供養を受けられるということは、
お食事をいただけるということでもあります。
読経も食事のひとつ、心が満たされます。
当山では、山主が霊視できる範囲が20代前ぐらいだそうです。
令和の時代になっても、
首を切られた武士が切り落とされた首を手に持った姿で出てこられると申されます。
なぜ?未だにそのような姿なのでしょうか。
答えは、簡単です。
成仏できていないのです。
成仏するためには、
故人の生前の業の深さに応じた供養の回数、
どれだけお経をいただけたか。
また、
故人が供養に満足できたかなど色んな要素が必要なのです。
成仏とは簡単なものではないのですよ。
「死んで年数がたてば、成仏できる 」は、 有り得ない話です。
合掌