すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【サッカー戦術論】認知のスピードはフィジカルを超えるか?

2019-07-09 08:18:59 | サッカー戦術論
両者は相互補完の関係にある

 サッカーには、ひたすらスピードを競う陸上競技的な側面がひとつある。すると速さのあまり、敵味方の選手のカラダが接触しないケースも出てくる。

 例えば日本人のアジリティを生かした機敏なサッカーをすべきだと書いたこの記事のように、ファーストタッチの技術を極限まで高めたせいで、あまりにパスワークが速いため敵との接触プレイすら起こらない、というようなケースである。

 またスピードという意味でこれと似た方向だが、いまサッカーの最前線では「認知のスピードを上げよう」という取り組みもある。例えば敵はいまどの方向から迫っており、自分が使えるスペースはどこにあるか? そんな自分が置かれた局面を瞬時に脳で情報処理し、それを素早く認知して状況に応じた的確で速い判断をしよう、という考えだ。

 このとき瞬間的な認知をもとに、局面を戦術的に先読みして素早く次のプレイが行われる。この認知概念に沿えば、当然サッカーのプレイスピードはどんどん速くなって行く。

「対人プレイで時間を作る」という考えもある

 だが同時に一方で、サッカーにはこれらと一見矛盾する格闘技的な要素も強い。

 例えば敵をカラダで激しくブロックすることにより「時間を作って」プレイする。あるいは競り合いで1枚はがすことで時間的余裕を生み出し、次のプレイを行う、というようなケースである。

 この場合、当然カラダの接触は大々的に起こるし、むしろそのことによって「もともとなかったはずの時間を作る」。ゆえに、そのときスピードという要素は必ずしも第一選択にはならない。サッカーでは、こうした強靭なフィジカルによる対人プレイは非常に重要だ。

 つまり冒頭で書いた陸上競技的な概念と、この格闘技的な概念は矛盾している。

 すると、たちまちサッカー界では「どちらの方向へ行くのが正しいのか?」という単純な二元論が巻き起こる。いわく、スピードと認知を極限まで高めれば、接触プレイは消えて行くのではないか? いやいや対人プレイこそがサッカーの根幹であり、いくらスピードや認知を鍛えても接触プレイは絶対になくならないーーというふうに。

 つまり昔さんざん議論された「個か? 組織か?」論議とか、「アクションサッカーか? リアクションサッカーか?」みたいな不毛な二元論がくり返される。

 だがそもそもサッカーは「接触プレイか? 非接触か?」などという単純な二元論では語れない。上で挙げた陸上競技的な要素と格闘技的な要素はサッカーにおいては「車の両輪」であり、どちらが欠けても成立しない。両者は対立概念ではなく、むしろ相互補完の関係にある。

 とすれば正しくは、サッカーにおいて「ある局面」ではカラダの接触すら起こらないスピードの勝負が行われている。だが他方、「ある局面」では、敵をカラダでねじ伏せて時間を作る格闘技的なプレイが行われる、ということだ。サッカーはどちらが欠けても成り立たないし、どちらが欠けてもレベルアップしない。

 大切なことは、くれぐれも不毛な二元論に陥らないことである。

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