アルコール依存症者と名付けられることは、たしかに、ある種の社会的烙印を押されることだ。
自堕落な人、自制心のない人、…"フツウの人とは違うヒトたち"
だから、依存症の理解がすすんで、「ああ、人格の問題ではないし、あまり私たちとチガワナイ。虹のいろがデジタルに区別されるのではなく、グラデーションなのと似ている。」
スペクトラム化、平準化し、スティグマが消える。
たしかに、あらまほしきことだ。
だが一方で、私はつねに感じているは、「依存症は誰の身にもおこる…わけがない」ということだ。
同じ環境にいても、依存症になる人とならない人が、いる。
しかも、それはもう、プログラムされているかのように。
誤解を生みそうだが、経験的にそう思う。まるで「選ばれた人」であるかのような感じだ。
そして、そのことをまったく無かったことにし、「私もあなたも同じ」とするのは、…私の生まれる前からずっと自助グループを続け、回復の道を歩んできた仲間たちの歴史まで、「みんなフツウね、みんな同じね」とまさに平準化し、スペクトラム化する、なにか、冒涜のようなものを感じる。
LGBTQに対しても思う。大学の先生が、「かならず数人、LGBTQという言葉を使わなくても良い社会になるといいですねと書いてくる。これには、首を縦にふれない」
女性差別の問題にも同じことを思う。「女性とか男性とか、もう区別しなくてもいいよね」
ぺらい。薄っぺらいのだ。平準化は…スペクトラム化は、マジョリティにとって都合がいいだけではないか?
私たちは、気をつけねばならない。
名前があるということは、歴史があり、個人の経験があり、他と区別する必要が、私たちにとって生きる尊厳にもなっているということを、マジョリティに伝え続けなければならない。
今日一日