命光不動尊のブログ

貴方の知らない神道や仏教の教えが命光不動尊にはあります。

続けて行くことは大変な事でんな。

2016年10月31日 18時59分11秒 | ひと口法話

続けてはいかんことを、守るのも大変な事でんな。

私事なんですが、堺市からこの橋本市に道場を移して間もなく、

高野山で昵懇にして頂いている方のお店で会った尼さんでしたが。

しばらくして、当山に出入りする様に成りました。

この尼さんから、突然、借金の申し入れがあり事情を聞けば、

「どうしても、助けてあげなければいけない人が有り

私の方も今、手許不如意で助ける事が出来ないので

無理を聞いて貰えると有難いということで」、

大きな金額でなかったので、お貸しした。

それから、毎月のように、借りに来るようになった。

約三年間こんな関係が続いていたが。

いつも、買い物に行く店の店主の雰囲気がおかしいので、

わたしに、何か気に要らない事あるのか、と聞けば

ビックリ仰天するような、言葉が返ってきた。

店主曰く、あんた、あまさんの〇〇さんに借金をさしに、廻らしてんやてな。

「堺から橋本に来てお金に困ってるから助けてあげなあかんのや」て

恩を仇で返す、わたしは空いた口が塞がらない思いでした。

情けは人の為ならず。と言いますが、何事もほどほどに。

弘法大師の座右の銘

施しを受けては慎んで忘るる勿れ。

「恩を忘れるな」施しは物も心も同じです。

合掌


信じて行けば、必ず導かれる。

2016年10月30日 17時26分05秒 | ひと口法話

一番に大事なのは自分を信じる事から始まります。

人を信じる事も自分に覚悟が無ければいけません。

特に神仏の世界では絶対に許される事は有りません。

よく信者様から聞かれる言葉ですが、

「ご祈祷して頂いている御祈願の件、大丈夫でしょうか」

この問いで神仏の信頼を一挙に失う事に成ります。

「我を信ぜずば、また我も信ぜじず」法則がはたらくのです。

從つて、願いは全然叶いません。

神仏と人との信頼関係、人と人との信頼関係。

ちなみに、「信」の意味とは、正直と誠とあります。

「頼」とは、自分を相手にゆだねて願うとあります。

心の迷いから全ての信頼関係が崩れるのです。

「金言」信ずる者は救われる。

合掌

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


全ての苦しみは

2016年10月29日 18時14分18秒 | ひと口法話

(お釈迦さまのお言葉)

「全ての苦しみは、執着心から生まれる」との教えです。

例えば「財産や、お金、名誉、地位、権力」への執着心

自分から去って行った人への執着心

「自分を裏切った人への恨みを晴らしたい」、という執着心。

「若さや美貌を失いたくない」という執着心。

次から次えへと執着心にはきりがありませね。

どんな強い意志や熱い思いを持ってしても

この世では「出来る事と、出来ない事」があります。

たとえば「いつまでも若々しく、美しくありたい」と願っても、

年齢を重ねるとともに身体が衰えていくのは、致し方の無い事です。

全ての人が避けて通る事の出来ない道です。

「どうあがいても、かなわないことに執着する限り苦しみは続く。

貴重な人生の時間を、無駄に費やす事をすなる。

どうにもならぬことは、素直に諦めよ。

執着心を捨て、前向きに生きよ」 釈尊

人間、あるがままに生きれば楽です。

合掌

 

 


四国遍路と極楽行きの手形

2016年10月27日 15時37分16秒 | ひと口法話

 寺には、お大師様が木の股に鎮座されています。

此の木は病気に霊験あらたかとされる、

アララギの大木です。アララギはまたの名を櫟(いちい)と言い、

神の宿る木と言われています。

( 四国 14番 常楽寺  樹上のお大師様)

常楽寺には、お大師様がアララギの霊木を削って、

病人を治したと言う、言い伝えが残っているそうです。

わたくしも、後3回で四国遍路25周を成満できるのですが。

お受けが無いのか遍路に行く事ができません。

昔から四国遍路は先ず、お受け、健康、お金、この三つがそろわないと、

お参り出来ないと言われています。

お受けという事は神仏からの、お招きを受けることを言います。

来年はぜひ四国遍路をめざしての体力つくりです。頑張ります。

合掌

(極楽浄土行きの手形)

これを(六波羅蜜)と言います。

(内容)

「1」人に心や物を施します。「2」約束を守ります。

「3」我慢します。「4」努力します。「5」静かに物を考えます。

「6」智恵を働かせます。  (6つの誓いです)

今日から安心して生きてください。(エンマ)

 


人は自分だけは死なぬと思っている

2016年10月27日 15時37分16秒 | ひと口法話

 お互いに皆さんたち、いつまでも死にたくないという気持ちです。

自分だけは死なない様に思っています。

とくに日本人は、ずいぶん軽々しく、無造作に口にします。

「どうせ死ぬんやから」「わたしが死んだらね」など、

いたって軽い事を言っていますが、実はそれは口先だけで、

本音は自分の死ぬことなど考えていません。

まるで縁の無い他人事のように対岸火事のように思っているのです。

釈尊は法句経の一詩に

「山の中ににげようと、海の中に逃げようと、空に飛び逃げようと、

この地下にもぐりこもうと、この地上に生みつけられたる者、

誰が死をまぬかれんや」

と言って居られます。

どんなに泣こうと、わめこうと、思うまいと、しようが。

人は死ぬということからは絶対誰も逃れる事のできません。

これは真理です。一期一会刹那「一瞬」の大事とは、

いつでも常に今のここが一番の大事と心得て

生きて行く覚悟を持つことです。

悔いのない人生を送りましょう。

生きとし生けるもは幸いであれ。釈尊

合掌