宜加えています。


ショーケース内側から見て右手にはパニーニをエポキシパテで作って入れました。焼き目がついていますので作り置きしているようです。本来なら焼きたてが美味しいのですが、たくさんのお客さんをさぱくために作り置きし、温めなおしているのでしょう。実際にイタリアの鉄道駅で似たような経験をしています。クロワッサンは白をペタペタ塗りつけ、粉砂糖を撒いた感じにしました。イタリアではクロワッサンというと中にジャムが入っていたり、甘めのものが出てくることが多いので、イタリア風としました。
 また、右手前にはキットには無い流しもプラ板から作りました(完成後はほとんど見えませんが)。ガス台など調理器具が揃っている中で、流しが無いというのも変だなと思い、小さな流しをつけてみました。
 カウンターの木部についてはタンを塗った後でクリアーイエローを塗り重ねてニス塗りっぽい質感を出しています。
 さらに、ショーケースの隣にはグラニータ(イタリアのかき氷)メーカーも置きました。

 夏のイタリアに行きますと、いろいろな味のグラニータの機械が屋台などに置かれています。四角いものが多いのですが、透明プラ板を四角く切り出し、そこにシリコンを入れるのもちょっと難しそうだったので、透明の丸いプラパイプにクリアーイエローで着色したシリコンを入れ、透明パーツのランナーをランダムに切ったものを散らして氷のように見せています。正面側にはレモンのマークが入っていますのでレモン味なのでしょう(100%レモンの場合は、黄色くならずに白っぽくなります。おそらく、このグラニータは着色料を使っているのでしょう)。
厨房側です。

ガス台、レンジ、コーヒーマシンなどは塗装後に注意表示のステッカーをキャラもののコーションデータデカールから貼りました。ガス台の周囲には防炎用のついたてを追加しました。こちらはキットにはありません。カーモデル用の断熱シートを再現するのりつきアルミ箔から切り出しています。ガス台の背後が樹脂か何かではやはり火災の心配もしないといけないかな、というわけです。背後の棚などの色はGMカラー27番・レッドAです。
ガス台の下などにも荷物や機器が入っています。ガス台の下の段ボールはイタリアの炭酸水のそれですが、マソモデル1/35のものを使っています。コーヒーマシンの下の「ラバッツァ」のコーヒーのカートンも同じです。レンジの下の銀色の箱状のものはキットには無いパーツですが、冷蔵庫に見立てています。これだけの設備があって冷蔵庫が無いのも、というわけで入れたかったのです。こちらはイタレリの「TRUCK SHOP ACCESORIES」という同社のトラックのキットなどのオプションパーツとして発売されているものからとりました。このキットのパーツはこの後も出てきます。
会計はショーケースのある側で行い、商品の渡し口はリアゲートの方にあるようです。

リアゲートの板ですが、キットではただわたしてあるだけで、少々心もとない感もしましたので、板の下にアングル材を入れて、リアゲートで挟み付ける構造にしています。プラ材を貼っただけですし、ほとんど見えないところではありますが、実際に自分がこの車のオーナーだったら、という目線で作りますと、いろいろ気になってしまうのです。

調理器具もいくつか入っています。

左の鍋はキットのオリジナルではありますが、蓋がなかったので、WAVEのHアイズから適当な大きさのものをもってきました。その上に丸モールドのパーツをつれています。中身はランプレドット(イタリア風もつ煮込み)をイメージしています。その次はフライパンで、こちらもキットのものです。エポキシパテで目玉焼きを作りました。
右側二つはキットにはないものです。パニーニがある以上、ホットサンドメーカーが必要となり、右端のものは自分で作ったものでしたが、ちょうど「ゆる△キャン」というアニメのキャラクターをキット化した製品の中にホットサンドメーカーがあるということでキットを購入、こちらにコンバートしてきました。
まだご紹介するものがいくつかありますが、長くなりましたので今日はここまで。次回はジオラマの設定のことなども含めてお話ししましょう。


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下田信夫さんの作品集・つづき

2023年09月08日 | 飛行機・飛行機の模型
 味わいのある、それでいて対象物を細密に描き分けるイラストが人気の下田信夫さんは、亡くなった後も作品集が各種出版されております。大日本絵画からは「航空縮尺イラストグラフィティ」と題した作品集が刊行されていますが、この夏に4冊目の「エトセトラ編 2」が発売されました。

 本書の前半では成田にあります航空科学博物館が収蔵するライト兄弟からエアバスA320に至る約100年の航空史を飾った機体のイラストをすべて紹介しています。航空黎明期の機体はともすれば興味の対象から外れてしまうのですが、改めてイラストで見て、それぞれの機体の特徴を見つけたりしています。これらのイラスト、常設展示らしいので、成田は少々遠いですが行ってみたいですね。
 本書の私のお目当ては雑誌「レプリカ」の表紙イラストです。もともとこの雑誌、1985年にTACエディションという版元から発行されており、モデルアートのライターだった野中寿雄さんが編集されていたかと記憶しています。1986年から1992年の休刊までの39冊を下田信夫さんが手がけられたそうです。正直、当時は同誌の熱心な読者では無かったものですから、今回作品を拝見して、こういうのもあったのか、という新たな発見もありました。同誌は飛行機の記事だけでなく、車、艦艇、ホワイトメタルのヒストリック系フィギュア、さらには粘土か何かを型に押し当てて作る紅鮭に至るまで、幅広い模型を対象にしていました。
 表紙についても飛行機だけでなく自動車もあればAFVもあり、またヒストリックということでギリシャ・ローマの兵士から戦国時代の日本、ナポレオン時代の騎兵に至る古今東西の騎兵や兵士のイラスト、そしてブームを反映してかF1マシンのものもありました。イラストで再現された1990年フランスGP、レイトンハウスのマシンがフェラーリのプロストを従えて走るシーンなどは新鮮な印象を受けます。飛行機の印象の強い「Nobさん」ですが、F1マシン、スポーツカーと自動車についても特徴を捉えていて、改めてその才能には敬意をいだいております。
 なお、本書では一部のモノクロ画について、遺族の承諾のもと、イラストレーターの和田隆良氏がコンピューター上で「着彩」したイラストも掲載され、こちらももともと色がついたイラストと変わらない出来栄えで、本書に文字通り大きな彩りを添えています。
 航空史にまつわる記事も面白く、見て、読んで面白いという文章を書ける人がうらやましい限りです。私などはどちらも中途半端ですが・・・。 
 また、下田信夫さんは国産の航空機がお気に入りだったのか、本書でも戦後も含めて国産の機体が多く登場します。前述の成田の展示にはYS11、MU-2、FA200、C-1といった戦後の国産機が富士山をバックに飛ぶ絵も遺されています。また、T-1から始まった戦後国産ジェット機の解説などもあります。私が下田信夫さんのイラストが好きなのは、私自身が国産機が好きというのもあるかと思います。
 本書掲載作品も、他ではもう見られない、絶版になったものもありますので、あの頃に戻りたい、新鮮な感動として受け止めたい、と願う飛行機好きの方にお勧めします。私も寝る前に眺めながら、大空に思いをはせております。




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ラビューに乗ったよ

2023年09月04日 | 鉄道・鉄道模型
 残暑厳しきというか、暦の上では9月ではありますが、まだまだ暑い日が続いています。そんな夏の終わりの週末、家族で秩父に行ってきました。お目当ては西武鉄道の特急ラビューです。
 2019年デビューだそうですが、なかなか乗る機会に恵まれませんでした。豚児も遠出ができるようになりましたし、先日テレビ番組「新・美の巨人たち」でも特集されていたというのもありまして、乗ってみようとなったわけです。発売日に予約を取ったところ、西武鉄道の係員の方から「お子さんがいらっしゃるのなら、先頭車の最前列が空いてますけど、とりましょうか」というありがたい申し出があり、ぜひ、となりました。こうして、ラビューの先頭車最前列での旅が始まりました。

(ちちぶ号、入線です)
噂には聞いていましたが、本当に大きな窓です。

列車は池袋を発車、池袋線内を走っていきます。先頭車の1C席(通路側)ですと、ちょうどすれ違う列車が良く見えます。


池袋線は40000系が多いですね。20000系、30000系の多い新宿線とは対照的です。
いまどきの鉄道車輛だなと感じたのは運転席とその周辺の広さです。前面展望とは言っても、窓ガラスまでだいぶ離れている印象をうけました。
乗務員扉から先頭部を見ていただくとその大きさ、サイズ感がお判りいただけますでしょうか。

所沢を過ぎ、稲荷山公園では入間基地の敷地を通過します。C-2輸送機が駐機しているのが見えましたし、隊員がランニングしている姿も見えました。
飯能に着きました。ここで進行方向が変わり、私たちの車輌が最後尾になります。前面展望は拝めず、乗務員室にはガラスにスクリーンがかかります。

その代わり、モニターに後ろに流れていく風景が映し出されます。ここからは山岳路線に入ります。美しい緑の景色の中をゆっくり上っていく感じです。

ラビューどうしのすれ違いもありました。窓が大きいおかげで、通路側に座っていても景色が良く見えます。
横瀬には各種車輌が保存されており、架線柱がかかっていますが、こんな車輛も。

(写真は上り列車から撮影)
西武秩父に定刻通り到着です。反対側のホームに移って、編成の全景を収めてみました。

先頭車のアップです。

西武秩父駅も商業施設や温泉施設などが作られ、駅に併設のフードコートで腹ごしらえをして、近辺を散策です。豚児が歩いて行けそうなところで、ということで秩父神社にお参りしました。冬の秩父夜祭でおなじみの神社です。途中、秩父鉄道の踏切を渡りますが、秩父鉄道の貨物列車も見かけました。シャッターチャンスに間に合わなかったのですが、コンテナ貨車しか知らない豚児には新鮮だったようです。
駅に戻る途上でこちらに立ち寄り、コーヒーと甘味を賞味しました。

豚児は自家製のプリンを食べて大満足だったようです。私たちも美味しいアイスをいただきました。西武秩父駅周辺は本川越駅ほど「観光地化」されておらず、散策を楽しみました。
ちなみに駅前にはこんな食事処もありました。

(店名が「駅前」とはストレートですね)
帰りは各停で飯能まで。4000系、好きな形式で模型も持っています。ボックスシートののんびり旅行もいいものです。

4000系の塗装、西武バスなどにも使われていますね。緑と赤のラインはその昔、ライオンズのユニフォームにも使われていました。
飯能駅はムーミンバレーパークの最寄駅ということで、ムーミンゆかりのフィンランドにちなんだポスターが掲示されています。

この後は急行などを乗り継いで帰宅しました。西武秩父駅でお土産に地元産の肉厚のシイタケを買いました。油で炒めた後、おろし醤油というシンプルな味付けでいただきましたが、とても美味しかったです。

ラビューの感想になりますが、西武鉄道のフラッグシップトレインという感じがいたしまして、先輩の10000系が登場時に「通勤特急」というか、よりカジュアルな方向を目指していたのとは反対に「今までにない列車を作ろう」としたことが伝わってきます。鉄道車輛のデザイン経験のない、建築家の妹島和世氏に依頼したというのも、よくありがちな外部のデザイン事務所に丸投げしておしまい、というのではなく関係者全員にとって冒険だったとは思いますが、それがうまくいったようにも感じます。シートのモケットも黄色をベースにしつつ、グレーの糸を織り込んでいるとのことですが、秩父線開業時に投入された昔の西武101系の黄色とベージュ塗装へのオマージュにも感じられます。秩父までの一時間あまりを退屈せずに、快適に過ごせる車輌という感じがいたしました。私鉄の特急車は各社ともに行先や沿線の特性を意識したものが生まれ、それぞれ魅力的ではありますが、西武鉄道も「乗りたくなる、憧れる」特急を作ったのだな、という気がいたしました。

(ブルーリボン賞受賞の記載も車体外装に入っています)

今回、小さな乗客の皆様には、きらきら光るラビューのカードもいただきました。ありがとうございます。

豚児もさることながら、親二人も大いに楽しんだ秩父行きでした。今回は秩父駅周辺しか見ておりませんが、またラビューに乗って、もう少しいろいろ見て回りたいと思いました。















 

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それぞれの、9月2日(つづき)

2023年09月02日 | 日記
 今日、9月2日は昭和20年に日本が降伏文書に調印し、書類上で第二次世界大戦が終結した日です。有名、無名のあの人たちがその日をどのように迎えていたのかを、昨年も書きましたが、今年も想像を交えながら書いてみました。
ケース1 彼は15歳の少年でした。ノースカロライナで生まれ、この戦争の終結と勝利を純粋に喜んでいたのでしょうか。やがて建築を学び、その途上で志願して空軍に入隊、朝鮮戦争当時は日本にもいました。板付か、ジョンソン(入間)か、立川かは分かりませんが、読者のご両親や祖父母、私の両親もこの大柄なアメリカ人とどこかですれ違っていたかもしれません。
ケース2 彼は18歳で兵役に就くと、早速アルデンヌの森に送られ「地獄の最前列」を経験して何とか生き延びました。この時点では既にアメリカに戻っていたのか、それとも、マジックカーペット作戦と呼ばれる帰郷のための列に並んでいたのか・・・。
ケース3 彼は徴兵されてイタリア軍の一員として戦いました。ところが、イタリアの降伏により、彼の部隊はドイツ軍と戦うことになります。一時はドイツの捕虜となるも脱走(!)してヴェネツィア(!!)に逃げ延びました。その昔から、逃げたければヴェネツィアに行け、と言われていましたが、それはここでも変わらなかったようです。ようやく戦争が終わり、ローマで演劇人としてのキャリアの第一歩を刻んだ頃でしょう。
ケース4 演劇の世界に裏方ではありますが身を置いていた彼は、1943年にイギリス空軍に入隊、兵長で終戦を迎えます。パイロットを目指すも叶わず、軍内で慰問で演劇を行う一団のオーディションに合格し、各地を訪問しました。終戦後も欧州大陸にとどまり、本来の演劇・喜劇人として活動を始めるのは1946年になってからだったようです。
ケース5 17歳の彼はロケットに非常な興味を示し、自作のロケットを作って飛ばすような少年でした。より大きなロケットを飛ばそうと火薬の原料を求めて化学肥料会社を訪れて断られた、というエピソードがあるほどです。この時点で彼の視線の先にはパイロット、さらにはまだ見ぬ宇宙があったのでしょうか。
ケース6 彼は第二次大戦中、海軍でアベンジャー雷撃機の銃手などの任に当たっていました。彼と彼の乗機は空母に向かうことになっていましたが、パイロットの体調不良のため、彼らだけ空母の到着が延期となります。その間に配属予定だった空母に日本機の特攻があり、多くの仲間たちを失いました。9月2日をどんな気分で迎えたのでしょうか。
ケース7 ケベック生まれの彼は大学生で空軍に入隊、終戦時は教練担当の軍曹でした。彼は俳優として日本のお茶の間で知られるようになりますが、そこに至るまでオリンピック代表候補のスキー選手、映画会社のスタッフ、スキー場のインストラクターなど、さまざまな経歴を積むことになりました。
ケース8 ニューヨーク、ブロンクス生まれの彼は終戦当時16歳でした。ハイスクールに退屈したのか、それともパレードする兵士たちのように英雄になりたい、と思ったのかは分かりませんが、1年後には高校を中退して海軍に入ります。ブロンクス生まれで歳が少し上のピーターという青年が合衆国商船隊にいて、噂を聞いていたのでしょうか。
ケース9 彼は数日前に17歳の誕生日を迎えたばかりでした。5月の空襲で焼け出され、バラックを建てて住んでいました。9月1日に予科練帰りの幼馴染がどこで入手したのか一升瓶を携えてやってきました。これからの不安を口にしながら呑む酒の味(二人とも未成年ですが、それはご容赦)はいかばかりだったか。やがて寝入った二人でしたが、9月2日の朝、轟音とともに空を埋め尽くすかのような艦載機、飛行艇の姿を見ます。降伏文書調印を前に、上空を航空機で威圧するかのように警戒していたのでしょう。

ケース1 彼はテレビシリーズ「コンバット」で規則違反の常習ではあるものの、ブローニング「BAR」を構えて頼りになるGI・カービーを演じました。彼の名前をジャック・ホーガンと言いますが、本名はリチャード・ローランド・ベンソン・ジュニアです。
ケース2 アルデンヌで帰らぬ人になっていたら、ブルーノート東京のこけら落としに出演することも、晩年にレディ・ガガと共演することも叶わなかったでしょう。今年亡くなったアメリカの歌手、トニー・ベネットです。
ケース3 後にイタリアを代表する名優となるマルチェロ・マストロヤンニです。
ケース4 コメディを中心に活躍し、クルーゾー警部でおなじみ、ピーター・セラーズです。
ケース5 彼は米海軍に進み、ロケットの研究も続けます。宇宙飛行士となり、月に向かっていたところ事故により月に降り立つことはありませんでしたが、その奇跡の生還劇は映画化されています。アポロ13号の船長、ジム・ラベルです。
ケース6 予定通り彼とその乗機が空母バンカー・ヒルに降り立っていたら、特攻に巻き込まれていたかもしれません。「明日に向かって撃て」も「スティング」も生まれなかったでしょう。アメリカの名優、ポール・ニューマンです。
ケース7 テレビシリーズ「コンバット」でフランス語を話すケイジ(日本放送時にはケーリー)を演じていたのはその名前からしてフランス系であるピエール・ジャルベールです。
ケース8 テレビシリーズ「コンバット」のサンダース軍曹こと、ビック・モローです。ドラマでは地方都市出身、と描かれていましたが、実際には大都会ニューヨークの出身、と言った方がしっくりきていました。除隊後に高校に復学、卒業後は大学に進みますが、演劇が彼を捕らえたようでした。なお、同じブロンクス出身のピーターという青年は刑事コロンボを演じたピーター・フォークです。大学卒業後に連邦政府で働いていましたが、やはり演劇が忘れられず、役者の道を選びました。
ケース9 私の亡父です。勤労動員で10代の子供が大人に混じることで酒、たばこ、ギャンブルを覚えることになるなど、そういう意味でも戦争はいいことではない、と言っていました。本人曰く「屈辱の占領時代」では酔った海兵隊員にいきなり殴られた、といった経験もあって、その後の人生にさまざまな影響を与えていたと思います。
最後にもう一人、大戦中はやはりアベンジャーに乗っていて、パイロットだった彼は二度も撃墜されたことがあり、そのたびに味方に助けられています。1945年初頭には帰国しており、名門イエール大学に進みます。この時に撮られたベーブ・ルースとの写真は有名です。この時点では自分が航空母艦の名前になるとは思いもしなかったでしょう。彼の名前はジョージ・H.W.ブッシュで、後の41代アメリカ大統領です。


このGIも、無事に本国に戻って、どんな戦後を生きたのだろう。










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関東大震災から100年

2023年09月01日 | 日記
 9月1日は大正12年に関東大震災から100年ということで、メディア等でもとり上げられています。都市型の甚大な災害ということで、後世にさまざまな教訓を残していることはここに書くまでもないでしょう。私が大人になるまでは「震災」と言えば関東大震災のことでしたし、当時を知る人たちもまだ健在でした。
 このブログが乗り物を題材にしていますので、それに因んだことを書いてまいりますが、有名なところでは横須賀で巡洋戦艦から航空母艦として建造されるはずだった「天城」が地震で損傷を受けて建造を諦め、実艦標的となる予定だった「加賀」が代わりに空母となって「赤城」とともに主力空母の座に就いたことは皆様もよくご存じのことと思います。
 また、イギリスから輸入され、横浜で陸揚げ途上で被災して使えなくなった鉄道省(国有鉄道)の6000形(のちのED51)については、後にイギリスから新品が送られています。当時は電気機関車も米英から輸入していた時代で、小さなD型機ばかりでした。
 さきほど「当時を知る人たちも健在」と書きましたが、私の祖父母がまさにそうでした。特に父方の祖母は震源と言われているところからさほど離れていないところで被災しましたが「大きな揺れが二回来た」と語っており、大震災を引き起こしたのは「双子の地震」だったというのを裏付けるような話です。
 祖父は務めていた海軍省の建物の中で被災しましたが、他の建物の屋根瓦がザーッと落ちたのを見たり、通行人が立っていられないほどの揺れで何かにつかまろうとして、近くの柳の木につかまったところ、木ごとゆらゆらと揺れていて、本人は必死の思いだったでしょうが、祖父から見ると滑稽に映ったようです。
 改めてウィキペディアなどで本震以降の余震の様子を見ますと、東京湾、千葉県南方沖、東方沖といったところを震源として、それなりの大きさの余震もあったようです。東日本大震災の3月11日も、何度も余震があって、東北からだいぶ離れた東京の私にとっても「生きた心地がしない」と思ったものです。あの9月1日は、祖父が帰宅すると家は無事で、曾祖父らが家の周囲の警戒を兼ねて不寝番をしたそうですが、祖父は「ばかばかしい」とそれを横目に酒を飲んで寝入ってしまったそうで、とても安眠などできなかったと思うのですが、さすがとしか言いようがありません。ちなみに東日本大震災の日は私も深夜に帰宅しましたが、まだ断片的にしか入ってこない被害の報道に胸を痛め、とても「酒を飲んで寝る」などという芸当はできませんでした。
 平成以降、二度の大震災がありましたので様相は変わりましたが、かつては9月1日と言えば新学期であり「防災の日」として地震に対応した訓練が行われということで「いつか来るであろう」東海地震のための訓練も長いこと行われてきました。東海地震の場合は予知ができるという前提でのことらしいですが、他のエリアで大災害をもたらす大地震が幾度も起きているのを見ると、素人の意見ではありますが予知というのは無理な話なのでは、というのと東海地震のための予算で他に防げる震災があったのではないか、と少々厳しい見方をしてしまうのです。
 東京では明治以降、大きな地震が幾度かありましたし、水害、戦災と「リセット」されるくらいの大きな出来事に見舞われています。さきの祖母もその100年近い生涯の中で、水害、スペイン風邪、震災、戦争とその前半生で大変な思いをしています。そして、この祖父母らが無事に生き延びてきたから、私の両親がいて、私がいるわけです。何はともあれ、ご先祖様の強運に感謝であります。
 さて、やはり震災、戦争を生き延びた私の母方の祖母の知恵を一つ。関東大震災以降、寝る前に必ずやかんに水を一杯にしておくようになたったいいます。ついでに我が家では電気ポットにも水を一杯にしておきますが。こうすることで、水道、電気が止まっても少しは水も確保できます。ペットボトルで長期保存の水を用意することも有効ですが、今日からできる「防災対策」ではあります。
 
 

 
 
 

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