おはようございます^^
寒い寒いと思っていましたら日曜に 二十四節季のひとつ大寒を迎えたようです^^大寒とは 字のとおり 寒さの頂点に達した記しですが、
この時期は年末に向かって近所の商店街の恒例の大売り出しがありました…これって実は形骸化していまして昔の賑わいなど全くありません。まぁ
昔の賑わい自体を知っている世代が年々減っていますから、シャッターが下りた商店街にチラホラ出している 唐揚げやたこ焼き
ポテト、揚げパンなどの屋台型のお店に子供たちが群がっているのが 若い人の集客が未来の商店街の隆盛につながる…という
お説を眉唾気味に聞いている商店主さんにお菓子で子供を呼べば何とかなるっていう思案でエビで鯛を釣るのって 現実的に
屋台の売り上げさえ大したことないし 処置なし…と客さんを呼ぶことはあきらめていらっしゃるんじゃないですか。
まぁそれはそれとして、私は数年前にこの歳末大売り出しのチラシを懐かしさでほほ~と手に取ってみたことがありました。商店街なんて長いこと行ったことないし
買い物は同じ場所にあるスーパーかもうちょっと離れた大型のスーパーが普通ですよね。…これって夕陽丘称賛派でもない
私に限らずほとんどの人は、スーパー派じゃぁないでしょうか。 昔(おっ 出ました^^)私が年少のころでしたが近所に
個人の食料品店がありました。この当時は個人のお店が当たり前で、その集合が商店街でしたが、私ら農村部に
住んでいますと その商店街ですらなかなか行けなくて、母なんか農作業を終えてその足で行ける近所の食料品店を有難がっていました。
当時は商店街まではちょっと距離があるので自転車でなくては行けないし近所の商店みたいに気安く野良着では行けなかったのが商店街でした。
私の暮らしていた集落はおよそ百数十軒くらいの集合体で、隣の集落とは数百メートルの距離で当然とはゆえまわりは田んぼ…う~ん 広~い田んぼの所々に集落かな^^
駅前の商店街へは数キロ…大阪だとか京都やその周辺の(街)に住んでいた人からすると想像ができないでしょうが、この田舎のS県ではこのような風景は当たり前
でした。当時の買い物の選択肢は 普段は近所の商店、月に数回はちょっと距離のある駅前の商店街、年末は汽車に乗って大きな街の商店街や地方の百貨店^^
これが昭和の40年代までの農村の生活でした。私が小学校の時は、母親は農繁期は田んぼに行って働いていました。ですから普段の食事はこの農繁期でしたら
白菜や寒蘭(今のキャベツ)大根、カブ、田いも(里芋)薩摩芋なんかを煮た いわゆる煮物で おでん といえばそうかも知れませんが、肉系は入っていません^^
じゃ 野菜はわかるけど他は?ハイ、今なら卵やスジ、巾着、コンニャク・・などでしょうが、当時は農繁期は祖母が食卓の担当をしていたらしくて、毎回竹輪(ちくわ)
が入っていて、 またこれか…と口をとんがらせていると、これは 良いダシが出るからなぁ と祖母ももう開き直っていましたね(笑)
というのが祖母は昔の女性ですから、自転車に乗れなかったのです。これは貴重な昭和の風俗として記憶に留めておくべきで、自転車が一般社会
…農村部も含んで に普及したのが昭和十年代から戦後のようでした。ですから明治の生まれの祖母は自転車に縁のない時代だったようで自転車みたいな勘で乗るものは
年少の頃に習わなかったら無理でしょう…つまり祖母の周りに高級ではあるけども実用的な自転車が現れた時にはもうエエ歳でとても身につかなかったのではないでしょうか。
これは私の想像ですが、確かにスマホ なんかもうちょっと遅く出てきたら使えなかったんではないかと思います。
・・話を戻します^^そんな背景がありましたので祖母は駅前の商店街まで買い出しに行けなくて
歩いて行ける近所の商店で買い物を済ませていたのです。当時は高価な冷蔵庫なんか農村部のちいさな商店にあるはずもなく、日持ちのする
ものといえば、魚の干物や昆布、蒲鉾や竹輪、油揚げみたいな加工品が精々だったのでしょうか。祖母もかわいい孫の不平もわかっていたので
何か変わったものがないかなぁ~と探していたのでしょうが、流通が稚劣な時代では竹輪の代わりになるのもが無かったのも仕方が無かったかも知れません。
また 思い出しましたけどこのような粗末ながらでも 加工した食料品が手短に手に入るようになった時は物珍しがって村中の人が買いに来たと
聞きました。時代としては昭和の30年代だったようですが、当時の農村部はほとんどが自給自足の生活を過ごしていました。肝心の現金の収入はコメの獲れた
11月に農協からの入金があったくらいで、出稼ぎというのもありましたが、戦前や昭和40年までは出向いて稼ぐ いわゆる季節工の仕事はそうはなかったようで
農閑期は縄縫いや農機具の修繕や土木作業の応援でわずかな現金を稼いでいたようです。稼ぐといえば ちょっと想像がつかないのですが、私の実家は
農家ですが、副業が豆腐屋でした^^と言いましてもそれは昭和の始めに廃業したらしくて 昔の家の 水屋(川の水を引き入れて遊水地みたいなもの)が残っていました。
当時は近くに湧水がありましたから川の水もきれいで私の子供の頃でも食用に鯉を飼っていましたし、近所にホントの手作りの豆腐を買いに行っていました。この豆腐屋があったから
うちが廃業になったかはわかりませんが^^それぞれの家が 鎌や鍬を売ったり、肥料を扱ったり鍛冶屋をしたり居酒屋や料理屋、米麦を挽いたり酒屋、饅頭屋
左官屋、畳屋、桶屋、床屋、呉服屋、草鞋屋と米屋を除いて(当たり前ですが…)様々な生活用品を扱っていてこの百数十軒が ひとつの生活圏だったようで 婚姻もこの生活圏のなかで
盛んに行われていてこの集落内で親戚の付き合いをしているのがその時の名残としてあります。こうしてみますと昔ってごく狭い世界の中で暮らしていたようですね。
途中話しました祖母の年代以前には徒歩しか移動の手段はありませんでした。江戸時代の記録に江戸の日本橋から京の三条大橋(東海道の終点450キロ)までを二週間で歩くのが大体の
目安のようで途中の川止め(大きな河川には橋が架かってなくて大雨だと川を渡れなかった)などを考慮して一日の歩行距離は30キロ~40キロでした。
これが徒歩の平均だとして、自転車ですと もっと距離が延びるのは間違いありませんし、この450キロをクルマで高速道路を使えば半日でしょう^^
このようにたった百年で暮らしは物凄く変わりましたし、生活も大きく変貌を遂げました。
百年前に戻れば、冬のこの時期ですと、小屋で縄を結うか、畑で大根や法蓮草の世話をするか、近所の人と集落内の噂話に花を咲かすかなどで過ごしていたようで…
コメの入金はありましたが、そう潤沢に持っているはずもなく仲間内で集落内の居酒屋で痴話話で盛り上がるのが楽しみでした。まぁ跳ねっ返えりはどの世界にもいまして、
夕方から数人で街に遊びに行く甲斐性持ちも当然いたようでした。
こんな生活を今の人がしたら もう数日で飽きがきてしまうでしょう…しかし物は考えようで毎日が単調でも質素であって粗末なものを食べていても
人の笑顔は絶えなかったんじゃぁないでしょうか、心の豊かさ・・みたいなものが便利で何でもある生活よりずっと豊潤な生き方じゃぁなかったかな^^
と思うことがあります。これって歳をとって帰趨本能みたいなものが出てきたからでしょうか・・
休み明けなのでちょっと余話として