あまり個人的な事を語るのは好きではないのでどうするか考えましたが、このブログを読んでいてくれていた父にこの1ページを捧げることにいたしました。
また休みを取るとたったの一日だけ?とかまた休みを取るの?(普段休みなくお店を開けているのに)なんてことも言われたりして、当然だけれど他人には言わなければ伝わらないのだなって思いましてね。
3カ月前に父の癌が発覚して、その時点で大分進行してしまっていた癌はもう末期だったのでしょう。それまで普通に歩いて食事をして、そして話もできて母と仲睦まじく暮らしていたのに、翌日から入院。そして直ぐに歩行が難しくなり、みるみる弱っていった父。こんなことってあるんだね。
手術ができる大きさの癌ではなく、もう87才でしたので抗がん剤治療を行うほどの体力も無いだろう、とのことで緩和ケアに移行することになり、一時期は自宅看護を試みたけれど、母も高齢で体調が芳しくなかったことからいくらヘルパーさんや看護師さん、そして家政婦さんのお力をお借りしても自宅での看護は難しくなり、そして亡くなる数週間前にホスピスでお世話になることになりました。
この三カ月間毎週2・3回お見舞いに行き、そして毎日神社へのお参りを日課に奇跡は起きると信じて続けてきたけれど、願いも空しく最後の日を迎えてしまいました。
足が浮腫んでいれば足のマッサージをしてあげて、一時期は回復の兆しもあったのだけれど、急速に体調が悪化してしまいましてね。いつもお店が終わった後に会いに行くと笑顔で喜んでくれて、マッサージをしてあげるとありがとうとお礼を言ってくれて。だから自分も父に頑張って生きてくれてありがとうね、と言って手を撫でて その後笑顔で見送ってくれた。
この三カ月間でしつこいくらいに何回もありがとう、ありがとうと伝えた。
そして父も忙しいのに来てくれてありがとう、ありがとうと言ってくれた。
ハグなんてしたことが無かった父だけれど、なんか包み込んであげて自分の力を少しでも分けてあげたいという気持ちで、嫌がる父をお見舞いから帰る際にハグハグもした。元気になってね、って。ちょっと恥ずかしいね。でも生きている間に小さくなった父の体を抱きしめてあげたかった。
でも亡くなる前日にかなり弱っていると言われてお店を早くに閉めて駆けつけると、苦しい苦しいともだえる父。少しでも楽になればと心が落ち着く音楽をかけて深呼吸しようね、と言いながら胸をゆっくりさすってあげると多少は楽になるのか落ち着いてくれた。でもまたしばらくすると だめだ苦しいよ、と言って、そしてなんかイライラするというから、んじゃ自分の腕をぐって掴んでっ!イライラを腕を掴むことで開放できればと思った。
でも腕を掴む父の力はもはやとても弱かった。
薬の効果で少し落ち着きを取り戻し、それで自分はお店の片づけにホスピスを後にした。
残念なこと明朝父は静かに息を引き取った。
朝食の食器を洗っている時に母から電話があり、できる限り早くにホスピスに駆け付けた。眠ったようにそこに横たわる父に、またありがとうと声をかけた。本当に今までどうもありがとう。そしてお疲れ様。
この人生の中で父と衝突をすることも何度かあったけれど、でも思い返すと楽しい思いでばかりが蘇る。イギリス留学中にも会いに来てくれ、毎週末のように電話をくれた父。海外へ出張へ行くと、海外からもイギリスに絵葉書を送ってくれた。実は日本へ帰国する際にもそれらの手紙やはがきは持ち帰り、実家の押し入れにしまってある。
お店の開店準備でスピーカーを自宅から持っていくときには出勤前に一緒にタクシーで運んでくれたっけね。
仕事で一緒に静岡まで出張してお客さんに一緒に会いに行ってくれたね。そして韓国出張も一緒に行って、夜にはホテルのバーで二人で飲んだのも懐かしい。
父は短気なところなど欠点も勿論あったり、洋服にも無頓着だし食べるものにもこだわりがなく、物欲が本当になかった人。あまりにも無頓着すぎてケチな人だなって思ったこともあった。
でも人には惜しみなくお金を使って、昨年は7歳年下の母の為に家のリフォームを行い、エアコンも最新のにしてテレビも買い替えていた。普通ならこの歳でリフォームだなんてもったいないと思うだろうに、一人残されるであろう母が快適に過ごせるように、惜しみなくお金を使った。
そして子供のいない長男と独り身の私が入れるようにとお墓まで準備をして、分骨をして父はそこに入る予定だとか。
泣けてくるね。
自分に使うお金は死に金、人様に使うお金は生きたお金。そんなことを教えてくれた。でももうちょっと自分にお金を使って一人で外食をするときには健康に良いものを心がけて食べて欲しかったかな。母がいないと好きなラーメンやカップ麺で過ごしてしまう人だったから。
いつも腰が低くて偉ぶらず、社員にも優しくできる父だった。
最後はこのような終わり方になってしまったけれど、この日が来ることを心の中で準備ができていた。ネットで癌のことを調べて症状による経過、そして死期が近づいていることも分かっていたけれど、諦めて欲しくないし奇跡は起きると信じて毎日お参りに行ってから出勤したけれど、常に明日が最後の日かもしれないと思い、できる限り会いに行った。
心の準備はできていらけれど、苦しんでいる姿とかがふと頭の中をよぎると突然涙が出てくる。
お母さんをあの世から守ってあげてね。
今まで本当にありがとう。
もっと早くに癌が見つかり抗がん剤治療を行うのも一つの生き方だったかもしれない。でも治療には苦しみが伴い、それはそれで大変な日々であっただろうに。癌ですと告知される3カ月前まで普通に母と仲睦まじく暮らせて、そして苦しむ期間が最小限で良かったのかもね。
おかげでこの三カ月、今までにない頻度で会えたし色々話せたし、毎日お参りに行くのも大変だったけれど人の為に行動する充実した日々を過ごせました。
イギリスからカナダへ移民する手続きをして、労働許可書がおりていよいよカナダに移住するとなったとき、日本へ帰って来いと必死で止めてくれた。今では日本に帰ってきて本当に良かったと思うし、日本に居たからこそ最後までしっかりお礼を言えた。
最後の日に本当にありがとう、親孝行の息子だよと繰り返し言ってくれた。やがて疲れて眠くなって寝たのだけれど、その前にもう行くねと言ったのを覚えている。それが寝るねと言い間違いかと思ったけれど、それは本当に逝くという意味だったのだね。
実は言えなかったことがある。伝えたかったけれど、恥ずかしくて最後まで言えなかった。大好きだよって。自慢のお父さんだよ。