教職につきものの危険性 (その3) は、
過剰なパターナリズム、歪んだパターナリズムです。
この話をするために 「教育におけるパターナリズム」 の話をしておいたのですが、
その後1ヶ月以上、また放置プレイをしてしまいました。
そこでも書きましたが、弱いパターナリズムというのは必要不可欠であり、
教育というのはまさにそうした営みであるので、
教育がパターナリスティックだからといって、ただちに悪いということにはなりません。
しかしながら、いくら相手のためを思ってとはいえ、
パターナリズムというのは相手の自由を抑圧することでもありますから、
パターナリズムが過剰にならないように気をつけなくてはなりません。
相手のためにあらゆる危険性を回避しようと、
何から何まですべて先回りして決めておいてあげようとしはじめると、
キリがなくなってしまいます。
そうすると相手ががんじがらめにされて自由を喪失してしまうぱかりでなく、
いつまでたっても自立できないということになりかねません。
パターナリズムは過剰になりやすいというメカニズムを理解しておく必要があるでしょう。
過剰なパターナリズムよりも怖いのは、パターナリズムが歪んでしまうことです。
パターナリズムとは、
「専門家が素人の利益を考慮して、素人が何をするべきかを決めてあげること」 でしたが、
この 「素人の利益を考慮して」、すなわち 「相手のためを思って」 という大前提の部分が、
たんなる建前に堕してしまって、
実は相手のためではなく、自分の利益のためにその選択肢を押しつけているにすぎない、
というようなことが生じてしまう危険性がありうるのです。
例えば、親が子どものためを思って子どもの進路を決めてあげると言いながら、
実は自分のエゴを満たすために (自分の見栄、自分が叶えられなかった夢の転嫁など)
それを押しつけていたにすぎないということがありえます。
医者が患者の治療方針を決める際に、
実は自分の利益 (より高い診療報酬を得るため、新しい治療方法の実験のため) を
優先させていたということもありえます。
これらは歪んだパターナリズムであるといえるでしょう。
教育の場合には、例えば、
校則によって児童・生徒の生活・行動を律する際に、
それが児童・生徒のためではなく、
教員側の管理の手間を省くために事細かにいろいろ決めてしまうということがありえます。
また、進路指導の際に、これも生徒にとって何が一番いいかという観点ではなく、
学校側の都合で (進学率や就職率を上げるため、合格実績を上げるためなど)
受験先を決定してしまうなどということもあるでしょう。
これらはパターナリズムの名を借りた管理・支配であり、
生徒を利用しているにすぎませんので、
教育のあるべき姿からの逸脱であるといえるでしょう。
難しいのは、過剰の場合と同様、この歪んだパターナリズムも、
本来の相手のためを思うパターナリズムがしだいに歪んでいってしまって、
いつの間にか相手のためではなく自分のための決定になってしまっていたというように、
どこで変質してしまったのかがわかりにくいという点です。
本人が実は相手のための決定ではないということに気づいている場合というのは、
事柄としては悪質ですが、対処は簡単です (欺瞞を正せばいい)。
しかし、あくまでも相手のためだと信じ込んでいる場合というのは、
まずその自己欺瞞に気づき、それを正さなければならないわけですから、
これはそうとう難しい仕事になります。
とりあえずはパターナリズムが歪んでしまうこともありうるというこのメカニズムを、
教師はあらかじめ知っておく必要があるでしょう。
そして、教育的指導をするにあたって、
自分のパターナリズムが過剰になったり歪んだりしてしまっていないか、
常に反省してみるしかないのではないでしょうか。
私も教員志望の学生に対しては、
中学校社会科なんかやめて小学校を受けろとか、
福島県なんかあきらめて関東圏を受けろとか指導しているわけですが、
はたしてそれは本当に当該学生のためなのか、それとも、
福島大学人間発達文化学類の教員採用率を上げるためにそう言ってるだけではないのか、
胸に手を当ててよーく考えてみることにしたいと思います。
(まあ大学生にもなると私の指導なんかに耳を貸さずに、
自分の自由意志でどこを受けるか決めちゃいますので、
自由を抑圧してるとか利用してるだけじゃないかなんていう心配は不要みたいですが…)
過剰なパターナリズム、歪んだパターナリズムです。
この話をするために 「教育におけるパターナリズム」 の話をしておいたのですが、
その後1ヶ月以上、また放置プレイをしてしまいました。
そこでも書きましたが、弱いパターナリズムというのは必要不可欠であり、
教育というのはまさにそうした営みであるので、
教育がパターナリスティックだからといって、ただちに悪いということにはなりません。
しかしながら、いくら相手のためを思ってとはいえ、
パターナリズムというのは相手の自由を抑圧することでもありますから、
パターナリズムが過剰にならないように気をつけなくてはなりません。
相手のためにあらゆる危険性を回避しようと、
何から何まですべて先回りして決めておいてあげようとしはじめると、
キリがなくなってしまいます。
そうすると相手ががんじがらめにされて自由を喪失してしまうぱかりでなく、
いつまでたっても自立できないということになりかねません。
パターナリズムは過剰になりやすいというメカニズムを理解しておく必要があるでしょう。
過剰なパターナリズムよりも怖いのは、パターナリズムが歪んでしまうことです。
パターナリズムとは、
「専門家が素人の利益を考慮して、素人が何をするべきかを決めてあげること」 でしたが、
この 「素人の利益を考慮して」、すなわち 「相手のためを思って」 という大前提の部分が、
たんなる建前に堕してしまって、
実は相手のためではなく、自分の利益のためにその選択肢を押しつけているにすぎない、
というようなことが生じてしまう危険性がありうるのです。
例えば、親が子どものためを思って子どもの進路を決めてあげると言いながら、
実は自分のエゴを満たすために (自分の見栄、自分が叶えられなかった夢の転嫁など)
それを押しつけていたにすぎないということがありえます。
医者が患者の治療方針を決める際に、
実は自分の利益 (より高い診療報酬を得るため、新しい治療方法の実験のため) を
優先させていたということもありえます。
これらは歪んだパターナリズムであるといえるでしょう。
教育の場合には、例えば、
校則によって児童・生徒の生活・行動を律する際に、
それが児童・生徒のためではなく、
教員側の管理の手間を省くために事細かにいろいろ決めてしまうということがありえます。
また、進路指導の際に、これも生徒にとって何が一番いいかという観点ではなく、
学校側の都合で (進学率や就職率を上げるため、合格実績を上げるためなど)
受験先を決定してしまうなどということもあるでしょう。
これらはパターナリズムの名を借りた管理・支配であり、
生徒を利用しているにすぎませんので、
教育のあるべき姿からの逸脱であるといえるでしょう。
難しいのは、過剰の場合と同様、この歪んだパターナリズムも、
本来の相手のためを思うパターナリズムがしだいに歪んでいってしまって、
いつの間にか相手のためではなく自分のための決定になってしまっていたというように、
どこで変質してしまったのかがわかりにくいという点です。
本人が実は相手のための決定ではないということに気づいている場合というのは、
事柄としては悪質ですが、対処は簡単です (欺瞞を正せばいい)。
しかし、あくまでも相手のためだと信じ込んでいる場合というのは、
まずその自己欺瞞に気づき、それを正さなければならないわけですから、
これはそうとう難しい仕事になります。
とりあえずはパターナリズムが歪んでしまうこともありうるというこのメカニズムを、
教師はあらかじめ知っておく必要があるでしょう。
そして、教育的指導をするにあたって、
自分のパターナリズムが過剰になったり歪んだりしてしまっていないか、
常に反省してみるしかないのではないでしょうか。
私も教員志望の学生に対しては、
中学校社会科なんかやめて小学校を受けろとか、
福島県なんかあきらめて関東圏を受けろとか指導しているわけですが、
はたしてそれは本当に当該学生のためなのか、それとも、
福島大学人間発達文化学類の教員採用率を上げるためにそう言ってるだけではないのか、
胸に手を当ててよーく考えてみることにしたいと思います。
(まあ大学生にもなると私の指導なんかに耳を貸さずに、
自分の自由意志でどこを受けるか決めちゃいますので、
自由を抑圧してるとか利用してるだけじゃないかなんていう心配は不要みたいですが…)