旅行に行く前日は、30℃の夏日でしたが、飛行機でヘルシンキに降り立つと、
寒く、ダウンジャケットを着ての旅でした。
船で、着いたところは、エストニアのタリンです。
トームペア城は、13世紀前半に、騎士団の城として建てられたそうです。
古い町の展望台から見る景色は、すばらしい。
聖オレフ教会の塔がひときわ目立つ。
歌の原は、1988年30万人の人が集い、独立の願いを歌にして、バルト三国の独立運動の第一歩となったそうだ。
旧市街は、ゴシック様式の建物が並ぶ。 聖ニコライ教会は、博物館となっていた。
タリンの次は、ラトビアのリガ。
13世紀から、ハンザ同盟の港町として栄えたところ。
町は、建築家ミハイル・ユーゲントシュテインによるアールヌーボー様式の建物ばかりが並びます。
リガの歴史地区を歩いて回り、これが、写真を撮りなからついていくのが必死です。
リガ大聖堂と聖ペテロ教会は空に向かって、塔が高くとがっています。
ブラックヘッドの会館の時計台が、11時を指し、ラッパが各方面に向けて鳴りました。 この町で有名なお酒、ブラックバルサムを夫のお土産に買いました。
バウスカでは、ルンダーレ宮殿の見学。
ロシアの女帝アンナに愛されたビロン公の夏の宮殿。
1768年に完成し、宮殿内部は、ロココ調の装飾が素敵です。
いよいよリトアニアへ。
杉原千畝の元日本領事館は、記念館として、ひっそりと建っていました。
ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちの命(6000人)を助けたことで有名になりました。
しかし、これは、長い間知られていませんでした。
助けられたユダヤ人が、杉原を探し当てて、やっとお礼を言ったそうです。
そして長年恩返しの機会を待っていて、、東日本大震災の時、いの一番に、救済ができたそうです。
カウナスでレンガ造りのカウナス城やベルクーナスの家も見て周り、切手を買いました。
リトアニアの首都ヴュリニュスは、町全体が世界遺産。
元は、ポーランドの一部だった天使の町、教会の町といわれる。
聖ペテロ&パウロ教会は、中に入ると、正面は、キリストの三段階の生涯の絵、左には、金と銀のマリア様があった。
大聖堂の前には、ここで3回回ると願いがかなうというので挑戦しました。
ここを起点として、ロシアに虐殺された人の多い中、民がみんなで、手をつなぎ、国をぐるっとかこんで、1918年独立を勝ち取ったということです。
さあ、はがきを出してしまわなければと、夜、近くのショッピングモールに行って、受付で聞いて、黄色のポストに入れました。
旅行は、半分来てしまいました。
ポーランドのワルシャワでは、まず旧市街広場に。
ワルシャワは、ナチスに破壊されてしまった街を、残された絵や、図面から再建したそうで、傷までも再現して、歴史を感じさせる街となっていました。
聖十字架教会には、ショパンの心臓が安置されているそうで、町の中のベンチのボタンを押すと、ショパンの音楽が流れました。
ガイドさんは、冗談の上手な方でしたが、速足で、あちこち見せてくれ、
最後に、「ロシアは、大嫌いだ。」と、私たちに挨拶していきました。
チェンストホーヴァには、「黒いマドンナ」のあるヤスナ・グラ修道院があり、世界3番目の巡礼地だそうです。
大勢の巡礼者と一緒に黒いマドンナを拝みました。
次の日は、ヴィエリチカの岩塩坑へ。
坑道は、ありのすのように、327mも深く掘られ、岩塩彫刻や、掘られた神殿を見ることができました。
午後は、オシフィエンティム(アウシュビッツ)で、日本人のガイド、中谷さんと一緒に悲劇の場所を周りました。
やせ細ったユダヤ人の写真や、大量の髪の毛、くしなど道具の展示の中を歩きながら、
中谷さんは、私たちに問いを投げかけてきました。
「なぜ、ユダヤ人は、虐殺されたか?」 「なぜ、ヒットラーは、国民投票で選ばれたか?」
「ユダヤ人は、ローマ帝国に追われた難民だった。」
「国の経済がいきづまって来ると、自分の家族さえ守ればいいと考えるようになるのではないのか?」
「今の難民の問題が、二度とこのような悲劇につながらない様にしなければいけないのではないか?」
アンネのいた、棟も見て回り、胸がつまされる思いだった。
最後の日は、クラクフの市内観光。旧市街ばかり見てきたので、だんだん、こんがらがってきた。
ヴァヴェル城の、金の屋根は観光客も注目。 聖マリア教会。
中央広場のマーケットには、いろいろ並んでいました。
ポーランドのお金ズロチを使わなくてはと、みんな買い物 買い物。
夕方は、大きな会場で、ピアノのコンサートを聞いて、ショパンの音楽に触れ、旅の締めくくりとなりました。
お疲れさまでした。
寒く、ダウンジャケットを着ての旅でした。
船で、着いたところは、エストニアのタリンです。
トームペア城は、13世紀前半に、騎士団の城として建てられたそうです。
古い町の展望台から見る景色は、すばらしい。
聖オレフ教会の塔がひときわ目立つ。
歌の原は、1988年30万人の人が集い、独立の願いを歌にして、バルト三国の独立運動の第一歩となったそうだ。
旧市街は、ゴシック様式の建物が並ぶ。 聖ニコライ教会は、博物館となっていた。
タリンの次は、ラトビアのリガ。
13世紀から、ハンザ同盟の港町として栄えたところ。
町は、建築家ミハイル・ユーゲントシュテインによるアールヌーボー様式の建物ばかりが並びます。
リガの歴史地区を歩いて回り、これが、写真を撮りなからついていくのが必死です。
リガ大聖堂と聖ペテロ教会は空に向かって、塔が高くとがっています。
ブラックヘッドの会館の時計台が、11時を指し、ラッパが各方面に向けて鳴りました。 この町で有名なお酒、ブラックバルサムを夫のお土産に買いました。
バウスカでは、ルンダーレ宮殿の見学。
ロシアの女帝アンナに愛されたビロン公の夏の宮殿。
1768年に完成し、宮殿内部は、ロココ調の装飾が素敵です。
いよいよリトアニアへ。
杉原千畝の元日本領事館は、記念館として、ひっそりと建っていました。
ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちの命(6000人)を助けたことで有名になりました。
しかし、これは、長い間知られていませんでした。
助けられたユダヤ人が、杉原を探し当てて、やっとお礼を言ったそうです。
そして長年恩返しの機会を待っていて、、東日本大震災の時、いの一番に、救済ができたそうです。
カウナスでレンガ造りのカウナス城やベルクーナスの家も見て周り、切手を買いました。
リトアニアの首都ヴュリニュスは、町全体が世界遺産。
元は、ポーランドの一部だった天使の町、教会の町といわれる。
聖ペテロ&パウロ教会は、中に入ると、正面は、キリストの三段階の生涯の絵、左には、金と銀のマリア様があった。
大聖堂の前には、ここで3回回ると願いがかなうというので挑戦しました。
ここを起点として、ロシアに虐殺された人の多い中、民がみんなで、手をつなぎ、国をぐるっとかこんで、1918年独立を勝ち取ったということです。
さあ、はがきを出してしまわなければと、夜、近くのショッピングモールに行って、受付で聞いて、黄色のポストに入れました。
旅行は、半分来てしまいました。
ポーランドのワルシャワでは、まず旧市街広場に。
ワルシャワは、ナチスに破壊されてしまった街を、残された絵や、図面から再建したそうで、傷までも再現して、歴史を感じさせる街となっていました。
聖十字架教会には、ショパンの心臓が安置されているそうで、町の中のベンチのボタンを押すと、ショパンの音楽が流れました。
ガイドさんは、冗談の上手な方でしたが、速足で、あちこち見せてくれ、
最後に、「ロシアは、大嫌いだ。」と、私たちに挨拶していきました。
チェンストホーヴァには、「黒いマドンナ」のあるヤスナ・グラ修道院があり、世界3番目の巡礼地だそうです。
大勢の巡礼者と一緒に黒いマドンナを拝みました。
次の日は、ヴィエリチカの岩塩坑へ。
坑道は、ありのすのように、327mも深く掘られ、岩塩彫刻や、掘られた神殿を見ることができました。
午後は、オシフィエンティム(アウシュビッツ)で、日本人のガイド、中谷さんと一緒に悲劇の場所を周りました。
やせ細ったユダヤ人の写真や、大量の髪の毛、くしなど道具の展示の中を歩きながら、
中谷さんは、私たちに問いを投げかけてきました。
「なぜ、ユダヤ人は、虐殺されたか?」 「なぜ、ヒットラーは、国民投票で選ばれたか?」
「ユダヤ人は、ローマ帝国に追われた難民だった。」
「国の経済がいきづまって来ると、自分の家族さえ守ればいいと考えるようになるのではないのか?」
「今の難民の問題が、二度とこのような悲劇につながらない様にしなければいけないのではないか?」
アンネのいた、棟も見て回り、胸がつまされる思いだった。
最後の日は、クラクフの市内観光。旧市街ばかり見てきたので、だんだん、こんがらがってきた。
ヴァヴェル城の、金の屋根は観光客も注目。 聖マリア教会。
中央広場のマーケットには、いろいろ並んでいました。
ポーランドのお金ズロチを使わなくてはと、みんな買い物 買い物。
夕方は、大きな会場で、ピアノのコンサートを聞いて、ショパンの音楽に触れ、旅の締めくくりとなりました。
お疲れさまでした。