モバイル版のgoogle Book Searchが公開されたとのこと。「iPhone」や「Android」から、150万以上のパブリックドメイン書籍へ、容易にアクセスできるようになったとのこと。iPhoneをもたないので、直接触ったりはしていないのだけれど、PC版の「googleブック検索」を携帯向けにカスタマイズした感じなのだろう。
グーグル、モバイル版「Google Book Search」を公開:マーケティング - CNET Japan
50cmという距離感とある程度の画面サイズをもつPC向けのサービスを、携帯電話やPDAなどに展開しようとした場合、必ず課題になるのがどのように小さな画面に表示させるか、という問題。Google Book Searchチームにとってもこの画面最適化の問題は「手強」かったようだ。
『「携帯機器用に書籍を準備する作業に関して、興味深いバックストーリーがある。Google Book Searchを利用しているなら分かると思うが、プレビューは、書籍の物理的コピーをデジタル化したページで構成されている。これらページ画像は、コンピュータでの表示には問題ないが、電話の小さな画面での表示には大きすぎる」
「書籍へのアクセスを可能にするための解決策は、ページ画像から文字を取り出し、他のウェブページ同様に文字をモバイルブラウザで表示可能にすることだ。この取り出し処理は、光学文字認識(OCR)として知られている」』
かれらが述べてているように、書籍をスキャニングするだけではなく、OCRなどで読み取り、分析・加工しやすい「テキスト」=記号化することはこうした問題に対する解決策の1つだといえる。その書物で「伝えようとしていること」(=シニフィアン)が目的なのであり、「文字」(=シニフィエ)はそれを表現するためのツールであると考えるならば、それぞれの画面サイズに最適化した形で「文字」を並べることで 「伝えようとしていること」はなんら遜色することないはずである。
しかしここに「表現行為」の難しさがある。
作家は「文字」をただツールとして使っているのではなく、それ自体が「表現」の行為(=シニフィアン)である場合があるからだ。
例えば「フォント」。ある作品を書籍化する際に、その作品の雰囲気を作り出すために特定のフォントを利用していたとする。これをOCRで読み取り記号化したとしても、ブラウザ上で表示をする場合、利用者のPCの設定に依存してしまう。つまり作者が表現しようとしていたものが損なわれてしまうのだ。
あるいは、各行の「頭」の文字を読むことで重要なヒントや違う言葉を並べたりする「言葉遊び」(2ちゃんねるでいうところの「縦読み」)。これを実現するためには一行の長さを固定しなければならなくなる。そうしたものを計算した上で、文章が作られているのだとすると、ただ文章をOCRで読み取り、それを画面に最適な文字数にあわせて表示したのでは「言葉遊び」が通じなくなる。
ちょっと書籍からは外れるが、プリンスが「元プリンス」時代、自らのアーティスト名を発音のできない「記号」にしてしまった。男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたものだ。しかしこれを実体(アーティストとしての「プリンス」=シニフィアン)を表現するための「記号」(=シニフィエ)と捉えるならば、僕らが通常使っている「文字コード」外に存在するというだけで、決して間違いなわけではない。ただPCやインターネットで使うコードの中にその記号が存在していないだけだ。「表現活動」を追求していく上では、こうしたことは起きうるのだ。
もし仮にGoogle Book Searchチームのメンバーが、こうした表現行為に含まれるコードからの逸脱性を軽視するのであれば、確かに多くの書籍検索には効果があるだろうが、結局は技術者集団であり「文化」というものがわかっていないと見られるだろう。
表現者は常に新しい表現や可能性を模索し続けるものなのだから。
グーグル、モバイル版「Google Book Search」を公開:マーケティング - CNET Japan
50cmという距離感とある程度の画面サイズをもつPC向けのサービスを、携帯電話やPDAなどに展開しようとした場合、必ず課題になるのがどのように小さな画面に表示させるか、という問題。Google Book Searchチームにとってもこの画面最適化の問題は「手強」かったようだ。
『「携帯機器用に書籍を準備する作業に関して、興味深いバックストーリーがある。Google Book Searchを利用しているなら分かると思うが、プレビューは、書籍の物理的コピーをデジタル化したページで構成されている。これらページ画像は、コンピュータでの表示には問題ないが、電話の小さな画面での表示には大きすぎる」
「書籍へのアクセスを可能にするための解決策は、ページ画像から文字を取り出し、他のウェブページ同様に文字をモバイルブラウザで表示可能にすることだ。この取り出し処理は、光学文字認識(OCR)として知られている」』
かれらが述べてているように、書籍をスキャニングするだけではなく、OCRなどで読み取り、分析・加工しやすい「テキスト」=記号化することはこうした問題に対する解決策の1つだといえる。その書物で「伝えようとしていること」(=シニフィアン)が目的なのであり、「文字」(=シニフィエ)はそれを表現するためのツールであると考えるならば、それぞれの画面サイズに最適化した形で「文字」を並べることで 「伝えようとしていること」はなんら遜色することないはずである。
しかしここに「表現行為」の難しさがある。
作家は「文字」をただツールとして使っているのではなく、それ自体が「表現」の行為(=シニフィアン)である場合があるからだ。
例えば「フォント」。ある作品を書籍化する際に、その作品の雰囲気を作り出すために特定のフォントを利用していたとする。これをOCRで読み取り記号化したとしても、ブラウザ上で表示をする場合、利用者のPCの設定に依存してしまう。つまり作者が表現しようとしていたものが損なわれてしまうのだ。
あるいは、各行の「頭」の文字を読むことで重要なヒントや違う言葉を並べたりする「言葉遊び」(2ちゃんねるでいうところの「縦読み」)。これを実現するためには一行の長さを固定しなければならなくなる。そうしたものを計算した上で、文章が作られているのだとすると、ただ文章をOCRで読み取り、それを画面に最適な文字数にあわせて表示したのでは「言葉遊び」が通じなくなる。
ちょっと書籍からは外れるが、プリンスが「元プリンス」時代、自らのアーティスト名を発音のできない「記号」にしてしまった。男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたものだ。しかしこれを実体(アーティストとしての「プリンス」=シニフィアン)を表現するための「記号」(=シニフィエ)と捉えるならば、僕らが通常使っている「文字コード」外に存在するというだけで、決して間違いなわけではない。ただPCやインターネットで使うコードの中にその記号が存在していないだけだ。「表現活動」を追求していく上では、こうしたことは起きうるのだ。
もし仮にGoogle Book Searchチームのメンバーが、こうした表現行為に含まれるコードからの逸脱性を軽視するのであれば、確かに多くの書籍検索には効果があるだろうが、結局は技術者集団であり「文化」というものがわかっていないと見られるだろう。
表現者は常に新しい表現や可能性を模索し続けるものなのだから。
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