僕らがまだ中学や高校だったころ、僕らの世代がもっとも共感した音楽は「尾崎豊」や「ブルーハーツ」だった。
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸にわかるまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
-「僕が僕であるために」尾崎豊-
栄光に向かって走るあの列車に乗って行こう。
はだしのままで飛び出してあの列車に乗って行こう
弱い者達が夕暮れさらに弱い者たちをたたく
その音が響き渡ればブルースは加速していく
見えない自由がほしくて
見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
-「TRAIN-TRAIN」THE BLUE HEARTS-
思えば、僕ら80年代に思春期を過ごしてきた者にとっては、社会や現実は僕らを束縛する強大な存在ではあったけれど、どこかでそれに抗い、突破できるとのではないかという「希望」を(楽観的に)信じられた時代だったのかもしれない。Japan as N0.1が叫ばれ、バブルが花開こうとしていた時代…
この「アクアリウム」は、DULL-COLORED POP主宰の谷賢一さんが自らと同時代をテーマに描いた世代論だ。
谷賢一さんは1982年生まれ、酒鬼薔薇聖斗や秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大等と同世代で「キレる14才」「キレる17才」と呼ばれた世代とのこと。
この作品では、ある事件をきっかけに、シェアハウスに集うサカキバラ世代の登場人物たちが疑心暗鬼に陥り、彼らが抱えている絶望や心の奥底に潜む闇が晒されていくことになる。
引籠りで生活保護を受けることで暮らしているゆう。人づきあいが苦手で内面に思考を巡らすあまり自分をコントロールできずにいるしんや。彼らは社会との適切な関係が構築できずにいる。それが愛情の不在なのか、自分に自信が持てないからなのか、あるいは自らのアイデンティティにリアリティを持てずにいるためなのか。しかし問題を抱えているのは、こうした明らかにそうした様子が見える2人だけではない。
クラブでDJをやりながらゆるくはあるが普通に生活しているてつは一見、社会に適応しているようではあるけど、常に責任から逃避しているし、その実、コミュニケーションが取れているのかも微妙だ。シェアハウスを主宰し商社で働くゆかりにしても、一見温和だけれど、自分の思い通りにならないと突然、キレてしまう。
彼らのスタイルは1~2世代昔の刑事たちの「社会で生き抜くがむしゃらさ」とは対照的だ。
この世代の抱えている絶望とは何のだろう。
がむしゃらに働く刑事たちには「確固」としたものが感じられる。この社会で生きるということは「働くこと」であり、そうすることが社会の関係を構築することであり、人間は生まれてきた以上、そうすることが「当然」なのだという確信というか前提が存在する。しかしサカキバラ世代の彼らにはそうした前提は不在に見える。
彼らには心の奥底に社会を変えようという意欲も、変えられるという期待も存在しないように見える。既にすべてが「負け組」でしかないのだという諦念が心の奥底にやどっているように見える。そしてその一方で、相変わらず社会は「適応者」としてのペルソナを要請し、それに応えるために常にストレスに晒されることになる。逃げ出すか、我慢するのか…
この芝居を見ていると、サカキバラ世代が抱えている絶望がよく見える。しかしその一方で、果たして同時代の人間から見ても本当にそうなのだろうかという疑念もある。つまり僕ら世代がサカキバラ世代に感じる違和感をうまく説明はしてくれるのだけれど、果たして同時代の人からしても、同じように納得できているのだろうか。あまりに僕らサイドからの視点に近すぎるのだ。
「熱帯魚は微妙なバランスでなりたっているの」
病気を抱えたすみの言葉。
しかしそんな言葉さえも古い世代は許しはしないだろう。ソンナコトハイツノ時代モ一緒。オ前タチガ弱イダケダ。心の奥底に希望を刷り込まれている古い世代はサカキバラ世代の悲鳴は聞こえることがないのだろう。
世代の違いを改めて感じとれた興味深い演目だった。
-----た
DULL-COLORED POP VOL.13 『アクアリウム』
![](http://stage.corich.jp/img_stage/m/stage39946_1.jpg?1387716222)
【作・演出】谷賢一
【出演者】東谷英人、大原研二、中村梨那、堀奈津美、百花亜希、若林えり(以上DULL-COLORED POP)
一色洋平、中林舞、中間統彦、渡邊亮
【東京公演】
シアター風姿花伝プロミシング・カンパニー特別企画 一ヶ月ロングラン上演
日程:2013年12月5日(木)~12月31日(日)
会場:シアター風姿花伝
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【演劇】DULL-COLORED POP 番外公演 『プルーフ/証明』 - ビールを飲みながら考えてみた…
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸にわかるまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
-「僕が僕であるために」尾崎豊-
栄光に向かって走るあの列車に乗って行こう。
はだしのままで飛び出してあの列車に乗って行こう
弱い者達が夕暮れさらに弱い者たちをたたく
その音が響き渡ればブルースは加速していく
見えない自由がほしくて
見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
-「TRAIN-TRAIN」THE BLUE HEARTS-
思えば、僕ら80年代に思春期を過ごしてきた者にとっては、社会や現実は僕らを束縛する強大な存在ではあったけれど、どこかでそれに抗い、突破できるとのではないかという「希望」を(楽観的に)信じられた時代だったのかもしれない。Japan as N0.1が叫ばれ、バブルが花開こうとしていた時代…
この「アクアリウム」は、DULL-COLORED POP主宰の谷賢一さんが自らと同時代をテーマに描いた世代論だ。
谷賢一さんは1982年生まれ、酒鬼薔薇聖斗や秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大等と同世代で「キレる14才」「キレる17才」と呼ばれた世代とのこと。
この作品では、ある事件をきっかけに、シェアハウスに集うサカキバラ世代の登場人物たちが疑心暗鬼に陥り、彼らが抱えている絶望や心の奥底に潜む闇が晒されていくことになる。
引籠りで生活保護を受けることで暮らしているゆう。人づきあいが苦手で内面に思考を巡らすあまり自分をコントロールできずにいるしんや。彼らは社会との適切な関係が構築できずにいる。それが愛情の不在なのか、自分に自信が持てないからなのか、あるいは自らのアイデンティティにリアリティを持てずにいるためなのか。しかし問題を抱えているのは、こうした明らかにそうした様子が見える2人だけではない。
クラブでDJをやりながらゆるくはあるが普通に生活しているてつは一見、社会に適応しているようではあるけど、常に責任から逃避しているし、その実、コミュニケーションが取れているのかも微妙だ。シェアハウスを主宰し商社で働くゆかりにしても、一見温和だけれど、自分の思い通りにならないと突然、キレてしまう。
彼らのスタイルは1~2世代昔の刑事たちの「社会で生き抜くがむしゃらさ」とは対照的だ。
この世代の抱えている絶望とは何のだろう。
がむしゃらに働く刑事たちには「確固」としたものが感じられる。この社会で生きるということは「働くこと」であり、そうすることが社会の関係を構築することであり、人間は生まれてきた以上、そうすることが「当然」なのだという確信というか前提が存在する。しかしサカキバラ世代の彼らにはそうした前提は不在に見える。
彼らには心の奥底に社会を変えようという意欲も、変えられるという期待も存在しないように見える。既にすべてが「負け組」でしかないのだという諦念が心の奥底にやどっているように見える。そしてその一方で、相変わらず社会は「適応者」としてのペルソナを要請し、それに応えるために常にストレスに晒されることになる。逃げ出すか、我慢するのか…
この芝居を見ていると、サカキバラ世代が抱えている絶望がよく見える。しかしその一方で、果たして同時代の人間から見ても本当にそうなのだろうかという疑念もある。つまり僕ら世代がサカキバラ世代に感じる違和感をうまく説明はしてくれるのだけれど、果たして同時代の人からしても、同じように納得できているのだろうか。あまりに僕らサイドからの視点に近すぎるのだ。
「熱帯魚は微妙なバランスでなりたっているの」
病気を抱えたすみの言葉。
しかしそんな言葉さえも古い世代は許しはしないだろう。ソンナコトハイツノ時代モ一緒。オ前タチガ弱イダケダ。心の奥底に希望を刷り込まれている古い世代はサカキバラ世代の悲鳴は聞こえることがないのだろう。
世代の違いを改めて感じとれた興味深い演目だった。
-----た
DULL-COLORED POP VOL.13 『アクアリウム』
![](http://stage.corich.jp/img_stage/m/stage39946_1.jpg?1387716222)
【作・演出】谷賢一
【出演者】東谷英人、大原研二、中村梨那、堀奈津美、百花亜希、若林えり(以上DULL-COLORED POP)
一色洋平、中林舞、中間統彦、渡邊亮
【東京公演】
シアター風姿花伝プロミシング・カンパニー特別企画 一ヶ月ロングラン上演
日程:2013年12月5日(木)~12月31日(日)
会場:シアター風姿花伝
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