ここのところ、鎌倉“池田塾”に通わせて頂くようになったおかげで、課題になっている小林秀雄の「本居宣長」、そしてそこから波及して江戸期の学者たちについても考えることがあります。
殊に中江藤樹は米子にも関係の深い人ですし、また契沖、仁斎、真淵、宣長等、、脈々と続く江戸期の学問の巨人たちの大元とも言える人なので少し勉強を深めてみたいと思っています。
(スミマセン・・・この先、面倒な表現があったら読み飛ばしてください)
「本居宣長」の文の中で、やはり・・・と言うべきか?『論語』については語られていまして。。
朝ドラ(私は全然見ていないのですが…)に登場した渋沢栄一等も、『論語』の教えは重要視されているようですね
『論語』を書いたのは、紀元前500年くらいの春秋時代の中国の思想家である、孔子なのですが、宣長も「孔子はよき人・・」などと書いています。
外来の解釈的、説明的な漢心(からごころ)、さかしら心を嫌った宣長ですが、実体験から来た本質的な言葉を多く残している孔子の教えからは、ソクラテスにも通じる様な、日常に即対応できる、真心と言いますか、とても分かり易い「あ~そうよね」と、自分の生活感からも共感できるような言葉の数々に出会う事が出来るんです。
(ちなみにベートーヴェンはソクラテスがとても好きだったようです)
さて、やっと本題です。
この、孔子の教えの中に、「六芸」という、君子に必要な基本的な学術というものがありました。
内田樹先生の『街場の教育論』から引用いたします
六芸とはすなわち、礼・楽・射・御・書・数のことです。
(略)
「楽」は音楽です。何故、音楽が第二位に来るのか。これも私は長いこと意味が分かりませんでしたけれど、今は少しわかります。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。「楽」は時間意識を涵養(かんよう・徐々に養い育てること)するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。楽器の演奏も曲の鑑賞も出来ない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」が未だ聴こえて「まだ聞こえない音」がもう聴こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディーも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織り成す関係の中でしか把持(はじ)されません。そして「先行する楽音」と「後続する楽音」も、論理的に言えば、今ここでは聴こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聴き取ることも出来ないのです。(略)
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。(略)音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養の為に極めて重要な科目とされるのだと私は思います。
「礼」は祖霊を祀る儀式のことで、死者すなわち「存在しないもの」とも人間はコミュニケーション出来る。これを筆頭に置いたことは、人間についての洞察として深いと内田先生は仰っています。
「射」は弓。「御」は馬を御すること。すなわち武術です。自分の体をどこまで細かく分節できるか。筋肉や骨格や腱や神経や細胞に至るまでを意識できるか。それが課題となります。身体運用の精度を上げるためには、どういう風に心と体を使うのがいいのか。
また身馬一体となって人間と間が一つになって、人間が単体で発揮できる運動の力の何倍、何十倍もの能力を発揮する。
それが武術の本質として集約されると・・・。
「礼・楽・射・御」 自分の体を深く知り、目に見えないものや言葉ならざる者とのコミュニケーション、ということに大きな意味がある様に思います。
そして最後の二項が、「書・数」
これに関して、内田先生はこのように仰っています。
「ご覧のとおり、現代の教育では六芸のうち、礼・楽・射・御は必須科目には含まれていません。最下位に置かれた二教科だけが集中的に教えられているのです。」
「さて、現代教育課程から排除された、これら四芸の特徴は何でしょう。私は実はこれこそが教養教育の本体だと思っているのです。
とりあえず、この四芸では、どれも達成目標や成果が数値化できません。」
大変深い洞察をされていて、「なるほど!」と膝を打つように明快な言葉。
宜しければ、内田樹先生の「街場の教育論」手に取ってみてください。
街場の・・・シリーズは他にも出版されているようですが、私は未読です。
その他、脳関係の本では、池谷裕二さんや中野信子さんを何冊か読んでみましたが・・・。
中野信子さんの「脳内麻薬」は、理系志向の大変分かり易い、しかもギョッとするような内容でしたが、私たちの感情や行動に明快な視点を与えて頂けて、大変興味深く読ませて頂き、参考になりました。
面白かったので幾人かの方に勧めてみたところ、読み始めた方続出です
ピアノを弾く時、200年あるいは300年という時空を超えて作曲家に出合い、「何を感じていたのだろう。」と、考えます。
つまり「目の前に存在しない」ものとのコミュニケーション。
そして、自分の体を知り、どのように使ったらあのような音が出せるのだろうと考えます。
それがとても深いものだと次第に気付きます。
専門家としてやっている人たちが、どれほど大変なことに挑んでいらっしゃるのか少しずつ理解できるようになります。
そして自分自身もいろいろ工夫して楽しみを見つけることが出来ます。
それを知るだけでも、素晴らしいのではないかと思います。
どんな専門分野でも、やればやるほど果てしない道を知ることになります。
だから、次の世代の人たちに、「たのむよ」と言って、出来るだけ良い形でバトンタッチする。(駅伝みたいですね…)
きっとそれが人生ですね
何だか難しいことを書いてしまいました。
p.s.『論語』はすこーしずつしか読めてはいませんが、とても深いので、「もっと高校生の頃に読めば良かったなぁ」・・と思うのですが、10代、20代の頃の私に、どれだけ理解できたのか、と考えると??・・ですね。
でも、素読に耐え得る音楽性を持っているので、暗唱するだけでも意味があるのでは?と、考えます
お付き合い頂きありがとうございました
殊に中江藤樹は米子にも関係の深い人ですし、また契沖、仁斎、真淵、宣長等、、脈々と続く江戸期の学問の巨人たちの大元とも言える人なので少し勉強を深めてみたいと思っています。
(スミマセン・・・この先、面倒な表現があったら読み飛ばしてください)
「本居宣長」の文の中で、やはり・・・と言うべきか?『論語』については語られていまして。。
朝ドラ(私は全然見ていないのですが…)に登場した渋沢栄一等も、『論語』の教えは重要視されているようですね
『論語』を書いたのは、紀元前500年くらいの春秋時代の中国の思想家である、孔子なのですが、宣長も「孔子はよき人・・」などと書いています。
外来の解釈的、説明的な漢心(からごころ)、さかしら心を嫌った宣長ですが、実体験から来た本質的な言葉を多く残している孔子の教えからは、ソクラテスにも通じる様な、日常に即対応できる、真心と言いますか、とても分かり易い「あ~そうよね」と、自分の生活感からも共感できるような言葉の数々に出会う事が出来るんです。
(ちなみにベートーヴェンはソクラテスがとても好きだったようです)
さて、やっと本題です。
この、孔子の教えの中に、「六芸」という、君子に必要な基本的な学術というものがありました。
内田樹先生の『街場の教育論』から引用いたします
六芸とはすなわち、礼・楽・射・御・書・数のことです。
(略)
「楽」は音楽です。何故、音楽が第二位に来るのか。これも私は長いこと意味が分かりませんでしたけれど、今は少しわかります。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。「楽」は時間意識を涵養(かんよう・徐々に養い育てること)するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。楽器の演奏も曲の鑑賞も出来ない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」が未だ聴こえて「まだ聞こえない音」がもう聴こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディーも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織り成す関係の中でしか把持(はじ)されません。そして「先行する楽音」と「後続する楽音」も、論理的に言えば、今ここでは聴こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聴き取ることも出来ないのです。(略)
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。(略)音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養の為に極めて重要な科目とされるのだと私は思います。
「礼」は祖霊を祀る儀式のことで、死者すなわち「存在しないもの」とも人間はコミュニケーション出来る。これを筆頭に置いたことは、人間についての洞察として深いと内田先生は仰っています。
「射」は弓。「御」は馬を御すること。すなわち武術です。自分の体をどこまで細かく分節できるか。筋肉や骨格や腱や神経や細胞に至るまでを意識できるか。それが課題となります。身体運用の精度を上げるためには、どういう風に心と体を使うのがいいのか。
また身馬一体となって人間と間が一つになって、人間が単体で発揮できる運動の力の何倍、何十倍もの能力を発揮する。
それが武術の本質として集約されると・・・。
「礼・楽・射・御」 自分の体を深く知り、目に見えないものや言葉ならざる者とのコミュニケーション、ということに大きな意味がある様に思います。
そして最後の二項が、「書・数」
これに関して、内田先生はこのように仰っています。
「ご覧のとおり、現代の教育では六芸のうち、礼・楽・射・御は必須科目には含まれていません。最下位に置かれた二教科だけが集中的に教えられているのです。」
「さて、現代教育課程から排除された、これら四芸の特徴は何でしょう。私は実はこれこそが教養教育の本体だと思っているのです。
とりあえず、この四芸では、どれも達成目標や成果が数値化できません。」
大変深い洞察をされていて、「なるほど!」と膝を打つように明快な言葉。
宜しければ、内田樹先生の「街場の教育論」手に取ってみてください。
街場の・・・シリーズは他にも出版されているようですが、私は未読です。
その他、脳関係の本では、池谷裕二さんや中野信子さんを何冊か読んでみましたが・・・。
中野信子さんの「脳内麻薬」は、理系志向の大変分かり易い、しかもギョッとするような内容でしたが、私たちの感情や行動に明快な視点を与えて頂けて、大変興味深く読ませて頂き、参考になりました。
面白かったので幾人かの方に勧めてみたところ、読み始めた方続出です
ピアノを弾く時、200年あるいは300年という時空を超えて作曲家に出合い、「何を感じていたのだろう。」と、考えます。
つまり「目の前に存在しない」ものとのコミュニケーション。
そして、自分の体を知り、どのように使ったらあのような音が出せるのだろうと考えます。
それがとても深いものだと次第に気付きます。
専門家としてやっている人たちが、どれほど大変なことに挑んでいらっしゃるのか少しずつ理解できるようになります。
そして自分自身もいろいろ工夫して楽しみを見つけることが出来ます。
それを知るだけでも、素晴らしいのではないかと思います。
どんな専門分野でも、やればやるほど果てしない道を知ることになります。
だから、次の世代の人たちに、「たのむよ」と言って、出来るだけ良い形でバトンタッチする。(駅伝みたいですね…)
きっとそれが人生ですね
何だか難しいことを書いてしまいました。
p.s.『論語』はすこーしずつしか読めてはいませんが、とても深いので、「もっと高校生の頃に読めば良かったなぁ」・・と思うのですが、10代、20代の頃の私に、どれだけ理解できたのか、と考えると??・・ですね。
でも、素読に耐え得る音楽性を持っているので、暗唱するだけでも意味があるのでは?と、考えます
お付き合い頂きありがとうございました
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