ブログ「福田::漂泊言論」さんからトラックバックをいただいた。ポイントは集合知の定義や解釈に対する疑問だ。論点が微妙に実名制度から逸れてるんだけど、まあこれはこれでおもしろいからいいや。
さてブログ「福田::漂泊言論」の筆者の福田さんは、私がエントリ『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』で書いたのとは逆に、「多様性がなければないほど『集合知』の価値が上昇すると言えると思います」と言う。
じゃあまず、私が書いた集合知のくだりを引用しよう。
福田さんはこの論述に対し、次のように疑問を投げかけている。
まず「『集積された意見が多様であればあるほど意義深い』というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか」についての答えから行こう。
前にも書いたが、小倉さんにしろ福田さんにしろ実名制を唱える方は、1+1が必ず2になる数学的な問題だけが議論のテーマだとイメージされてるフシがある。
だけどたとえば「人間はなぜ生まれてくるのか?」をテーマに、さまざまな人が自分の意見をブログで公開したとしよう。すると「種の保存のためだ」って見方をする人もいるだろう。かと思えば、こう考える人たちもいる。
「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、生まれてくる人間が多ければ多いほど、社会に多様性が生まれる。それはいいことだ」
「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、その社会は必然的に多機能化する。そのことによって、他人は他人がもたらす多種多様で専門的な機能の恩恵を蒙り、より多くの便益が得られるようになる」
「人間はなぜ生まれてくるのか?」てなテーマに対する答えは、ひとつじゃない。かつ、正解がなかったりする。つまり1+1が2にならないのだ。このテのお題はほかにいくらでも考えられる。
こんなテーマのときには当然、たくさんの参考意見を聞けたほうがいい。かつ、それぞれの意見が異なって(多様化して)いたほうが有益だ。なぜならその中から自分の価値観にフィットする考えを選び、自分の人生に取り入れて生きて行けるからだ。
多様性とはすなわち選択肢の豊富さであり、その中からより自分に近いものを選べる柔軟性でもある。これが回答のひとつめだ。
続いてふたつめに行こう。福田さんは多様性がない方がいい場合の例として「営業社員による売り上げ予測」をあげ、「予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる」とする。
つまり売り上げ額という正解はひとつなんだから、それ以外の誤答は必要ないじゃないか、って話だ。なるほどこっちは、1+1が2になるお題である。
でもちょっと考えてみよう。カンタンな話だ。
仮に売り上げ額の正解が2000万円だとする。で、売り上げを予測する営業社員は20人いると仮定しよう。このときたとえば20人全員が、「売り上げ額の予測は1000万円です」と分析したらどうなのか? 答えに多様性はなく単一だが、その単一な答えがまちがっていては絶対に正解へたどり着けない。
一方、「2000万円だ」って人もいれば「700万円だ」と言うやつもおり、「1500万円です」と主張する人間もいる多様な状態ならどうか?
それぞれが数字を出している以上は、各人がもとになる根拠や分析を行っているはずだ。なら、全員の分析を聞いてそれらを精査し、正解がどれなのかを突き止めればいいのである。
多様であることはすなわち、保険が用意されているってことだ。多様性には人間が誤りを選択してしまうリスクを減らす効果が備わっているのである。
もうひとつわかりやすい例をあげよう。選挙が終わったばかりだから、民主主義の話にするかな。
民主主義っていうと多数決の原理ばかりがクローズアップされるが、決を採る過程では多様な意見をすり合わせて議論する。その上で採決を行う。おわかりだろうか? 前述した通り、たくさんの答えの中から売上高2000万円という正解を導き出す行程と同じなのだ。
じゃあ、逆にナショナリズムがガーッと盛り上がった場合はどうだろう? 国民世論が一致して、仮にこう考えたとする。
年金は破綻するし、ワーキングプアとか格差とか日本は難問山積だ。それというのも日本は資源がない国だからである。そうだアメリカと戦争して領土を広げよう。このさいだ、やっちまえ
歴史を振り返れば、戦争に突入するときというのは、往々にしてこんなふうに世論が単一化したときだ。「いや待て。勝ち目がないぞ」とか、「アレクサンダー大王の時代じゃないんだから、戦争で領土を広げるなんてナンセンスだ」とか、多様な意見があるからこそ正解を導き出せるのである。
余談だが、福田さんの発想を見ておもしろいなと思ったのは、他人に答えを出してもらおうと考えているところだ。主体的じゃないのである。
「意見が多様であればあるほど、その解に近づきにくくなる」っていう福田さんの論法は、他人が解を考える場合の話だ。一方、私なら、それらの多様な意見を自分の頭の中に取り入れ、自分の頭で分析すればいいじゃないかと考える。
他人がポンと答えを出してくれるから、そこにあるのは単一の正解だけでいい。合理的だが、いかにも70~80年代以降のマニュアル文化の洗礼を受けた発想である。
いや私は福田さんがどんな世代なのかも知らないし、別に福田さんを批判してるわけじゃない。あくまで一般論だ。で、おそらく他力本願なこのテの発想は、特に若い人に多いんだろうと思う。
たとえば「朝まで生テレビ」を見て、「あの番組は結論が出ないから意味ないじゃん」てなことを言う人は多い。いや結論は自分で出すんだよ。人が考えてくれるんじゃない。番組の中であれだけ多様な考えが提示されてるんだから、それらをもとに自分の頭で考えればいいじゃないか。
てなわけで話がいい感じにあさっての方向へ飛んだところで、今回はおしまい。福田さんが出したほかの論点については、もし気が向いたら次回以降に書く。しかしホントは実名・匿名問題って、私の中ではとっくに結論が出てるんだけどなあ。
【関連エントリ】
『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』
『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』
『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』
『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』
『小倉さん、印象操作はほどほどに』
『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』
さてブログ「福田::漂泊言論」の筆者の福田さんは、私がエントリ『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』で書いたのとは逆に、「多様性がなければないほど『集合知』の価値が上昇すると言えると思います」と言う。
じゃあまず、私が書いた集合知のくだりを引用しよう。
インターネット上に存在するデータ(文章その他)は、集合知である。集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す。また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。それが実名でなされたものか? それとも匿名か?なんて関係ない。
■『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』
福田さんはこの論述に対し、次のように疑問を投げかけている。
「また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。」というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか。集合知は「意見が多様であればあるほど」その「解」に近づきにくくなるわけですから、意義深くはならない筈です。例えば営業社員の売り上げ予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる筈です。
■『2007年08月01日 現状維持派の方々への返答 その4(および「集合知/多様性」について)』
まず「『集積された意見が多様であればあるほど意義深い』というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか」についての答えから行こう。
前にも書いたが、小倉さんにしろ福田さんにしろ実名制を唱える方は、1+1が必ず2になる数学的な問題だけが議論のテーマだとイメージされてるフシがある。
だけどたとえば「人間はなぜ生まれてくるのか?」をテーマに、さまざまな人が自分の意見をブログで公開したとしよう。すると「種の保存のためだ」って見方をする人もいるだろう。かと思えば、こう考える人たちもいる。
「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、生まれてくる人間が多ければ多いほど、社会に多様性が生まれる。それはいいことだ」
「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、その社会は必然的に多機能化する。そのことによって、他人は他人がもたらす多種多様で専門的な機能の恩恵を蒙り、より多くの便益が得られるようになる」
「人間はなぜ生まれてくるのか?」てなテーマに対する答えは、ひとつじゃない。かつ、正解がなかったりする。つまり1+1が2にならないのだ。このテのお題はほかにいくらでも考えられる。
こんなテーマのときには当然、たくさんの参考意見を聞けたほうがいい。かつ、それぞれの意見が異なって(多様化して)いたほうが有益だ。なぜならその中から自分の価値観にフィットする考えを選び、自分の人生に取り入れて生きて行けるからだ。
多様性とはすなわち選択肢の豊富さであり、その中からより自分に近いものを選べる柔軟性でもある。これが回答のひとつめだ。
続いてふたつめに行こう。福田さんは多様性がない方がいい場合の例として「営業社員による売り上げ予測」をあげ、「予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる」とする。
つまり売り上げ額という正解はひとつなんだから、それ以外の誤答は必要ないじゃないか、って話だ。なるほどこっちは、1+1が2になるお題である。
でもちょっと考えてみよう。カンタンな話だ。
仮に売り上げ額の正解が2000万円だとする。で、売り上げを予測する営業社員は20人いると仮定しよう。このときたとえば20人全員が、「売り上げ額の予測は1000万円です」と分析したらどうなのか? 答えに多様性はなく単一だが、その単一な答えがまちがっていては絶対に正解へたどり着けない。
一方、「2000万円だ」って人もいれば「700万円だ」と言うやつもおり、「1500万円です」と主張する人間もいる多様な状態ならどうか?
それぞれが数字を出している以上は、各人がもとになる根拠や分析を行っているはずだ。なら、全員の分析を聞いてそれらを精査し、正解がどれなのかを突き止めればいいのである。
多様であることはすなわち、保険が用意されているってことだ。多様性には人間が誤りを選択してしまうリスクを減らす効果が備わっているのである。
もうひとつわかりやすい例をあげよう。選挙が終わったばかりだから、民主主義の話にするかな。
民主主義っていうと多数決の原理ばかりがクローズアップされるが、決を採る過程では多様な意見をすり合わせて議論する。その上で採決を行う。おわかりだろうか? 前述した通り、たくさんの答えの中から売上高2000万円という正解を導き出す行程と同じなのだ。
じゃあ、逆にナショナリズムがガーッと盛り上がった場合はどうだろう? 国民世論が一致して、仮にこう考えたとする。
年金は破綻するし、ワーキングプアとか格差とか日本は難問山積だ。それというのも日本は資源がない国だからである。そうだアメリカと戦争して領土を広げよう。このさいだ、やっちまえ
歴史を振り返れば、戦争に突入するときというのは、往々にしてこんなふうに世論が単一化したときだ。「いや待て。勝ち目がないぞ」とか、「アレクサンダー大王の時代じゃないんだから、戦争で領土を広げるなんてナンセンスだ」とか、多様な意見があるからこそ正解を導き出せるのである。
余談だが、福田さんの発想を見ておもしろいなと思ったのは、他人に答えを出してもらおうと考えているところだ。主体的じゃないのである。
「意見が多様であればあるほど、その解に近づきにくくなる」っていう福田さんの論法は、他人が解を考える場合の話だ。一方、私なら、それらの多様な意見を自分の頭の中に取り入れ、自分の頭で分析すればいいじゃないかと考える。
他人がポンと答えを出してくれるから、そこにあるのは単一の正解だけでいい。合理的だが、いかにも70~80年代以降のマニュアル文化の洗礼を受けた発想である。
いや私は福田さんがどんな世代なのかも知らないし、別に福田さんを批判してるわけじゃない。あくまで一般論だ。で、おそらく他力本願なこのテの発想は、特に若い人に多いんだろうと思う。
たとえば「朝まで生テレビ」を見て、「あの番組は結論が出ないから意味ないじゃん」てなことを言う人は多い。いや結論は自分で出すんだよ。人が考えてくれるんじゃない。番組の中であれだけ多様な考えが提示されてるんだから、それらをもとに自分の頭で考えればいいじゃないか。
てなわけで話がいい感じにあさっての方向へ飛んだところで、今回はおしまい。福田さんが出したほかの論点については、もし気が向いたら次回以降に書く。しかしホントは実名・匿名問題って、私の中ではとっくに結論が出てるんだけどなあ。
【関連エントリ】
『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』
『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』
『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』
『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』
『小倉さん、印象操作はほどほどに』
『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』