命光不動尊のブログ

貴方の知らない神道や仏教の教えが命光不動尊にはあります。

お数珠に付いて一言

2015年08月31日 17時57分38秒 | ひと口法話

数珠は念珠とも申します。数の種類も、千八十珠、百八珠、五十四珠等が有ります。

真言宗では百八珠が基本の数でございます。数珠の起源に付いては色々な説がございますが。

古い経典に、お釈迦様が煩悩を断ち切り、功徳を得るために、お作りになられたとあります。

從つて、その起源は古く、二世紀頃には仏教徒の僧侶の間で用いられるように成ったのでは、

ないかと言われています。初期には修行の折に仏様を念じ数を記録する為の法具だった様です。

念珠の珠には、水晶、真珠、金、銀、珊瑚、香木、等が用いられますが、特にお釈迦様が、

悟りをひらかれた菩提樹の種子と水晶が特に功徳の高いものとされて居ります。

数珠は左手の親指を除いた四本の指を揃え、そこに掛けます。

左手に掛けるのは、古くは世界的に左の方が右より上位とする風潮が有り、

日本でも左大臣が、右大臣より上位でしたし、神社での参拝には、先ず、手を洗うのも左手が先です。

インドでは左手を不浄としていますが、数珠に付いては、この左を上位とする世界的風潮から、

左手に掛ける物とされたのではないかと存じます。

お数珠の中で一番大きい珠を「だるま」と申しまして、ご本尊様をあらわしております。

持つことにより功徳を授かると言われて居ります。

本職の方でも首に念珠を掛けて居られる方もありますが、あまり感心した事ではないので、

真似をされない様にお願いします。お数珠はあくまで手にもつことです。

この事案に付いては高野山で四十年程前に私自身が首に念珠を掛けていたのを

お参りに行ったお寺の住職様からお咎めの言葉を頂きました。

その理由は、次にいたします

                      合掌

 

 


布施

2015年08月31日 06時03分49秒 | ひと口法話

お布施というのは、施しをすることですが、それはお金や品物をさしあげるだけではありません。

他人のために何か良いことをするのも、りっぱなお布施です。

よい行いをした報いを功徳といいますが、しかしそれによって何かを期待するような行いには

功徳はありません。見返りを求めて行う行為ではなく、無心で行うことが肝心なのです。

子供を育てるときにこういう育て方をすればあとで返してくれるだろうなどと計算して子育てをしないように

見ず知らずの人にもこのような愛情のこもった気持ちで行うこと、これが布施であります。

「自利」とは自分のために修行すること、「利他」とはその修行で悟ったものを他に及ぼし救済することを

意味します。仏教の修行は自分の為だけの修行ととらえられがちです。しかし、大乗仏教は自らの救済と他人を

救済するということを目的としています。

この布施の心を対人関係で考えてみましょう。例えば、恋愛や夫婦関係がうまくいかなかったとき、

「私は精一杯尽くしたのに、相手がそれに応えてくれなかった。私に落ち度は無い、悪いのは相手だ」

という人がいます。しかし、「精一杯尽くした」というのは愛情を繋ぎ止めるためだったり、

自分を良く見せようとするためのものだったりします。ところが、本人はそのことを忘れ、

「あの時は心から尽くしたのに」と思い込んでしまうのです。そして結局は「なぜ私の気持ちを判ってくれないのか」

と相手を責めることになってしまいます。

人と人との関係で上手くいかなかった場合、「私はあの人に、これだけのことをしてあげたのに」としばしば

考えます。人は自分がしてあげたことは、細かいことまで良く覚えていますが、それに対して、してもらったことは

簡単に忘れてしまいます。たとえば、人にプレゼントしたり、おごったことは金額のことまで良く覚えています。

ところが逆の場合は、そのこと自体を忘れてしまうものです。

この言わば、虫の良さがいさかいの原因となることが多いのです。

人といさかいになったとき、まず、「してあげたこと」はすべて忘れましょう。そして、「してもらったこと」をよく

思い出しましょう。そうすると冷静になり感謝の念が湧いてきて、仲直りをしようという気になります。

人に何かしてあげるとき、「してあげた」という気持ちを持たないことや見返りを求めないのが布施であり

喜んで捨てるという意味から「喜捨」ともいいます。

「してあげた」という気持ちを捨てると心が豊かになり、仏に近づいていくことになります。

必要以上のものを望んだり、手に入れることを貪りと言いますが、仏教ではこれを戒めております。

布施は貪る心を打ち消すことになり大事なものです。

合掌

 

命光不動尊  http://www.meikoufudouson.jp/


ともしび

2015年08月30日 14時38分46秒 | ひと口法話

仏像の多くは背中に光の放射を表す光背がついています。

お釈迦さまの像も観音さまの像も大日如来の像も、みなそうです。ただ、不動明王の場合は

煩悩を焼き尽くすという意味で燃えさかる炎になっています。

ところで、なぜ仏像の背中にこのような光を表す輪がついているかご存知ですか。

それは、もちろん仏さまが光り輝く存在であり、また、暗闇と成って居る人の心を照らして

明るくさせる為です。本来は仏さまの前方に光が輝いております。しかし、まぶしすぎて仏さまの

お姿を拝見する事ができないため、仏像などは後ろ側に光背を表現しております。

弘法大師は、人の心の中にはみんな仏さまの種があり、それを育てようとおっしゃいました。

仏さまはみんな光の輪を持つ明るい存在ですから、それを育てるとみんな明るく成ります。

みんながともしびになるのです。

では、そのともしびは、どうすればより明るく輝くのでしょうか。それは。今ある状態を幸せと

感じることです。

私達は治安が良く、食糧が一杯ある国に生まれています。しかも日本は世界一の長寿国です。

そのことにまず感謝しなければなりません。どうのこうの言っても毎日ごはんが食べられます。

家族や仲間もいます。病気に成ると病院があり薬があります。そう考えると、日本人ってしあわせだなと

感じます。それを普段から思って居ると、感謝の心が湧いてくるのです。

幸せを感じ、感謝の心を持って、目標に向かって精進したいものです。

心が明るいと世の中うまくいくものです。

「来る人も また来る人も 福の神」

そう思って暮らしましょうや。

合掌

 

命光不動尊  http://www.meikoufudouson.jp/


大日如来

2015年08月30日 05時39分18秒 | ひと口法話

仏さまの中にはランクづけがあります。極々、簡単に申し上げますと、まず悟りの境地に至って真の仏となられた如来と

呼ばれている仏さまがおられます。大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来。。。などがその如来様です。

次に如来の前の段階で、いずれ如来になるだろうとされるのが菩薩と呼ばれる仏さまです。

観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩。。。などの菩薩様がおられます。

このほかに仏教の守護的な役割、教えを聞かないものたちを救済し仏教に向わせる役割の

仏さまがおられます。不動明王や帝釈天、弁財天などの明王、天と呼ばれる仏さまです。

もっとも、菩薩や明王などは本当は悟りを得ているのだけれども、、あえて如来にならず

人々の中に入って救済が出来るようにその位に留まっておられるのです。

 

そのような仏さまの中で大日如来は密教の中心をなす仏さまで宇宙の根源とされている仏さまです。多くの仏さまを精密に描いた

曼荼羅では中心にどっしりと座っていらっしゃいます。大日如来は梵語でマハーヴァイロチャーナ。「偉大なる遍く光り輝くもの」という意味の

仏さまです。そこから太陽が闇をくまなく照らし、その光は永遠不滅であり、しかも影をつくらないことから、大日如来と

訳されました。太陽と大日如来を比較すると非常によく似ておるのですが、大日の慈光は太陽より以上の功徳がありますので

特に日の上に大の字を加えて大日如来となります。摩訶毘盧遮那、大毘盧遮那とも表記されます。

われわれ、真言宗は大日如来を教主、すなわち信仰の主体とし、根本のご本尊様として尊信するのであります。

広く言うなれば一切の仏教、それ以外の宗教も皆、大日如来化導の現われでないものはひとつとして存在しません。

さらに言うなれば、いわゆる峰の松風も、谷川のせせらぎも、ほろほろとなく山鳥の声も、みな大日如来が私たちを安楽の世界に

導かんがための手立てとして現し給うた説法の声であります。すなわちすべての根源が大日如来である。

いま、あなたの回りにあるすべてが大日如来なのであります。

合掌

 

命光不動尊  http://www.meikoufudouson.jp/

 

 


祈りの滝~山行に

2015年08月29日 18時40分16秒 | 修行(滝行、写経、巡拝、法螺貝・・・)

本日は葛城山 祈りの滝を管理されている森林組合の方が以前から他にもいい滝が有りますよといわれて居ましたので

連絡を取り、金剛山の林道脇にあるその滝を見に行って来ました。

その滝の上方には祈りの滝のお不動さまと瓜二つの不動尊がお祀りされておりました。その昔、祈りの滝で行をされた方

がこちらでも行をされていたのかもしれませんね。

で、その滝ですが高さはありませんが水量はたっぷりあり、大迫力でした。行をするなら非常にいい行ができるだろうし

体験で行に参加される方もこの滝なら滝行の厳しさも実感できるのではと感じました。

しかし、滝にたどり着くまでの道のりが非常に厳しく、たどりつくまでがやっと。普段の行には不向きな滝でした。

写真を撮りたかったのですが、道が険しくカメラを落とすかもしれないので撮る事はできませんでした。

それくらい、厳しい道でした。いい山行には成りましたが。

組合の方に紹介していただいたのも何かのご縁ですが、今回のこの滝での行は諦めることになりそうです。

祈りの滝で行に専念せよ、ということだと思います。

祈りの滝も長い事通っておりますが、管理されている組合の方とようやくご縁も頂けましたので、ますます

良い行場になるよう精進して毎日の修行に邁進しようと新たな気持ちが沸々と湧いてきました。

ここ最近、滝行体験希望者が非常に多いです。滝行に興味が有る方が世の中にたくさんおられるのは

とても喜ばしいことですね。来月、2日、5日と滝行予定です。2日は定員いっぱいですが、5日の滝行は

希望者おられましたら受け付けておりますので、お気軽にお問い合わせください。

また、他の日でも滝行体験は随時受け付けておりますので、みなさんも滝の醍醐味を味わってみませんか?