カウンターが2000に近づいてきました。
いつも、この「まこねこまどかぶろぐ」を、ご覧になっている皆さんありがとうございます。
特に携帯電話から見てくださっている皆さんありがとうございます。
2000回を射止めた方は、カードをいたしますので、お知らせください。
昨日は、ちょっといいことがありました。
それは、前に地下鉄の駅にある情報誌「メトロ」のプレゼント応募に出したら当たったのです。
残念ながら、1等の、箱根の高級温泉の宿泊券ははずれましたが、二等のふたり泊まるとひとりがただになる割引券が当たったのです。
応募者2000名の中から一等は一組で、二等は50組でした。
11月まで、有効で一泊2万円近いチケットです。温泉に行きたいと祈って出したので、いつか友達と行けるように祈ります。
10年前に、同じように祈って出したら、天城山荘の宿泊券が当たり、最近では、昨年の1月に、ジュースが2ダース当たりました。
そして、キョロちゃんのエンゼルマークは3回当たっています。
配達に来た人が、中を見たことがないと言われたので、見せてあげると大喜びされました。
なんでも、当たったりもらったりすることは、うれしいものですね。
7月25日から27日まで、白馬のグリーンプラザホテルで、
本キャンプがあり、24日はプレキャンプになります。
50種類バイキングが楽しみですが、好き嫌いの多いわたしは、いつも同じような物を食べています。
今は、奉仕者ですが、始めのころは、ただのお客だったので、地域にある色々な所に行きました。
シャガールの美術館・絵本館・ハーブ園などもいきましたが、一番行きたかったのは黒澤明の映画「夢」に桃源郷として出てくる水車小屋の所です。
ダイドーのわさび園のそばにあります。
川の水が美しく水中に生えている植物が流れの方向にゆれているさまは、あまりも美しく感動しました。
そのほとりに三軒の水車小屋が、並んで建っていますが、まるで、江戸時代にタイムスリップしたような気になります。
わさび園で、川の水に足をつけながらお弁当を食べると一段とおいしくなりました。
そして、わさびソフトクリームは、最高においしーいですよ。
みなさん、白馬キャンプに来てね。
昨日の「ヤングゴスペルライブ」は、機材も整って、充実したものになりました。
同じビルでは、高木ブーさんのウクレレ・ライブがあり、通路には、ピップ・ポップのダンスを練習している若い方がたくさんにました。
男性にチラシをあげると「若い子の踊りを見ているほうがいい。おばさんは
踊らないの?」と聞かれたので、「おばさんは踊らないけど、ゴスペル聞きに来ない?」と言うといいよと言って付いて来てくれました。
12名の新しい方が来られ感謝でした。
夜の「ゴスペルの集い」も男性スタッフがたくさん増え、盛り上がりました。
日曜日のインターネットテレビは、久しぶりにいやされた方特集です。
皆さん、東京アンテオケ教会で6:30にお待ちしています。
今日は2:30より中野ゼロホール4Fで「ヤングゴスペルコンサート」があり、6:30からは、東京アンテオケ教会で「ゴスペルの集い」があり、The River やエウカリスティアスやエルサレムなどがでます。
入場無料なので、皆さん来て下さいね。
ところで、この間、定食屋さんにまんが雑誌があったので読みました。
「日本キリスト教史・国籍は天にあり」で、私が資料に使ったものと同じ資料を使って、豊臣秀吉と高山右近が、バテレン(宣教師)の船にのっている同じエピソードが描いてある漫画があったのです。
ところうが、その船に売り飛ばされるためにキリシタンの女性達が、だまされて閉じ込められていたので、秀吉が迫害を始めたことになっていました。
まんがや本にでたらめでも描かれると、それが本当のように思われてしまうから怖いですね。
拙著「日本キリスト教史・国籍は天にあり」にもまちがいがあるので、再販するたびに直していますから、すでにお持ちの方でも新しく出版されたらお買い求めください。
「浦上キリシタン物語」の時、読んだ資料の中には、浦上の方々が迫害されたことを大げさに言っているだけで、彼らを受け入れた各藩の経済がいかに大変だったかと書かれている本がありました。
同じことでも、その方の思想でまったく違うものになってしまうので、びっくりしました。
今日は久しぶりにです。
梅雨入りしたのに、からから天気だったので、今日からが本当の梅雨入りだと宣言しなおされました。
このまま、行くのかと思い心配していましたが、まさに恵みの雨ですね。
クーラーが壊れたままなので、ここ一週間厳しい日々が続いていたので、感謝です。
「日本キリスト教史・荒野で叫ぶ者の声」も、とうとうペン入れが100枚切り、毎日カウントダウンしていますが、まだ数ヵ月かかります。
いつも思うのは、信仰を守って殉教した方々に敬意を払うと同時に、信仰を曲げたり譲歩せざるを得なかった方々の苦悩のことです。
迫害さえなかったら、信仰を守り通したはずなのに、教会員や家族や、守らなければならならないもののために譲歩せざるを得なかった悲しさです。
誰も好きで、信仰をゆがめる方はいません。
そうせざるを得なかった時代が、再び来ないように祈りましょう。