ちょっと固い印象のタイトルになっちゃったかな・・・
先日ご紹介した、「若いピアニストへの手紙」 ジャン・ファシナ著
この中の一文が、ピアノを弾く人ばかりでなく、人としてどういう佇まいをしているのか・・・
という考えに行きあたるので、その一文をご紹介しておきます。
本物の音楽家、本物の芸術家というものは真面目な職人でもある。しかも優れた理解力と再現力を備えた職人なのだ。ピアノの練習をめぐって忍耐力ということに私がこれ程こだわっているのはそのためだ。
毎日、何かしら新しい発見をし、忍耐と情熱、謙譲を持って自分の技を磨き、さらに磨き上げ、自らの務めを成し遂げる勇気を持たなければならない。(略)
ある生徒が初めて私の前で何かを弾いたとする。生徒の問題点は、初めのほんのいくつかの音符を弾いただけで、すぐに分かるものだ。つい先日、全国コンクール審査員のために日本に行き、3日間にわたって相当な数の演奏を聴いた。どの奏者も大変ハイレヴェルだった。けれどもその時も、数小節ほど聞いているうちに、私の意見はこうと定まった。
舞台に姿を現すのを一目見れば、その奏者が気取りをぬぐい去って本当の自分自身を人前に出しているのかそうでないか、すぐにわかるものだ。演奏にとりかかる仕種からは、音の可能性や、フレーズを方向づけ意味を成すようにしっかりと作ってあるかどうか、そしてリズム及びテンポを重んじる姿勢があるかどうかがはっきりと伝わってくる。この時もう、演奏者の人柄はこちらに伝わってくるものだ。
良い音色を出せる奏者もいるが、彼らも私の心に響くスタイルを身につけているわけではない。つまり真摯さ、簡明さ、自然さの事である。その奏者が音楽的効果を狙おうとしていると、さて私は、その解釈の正当性に批判的な視線を注ぎ、解決しなければならない欠点と問題点、そして再検討課題を数え始めることになる。彼がこのように演奏するのは、彼の思考プロセス、つまりその奏者を培ってきたもの、これまで感化されてきたもの、誰かから与えられた忠告、彼の脳裏に刷り込まれた演奏などに導かれてのことだからだ。演奏者個々の美意識は、そうしたもの全てに由来しているのである。
少し長くなってしまいましたが、引用してみました。
これは、もしかしたら、ピアノ演奏に限らず、他のあらゆることに言いえているのではないかと思います。
気取りなく、簡明で、真摯で、自然・・・謙虚についても触れてありました。
人としての佇まい。
もちろん私はまるでなっていませんが、こうありたいと願う、本来の人の姿のように思います。