先日、ちょこっとお休みいただきミニミニ旅行行ってきました。
2つの展覧会と美味しいもの・・の旅でした
色々な旅の目的も果たせて、良かった~
さてさて、今日のお題の――子供たちをどう育てたいのか――よく、子供たち、、ということを言いますが、何故子供なのでしょうか?
それは――我々の未来――に他なりません。
ひとは「育てる」という行為を必ずします。
子供を持つ人持たざる人――に関わらず、子供や若い人を育てます。
何かしら関わる――と言っても良いかも知れません。
人は死すべき存在ですから、その手から手へ、より善きもの・・を伝える・・これが文化なのだと思います。
最近読んでいる本の中で気になる事があります。
気になる本。
養老孟司の大言論シリーズより「嫌いなことから人は学ぶ」・・・本のオビには――実のところ、日本の将来、心配です!――と書かれています。
とても人間的な方ですので、俺はジジイだからもうすぐ死ぬ。知ったことか・・と吐き捨てつつも、ほおっておけない現実を鋭く指摘されています。
本当に賢い!と、私が言うまでもなく周知のことですが。。
幾つか抜き出して引用しますので、頑張って読んでみて下さいね。
傲慢になっていないか――日本人の傲慢――
日本人のボランティアがラオスの田舎に学校を作った。その学校が無事に動き出し、しばらくしてから、そのボランティアの人たちが視察に再度訪れた。その時に国際交流と称して、日本の子供たちも連れてきた。「その子供たちがネ」と、その友人がいう。「ラオスの子供や大人をバカにしているのが見えるんだよ」。行ってみればクーラーが無い、コンピューターが無い、車が無い、云々。学校だってなかったわけである。
それを聞いて、アッと思った。(略)古いものが生きている時には、必ずそこに現代的な意味がある。さもなければ、古いものなんか簡単に消えてしまう。じゃあそこに何があるのか。多くの人は認めたくないかもしれないが、その答えは日本人の傲慢さであろう。子供ですら発展途上国をバカにする。大人が知らず知らずにそうなっているからこそ、子供がそうなる。(略)
ただいま現在のおまえらの態度が悪いんだよ。そういわれていると思えば、いささか納得できる節がある。(略)
私の世代は無一文から出発した。だから少なくともモノが無いことについては、何の痛痒(つうよう)も感じない。と同時に、モノがあるからと言って、誇る気もない。
*******これに関しても、私が都心に住んでいる訳ではないので余計に感じるのかも知れませんが、都会田舎、金持ち貧乏、その他、成績でも何でも等級をつけて差異を確認し、ちょっとでも上のものがあることで安心を得ようとしているように見えます。
私も目の前の子供たちから、そういう感じを受けることがあるので、正直“ザンネンだ”と思ったり、う~んと思ったりすることもあります。やはりそれは“傲慢さ”だと思うのですよね・・・そして、それはとりもなおさず“大人”の態度と考えから来ていると思います。マスコミも面白おかしく取り上げますしね。
優れた芸術家――と言われる人たちは、こういう「人としてどうあるべきか」を、鋭く透徹した目で捉えています。
茶人もそうです。
身分の上下関係なく、ワビサビの世界に遊ぶ。
しかし現実は、どれだけ高価な着物に身を包み、高い茶碗を手にするか・・俗人とはそういう人で・・
もちろん私も俗人ですが、自覚はしています。
そして本質的には何に価値があるのか・・物事の本当の意味は・・と・・
「美意識」「美学」・・それは、商業的ではなく見せかけでもありません。
それを嫌ったからこそ、敗れたような型破りな陶磁器もあるのですが、それすら“幾らの価値”に還元されてしまう。
本当に伝えたかったのは、その“心”ではないでしょうか。。
********リヒテルの記事も読んで頂けますか?
スヴャトスラフ・リヒテル(1915-97 ウクライナ出身、モスクワで没)は、単にいちピアニストというだけにとどまらない、巨大で謎めいた存在であった。詩人、神秘家、哲学者、預言者...そういった多様な顔を感じさせる、限りなく尊敬され畏怖される、何者かであった。(略)
いまロシア・ピアニズムということが盛んに言われているが、結局のところはその核にあるものは、リヒテル・ショックの記憶とノスタルジーなのかもしれない。それほど、鉄のカーテンの向こうからやってきた強大な男のイメージは鮮烈だった。
「獅子の一撃」ということをある評論家が言っている。リヒテルのピアニズムの、ある特別な瞬間を言い表す言葉として、いかにもその通りだと思う。真の大ピアニストは、どこか帝王の風格がある。そしていざというときは獰猛で的確な一撃によって、不意に音楽の本質を捉え、あらゆる聴き手を震撼させるのだ。
リヒテルは全天にひときわ輝く一等星のように、20世紀の音楽界全体を照らす存在だった。
正直いえば、もっと派手な大曲を弾いてくれればいいのになと思わなくもなかった。「獅子の一撃」が欲しかった。だが、一度弾きはじめたら、もう魔術にかかったかのように、リヒテルの世界に完全に没入させられた。何しろリヒテルは預言者なのだ。その日その場にもっともふさわしいと彼が感じた楽曲をリヒテルは弾く。誰も異論は言えない。
1994年2月、あれはまだバブルの余韻が残っている頃だった。派手で刺激的なものを求めていた東京の聴衆にとって、あれほど静かで控えめで小さな詩のような音楽をリヒテルが聴かせてくれたとき、忘れかけた大切なものを思い出させてくれたように感じたものだ。ひけらかしやエゴの表出とは無縁に、四季折々の風景、素朴な暮らしの一場面が個人の日記のように書かれた世界。人はいかに生きるべきかという哲学を、あのときリヒテルは教えてくれたような気がする。
リヒテルとともに思い出されるのは、ピアノ音楽がもっと神秘的で深遠で、人の生き方を根本から変えてしまうほどの力を持ち得るものだという事実なのだから。
真の音楽家とは何かということを考える際の、リヒテルは今も道しるべのような存在である。
子供たちをどう育てたいのか――音楽に出来ること――
今どきの子供たちの演奏を聴いていて、とても残念だと思ったり、がっかりしたり、悲しかったり、時にはイラッときたり、、それを簡単に言えば
“虚飾と傲慢さ”
の表現に、なっていないか?ということかも知れません。
キツイ言い方ですが、子供たちは気付いていないと思います。
大人の世界がそうさせているのだと思います。
例えばプロのアーティストとしてデビューさせるべく――そう思って育てるとします。そうすれば、育てられるピアニストの卵である子供はCD制作会社(レコード会社)からすれば「商品」な訳で、より商品価値のある大衆に迎合したものを求めます。
大衆が賢ければ問題が少ないのかも知れませんが、よりハデなもの分かりやすいもの見た目がキレイ・・つまりビジュアルも求められます。
一部のそういった星の下に生まれた人は、正直もう仕方がない運命なのかも知れませんが、過酷な運命を背負う事もあるかも知れません。
よほど強いものを持っていなければ、まっとうに生き抜くことは難しくなると思います。(CDを出されている全てのアーティストの方のことを言っているのではありません。巨大マーケティングをターゲットにした場合はおそらく大変でしょう。。)
そして現在、競争原理を持ち込む場では小さな子供の演奏にまでそういった傾向の演奏を求めてしまっているのではなかろうか?・・・これが今私が危惧しているところです。(これは音楽に限った事では無く全般的な傾向だとみています。もちろん、目の前の子たちが傲慢だという訳ではないのですが・・)
そうやって育った子たちの殆どは、音楽以外の職業を選択してゆくのですが、思考の根底にはそういうことが宿ってしまう。
「静かで控えめで小さな詩のような音楽。ひけらかしやエゴの表出とは無縁に、四季折々の風景、素朴な暮らしの一場面が個人の日記のように書かれた世界。」こういうリヒテルが求めた音楽の世界、人として正直でありなさい。誠実でありなさい。澄んだ目と耳で世界を見なさい。自分の足で大地に立ち、自分の頭で考え、謙虚に生きなさい。―――きっと、本物の「芸術家」と言われる人たちは、そんなことを願っている人たちだと思うのです。
心を開放し、ユーモアたっぷりに楽しく愉快。
時として真剣にマジメに物事に向き合い、強い心で命を懸けて立ち向かう事もあるでしょう。
子供は面白い事が大好き。
属性にまだ毒されていない、柔軟な心を持っています。
しかしまた、染まりやすくもあります。
あっという間に、その環境に染まってゆきます。
文化の違う国々の子を見れば一目瞭然でしょう。
裸で素足で暮らす子。
王家に生まれついた子。
幼くして既に武器を手にして戦う子。
自分たちの目の前の子が“フツウ”だと思いがちですが、文化圏が違えばまったく事情は異なるでしょう。
時代が変わってもそうでしょう。
とにかく子供たちは“大人の鏡”です。
子供の「何」を育てたいのか?=未来をどう構築してゆきたいのか?
同義語だと思うのですが、如何考えられますか?
ちょっと今日は長い上にダイレクトな表現でしたでしょうか?
目の前の子供は、健康に生きていられれば、必ず大人になる事を忘れてはいけません。
・・
「今のあなたが未来のあなたへとつながっているんだよ」
まだまだ書きたいことだらけですが、、
すみません
今日はこの辺で~
2つの展覧会と美味しいもの・・の旅でした
色々な旅の目的も果たせて、良かった~
さてさて、今日のお題の――子供たちをどう育てたいのか――よく、子供たち、、ということを言いますが、何故子供なのでしょうか?
それは――我々の未来――に他なりません。
ひとは「育てる」という行為を必ずします。
子供を持つ人持たざる人――に関わらず、子供や若い人を育てます。
何かしら関わる――と言っても良いかも知れません。
人は死すべき存在ですから、その手から手へ、より善きもの・・を伝える・・これが文化なのだと思います。
最近読んでいる本の中で気になる事があります。
気になる本。
養老孟司の大言論シリーズより「嫌いなことから人は学ぶ」・・・本のオビには――実のところ、日本の将来、心配です!――と書かれています。
とても人間的な方ですので、俺はジジイだからもうすぐ死ぬ。知ったことか・・と吐き捨てつつも、ほおっておけない現実を鋭く指摘されています。
本当に賢い!と、私が言うまでもなく周知のことですが。。
幾つか抜き出して引用しますので、頑張って読んでみて下さいね。
傲慢になっていないか――日本人の傲慢――
日本人のボランティアがラオスの田舎に学校を作った。その学校が無事に動き出し、しばらくしてから、そのボランティアの人たちが視察に再度訪れた。その時に国際交流と称して、日本の子供たちも連れてきた。「その子供たちがネ」と、その友人がいう。「ラオスの子供や大人をバカにしているのが見えるんだよ」。行ってみればクーラーが無い、コンピューターが無い、車が無い、云々。学校だってなかったわけである。
それを聞いて、アッと思った。(略)古いものが生きている時には、必ずそこに現代的な意味がある。さもなければ、古いものなんか簡単に消えてしまう。じゃあそこに何があるのか。多くの人は認めたくないかもしれないが、その答えは日本人の傲慢さであろう。子供ですら発展途上国をバカにする。大人が知らず知らずにそうなっているからこそ、子供がそうなる。(略)
ただいま現在のおまえらの態度が悪いんだよ。そういわれていると思えば、いささか納得できる節がある。(略)
私の世代は無一文から出発した。だから少なくともモノが無いことについては、何の痛痒(つうよう)も感じない。と同時に、モノがあるからと言って、誇る気もない。
*******これに関しても、私が都心に住んでいる訳ではないので余計に感じるのかも知れませんが、都会田舎、金持ち貧乏、その他、成績でも何でも等級をつけて差異を確認し、ちょっとでも上のものがあることで安心を得ようとしているように見えます。
私も目の前の子供たちから、そういう感じを受けることがあるので、正直“ザンネンだ”と思ったり、う~んと思ったりすることもあります。やはりそれは“傲慢さ”だと思うのですよね・・・そして、それはとりもなおさず“大人”の態度と考えから来ていると思います。マスコミも面白おかしく取り上げますしね。
優れた芸術家――と言われる人たちは、こういう「人としてどうあるべきか」を、鋭く透徹した目で捉えています。
茶人もそうです。
身分の上下関係なく、ワビサビの世界に遊ぶ。
しかし現実は、どれだけ高価な着物に身を包み、高い茶碗を手にするか・・俗人とはそういう人で・・
もちろん私も俗人ですが、自覚はしています。
そして本質的には何に価値があるのか・・物事の本当の意味は・・と・・
「美意識」「美学」・・それは、商業的ではなく見せかけでもありません。
それを嫌ったからこそ、敗れたような型破りな陶磁器もあるのですが、それすら“幾らの価値”に還元されてしまう。
本当に伝えたかったのは、その“心”ではないでしょうか。。
********リヒテルの記事も読んで頂けますか?
スヴャトスラフ・リヒテル(1915-97 ウクライナ出身、モスクワで没)は、単にいちピアニストというだけにとどまらない、巨大で謎めいた存在であった。詩人、神秘家、哲学者、預言者...そういった多様な顔を感じさせる、限りなく尊敬され畏怖される、何者かであった。(略)
いまロシア・ピアニズムということが盛んに言われているが、結局のところはその核にあるものは、リヒテル・ショックの記憶とノスタルジーなのかもしれない。それほど、鉄のカーテンの向こうからやってきた強大な男のイメージは鮮烈だった。
「獅子の一撃」ということをある評論家が言っている。リヒテルのピアニズムの、ある特別な瞬間を言い表す言葉として、いかにもその通りだと思う。真の大ピアニストは、どこか帝王の風格がある。そしていざというときは獰猛で的確な一撃によって、不意に音楽の本質を捉え、あらゆる聴き手を震撼させるのだ。
リヒテルは全天にひときわ輝く一等星のように、20世紀の音楽界全体を照らす存在だった。
正直いえば、もっと派手な大曲を弾いてくれればいいのになと思わなくもなかった。「獅子の一撃」が欲しかった。だが、一度弾きはじめたら、もう魔術にかかったかのように、リヒテルの世界に完全に没入させられた。何しろリヒテルは預言者なのだ。その日その場にもっともふさわしいと彼が感じた楽曲をリヒテルは弾く。誰も異論は言えない。
1994年2月、あれはまだバブルの余韻が残っている頃だった。派手で刺激的なものを求めていた東京の聴衆にとって、あれほど静かで控えめで小さな詩のような音楽をリヒテルが聴かせてくれたとき、忘れかけた大切なものを思い出させてくれたように感じたものだ。ひけらかしやエゴの表出とは無縁に、四季折々の風景、素朴な暮らしの一場面が個人の日記のように書かれた世界。人はいかに生きるべきかという哲学を、あのときリヒテルは教えてくれたような気がする。
リヒテルとともに思い出されるのは、ピアノ音楽がもっと神秘的で深遠で、人の生き方を根本から変えてしまうほどの力を持ち得るものだという事実なのだから。
真の音楽家とは何かということを考える際の、リヒテルは今も道しるべのような存在である。
子供たちをどう育てたいのか――音楽に出来ること――
今どきの子供たちの演奏を聴いていて、とても残念だと思ったり、がっかりしたり、悲しかったり、時にはイラッときたり、、それを簡単に言えば
“虚飾と傲慢さ”
の表現に、なっていないか?ということかも知れません。
キツイ言い方ですが、子供たちは気付いていないと思います。
大人の世界がそうさせているのだと思います。
例えばプロのアーティストとしてデビューさせるべく――そう思って育てるとします。そうすれば、育てられるピアニストの卵である子供はCD制作会社(レコード会社)からすれば「商品」な訳で、より商品価値のある大衆に迎合したものを求めます。
大衆が賢ければ問題が少ないのかも知れませんが、よりハデなもの分かりやすいもの見た目がキレイ・・つまりビジュアルも求められます。
一部のそういった星の下に生まれた人は、正直もう仕方がない運命なのかも知れませんが、過酷な運命を背負う事もあるかも知れません。
よほど強いものを持っていなければ、まっとうに生き抜くことは難しくなると思います。(CDを出されている全てのアーティストの方のことを言っているのではありません。巨大マーケティングをターゲットにした場合はおそらく大変でしょう。。)
そして現在、競争原理を持ち込む場では小さな子供の演奏にまでそういった傾向の演奏を求めてしまっているのではなかろうか?・・・これが今私が危惧しているところです。(これは音楽に限った事では無く全般的な傾向だとみています。もちろん、目の前の子たちが傲慢だという訳ではないのですが・・)
そうやって育った子たちの殆どは、音楽以外の職業を選択してゆくのですが、思考の根底にはそういうことが宿ってしまう。
「静かで控えめで小さな詩のような音楽。ひけらかしやエゴの表出とは無縁に、四季折々の風景、素朴な暮らしの一場面が個人の日記のように書かれた世界。」こういうリヒテルが求めた音楽の世界、人として正直でありなさい。誠実でありなさい。澄んだ目と耳で世界を見なさい。自分の足で大地に立ち、自分の頭で考え、謙虚に生きなさい。―――きっと、本物の「芸術家」と言われる人たちは、そんなことを願っている人たちだと思うのです。
心を開放し、ユーモアたっぷりに楽しく愉快。
時として真剣にマジメに物事に向き合い、強い心で命を懸けて立ち向かう事もあるでしょう。
子供は面白い事が大好き。
属性にまだ毒されていない、柔軟な心を持っています。
しかしまた、染まりやすくもあります。
あっという間に、その環境に染まってゆきます。
文化の違う国々の子を見れば一目瞭然でしょう。
裸で素足で暮らす子。
王家に生まれついた子。
幼くして既に武器を手にして戦う子。
自分たちの目の前の子が“フツウ”だと思いがちですが、文化圏が違えばまったく事情は異なるでしょう。
時代が変わってもそうでしょう。
とにかく子供たちは“大人の鏡”です。
子供の「何」を育てたいのか?=未来をどう構築してゆきたいのか?
同義語だと思うのですが、如何考えられますか?
ちょっと今日は長い上にダイレクトな表現でしたでしょうか?
目の前の子供は、健康に生きていられれば、必ず大人になる事を忘れてはいけません。
・・
「今のあなたが未来のあなたへとつながっているんだよ」
まだまだ書きたいことだらけですが、、
すみません
今日はこの辺で~
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