少し前に、調べたいことがあって、ネット検索をしていたら、J.S.バッハの時代の人気ランキングというのがあって、1位はテレマン、2位ヘンデル、、肝心のバッハは7位であった。。という記事があって、興味深く読みました。
J.S.バッハは、10代の時に、両親と死別し、長兄のところに身を寄せました。
この事は、私も小学生の時に読んだ子供用の本で読み知ってはいたのですが、なんとなく当時のことだから相当な年上のお兄さんだったと、勝手に解釈していました。
でも、このころの長兄は、まだ20代の若者で、家庭を持ったばかり。
そのうち子供も生まれるし、自分自身の生活だって大変だったと思います。
出来る限りの教育は受けさせてもらってはいますが、どこまでも高学歴を望むこともできず、バッハは10代後半(17歳から)で既に仕事についています。
もちろん才能あふれる若者でしたし、教会オルガにストなどの仕事に就き、生徒を指導する立場だったバッハですが、自分より年上の生徒もいて、ちょっとした争いごとになったという記述が、克明に残されているようです。
なんでも、「へっぽこファゴット吹き」と、バッハになじられた3歳年上の生徒が、それを根に持ち、待ち伏せして襲撃したというのです。
樋口先生のお兄様である、樋口隆一先生の「バッハの風景」(小学館)に、詳しく書いてあります。
少し引用。。。
4回にわたって開かれた長老会の記録には、その顛末が克明に記録されている。長老会に訴えたのはバッハの方なのだが、結果はどうも「けんか両成敗」の方向に流れてしまったようだ。なんといってもバッハは生徒を監督する立場なのだから、そんな挑発に乗ってはいけないのだが、ガイヤーズバッハは生徒と言ってもバッハより3歳も年上だったというのだから、無理もないと言えるのである。・・(略)・・いくら才能があるといったって、大学にも行かず高校を出たばかりで新しい教会のオルガにストという華やかな地位を得たバッハに「へっぽこ」呼ばわりされてはつらかろう。「人間はみな不完全さをもって生きているものだ」という長老の意見には、妙に合点がいく。・・・
もう、ここを読んで、大笑いしてしまいました。
隆一先生が、「妙に合点がいく」・・・と書かれたことも、なんだか私にとっても合点がいって、ツボに入ってしまったので、紀美子先生に「お兄様のここの文が良かったです」と言ったら、「あら、そう!?」はははっ、と笑っていらっしゃいました。
余談ですが、樋口隆一先生の本って、かなり詳しく専門的にもかかわらず、たいへん読みやすいのです。
バッハに対する「愛」を感じます。
私の好きなドイツの児童文学者に、ミヒャエル・エンデという人がいます。
白い竜が出てくる映画「ネバーエンディングストーリー」の原作者としても有名ですが、代表作に「はてしない物語」「モモ」(・・その他著者多数)等があり、多くの本を世に出しました。
「エンデと語る」という、子安美智子さんの本があるのですが、この中でエンデは、作品を書くときに、一度得た知識を自分の体内に取り込み、まず忘れる。。。そして本当に自分のものになったところで書く。。
というようなことを述べていましたが、説明的に感じる作品は、この「忘却する」「体内に取り込む」という作業が未完だったのではと感じます。
よく生徒さんの演奏にも、「説明的に弾かないで!」と、注意することがあるのですが、言われたとおりに、少しアクセントをつけよう、などと頭で考えただけで弾いてしまうと、そういうことになるのだと思います。
自分のものにしなければ、本当に「作品」にはならないのでしょう。
エンデの言葉の中に、「愛」は、「にもかかわらず」という感情だと。。こんなに素晴らしいから、、という理由づけでなく、出来ないところがある、ダメなところがある・・・長老の言葉を借りれば「不完全さ」にもかかわらず・・・愛するのだと言っていました。
そうなのかも。。。ですね。。。
マスコミや宣伝や・・いろいろなところに、こんな素敵なことがあります!と、「光」の部分だけを強調するような流れがありますが、物事には「光」があれば「影」もあるわけで、それがないものは、「実像」ではなく「虚像」なのではないでしょうか?
これをしさえすれば、上手くいく。。とか、幸せになれる。。。ってことは、まずなく、そのどちらも見つめてこその「本物」なのだと感じています。
「光」の部分しか見つめない姿勢でいることは、「精神の幼さ」につながってゆくのではないかと、危惧しています。
ぁ。。。また、難しいことを言い始めてしまいました。。。
さて、バッハ。。。
凄すぎる人なので、「教科書」を「勉強」する感じになってしまいがちですが、彼だって、より待遇のいいところを求めて、仕事場を移っていったり、老境に入り、若者にとって代わられようとしているときに、売り込もうとしたり、、それはもちろん「生きていた人」なわけで、いろいろな葛藤があったに違いありません。
次第に息子たちや、ハイドン(バッハの息子の一人と同じ年に生まれた)など若手の新しい曲がもてはやされるようになり、世間から忘れ去られたかのようであった時代が過ぎ、新たにメンデルスゾーンによって、世間に知らしめられた・・と言うのは有名な話です。
その間の多くの作曲家などは、バッハの平均律をいつも傍らに置いて勉強していた・・という記述にしばしば出くわしますが、一般的には演奏会で取り上げられることも、ほとんどなかったのでしょう。
お客さんが入らなくては、演奏会は成り立ちませんからね。。
いつの時代も、世間というのは、そんなものなのかも~
なーんて思いながら・・
ちなみに、子供たちにとっては「プレ・インベンション」の中で、ちょっと弾くこともある・・程度のテレマンですが、当時は実力者で尊敬される大人物で、バッハも息子の一人がテレマンに名付け親になってもらっているようですね。
今日は、ずいぶんカタくなってしまいました~~
我慢して読んでくださった方、ありがとうございます