ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

瓢箪

2018年10月23日 17時30分54秒 | 陶芸


陶芸教室で瓢箪を作った。
市民展などにでる陶芸作品というと、決まって壺とか瓢箪とか花瓶とか抹茶茶碗とか・・・
大して実用性のないものばかりだ。
特に壺や瓢箪・・・こんなものを作っていったい今どき何に使うんだろう?

形は定型化して創造性のかけらもない。
あとは釉薬の掛け具合による偶然性を待つだけ。

なんて思いながらたまたま陶芸教室で瓢箪づくり。
正直大して面白くなく、大して力もこもらない。
色も出ていない。

酒を入れて飲んだらいっぱい呑めるな~なんて思わないわけでもないけど、
わざわざ瓢箪に移して飲む意味が感じられない。
そのままぐい飲みで呑んだらいいことだ。
どうせ作るのなら、曲がった瓢箪や、途中で割れた瓢箪、変形瓢箪・・・などいろいろ変わった瓢箪を作ればよかった。

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エセー

2018年10月22日 17時03分10秒 | 本の中から
毎日夕方5時ころには風呂から上がり晩酌、そして夕食。
そして8時ころには寝るという、良い子過ぎる時間をおくっている。
そのため夜中に1時ころには目を覚まし、
本を読み、疲れたら転寝をして、起きてはまた本を読む。
一日のうちで一番充実した時を過ごす。

今読んでいるのはモンテーニュのエセー。
昔読んだ時は、引用の多さに、さらにその本では外国語の引用をカタカナで翻訳してたので、とっても読みにくくてうんざりした。

いったい引用って何だろう?
権威付け?
こんなに本を読んだんだぞという自慢?
引用って他人の思想の借り物ではないのか?
たとえ借りものであってもそれを消化したら自分の言葉で語るはず。
しょせん引用とは人の言葉の借りもの、それも未消化に書いた物ではないか?

昔はよく引用した文章を書いたけど、その後ほとんど自分の文章に引用はしない。
そして自分の言葉で書くようにしている。
それでその頃エセーは受け入れることができなかった。
それでほとんどなにも頭に残っていない。

でもいろんな本を読むとエセーの再読を進めている。
どうやらエセーは世界の名作、晩年になればなるほどその良さがわかる本らしい。
それでようやく再読する気になった。

引用の多さには相変わらずうんざりさせられるけど、昔ほどの抵抗感はない。
それにモンテーニュの引用してる本、昔、その時はほとんど読んでいなかった。
ホラティウス、プルターク、ウェルギリウス、ルクティウス、プラウトゥス、テレンティウス、オウディウス、プリニウス・・・
今ではなんとか読んだ。
もちろんそれぞれ一部の作品を読んだに過ぎないだろうけど、何とか引用についていけるようになった。

そこでエセーを再読している。
それで昔よりは面白く読んでいる。

ところでちょっと気になったのは山羊の話。
エセーの中に次のような話があった。

昔はフランスでも日本と同じ、
母乳が出なかったら山羊の乳をのませていたらしい。

 ある農家で母親の母乳が出なかったので、近所の農家から山羊を借りてきて赤ちゃんに飲ませた。
 すると山羊はどうやら自分の子供と思ったらしい。
 赤ちゃんが泣き出すとすぐにやってきて乳を飲ませた。
 でもそのうちそのヤギを持ち主に返した。
 そして代わりに他の山羊を連れてきた。
 ところが赤ちゃんは飲もうとしない。
 そしてとうとう餓死してしまった。

この話、かなり怪しい。
前半部分はあるいはそうかなぁ~と思える。
でも、後半部分は・・・?

なんせモンテーニュのこと、
こんな挿話がある。

 ある農家で子牛が生まれた。
 それがとっても可愛かったのでそこの娘さんが毎日抱いて歩いた。
 するとそれがすっかり習慣になって、その子牛が大きな牡牛になっても毎日抱いて歩いた。
 (習慣とは怖いものだ)

なんてこんな挿話をのせる、モンテーニュのこと。
きわめて怪しい。
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紅葉

2018年10月21日 18時33分17秒 | 花便り
昨日龍野をゆったり散策。
まだ早いけど、もしかしたら紅葉ちらほら赤くなってるかな?
と見に行った。



確かにまだ早かったけどちほら赤くなっていた。





でもまだ青い紅葉もとってもきれい。
だと思わない?







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やぁ~~~めた!

2018年10月21日 17時49分43秒 | 雑感


きのうぶらぶら龍野を散策してたら、ある寺の掲示板にこんなのが張られていた。
知ったかぶりと知らんふり。
どちらが賢いか?
それはもちろん知らんふり。
知らんふりをすると人はいろいろ教えてくれる。
知識はどんどん増えていく。
知ったかぶりをすると自分の知識を出すだけ。
もう誰も教えてくれない。
そしてやがてすぐにその知識を底をつき、同じことを何度も繰り返し、聞く人に迷惑がられる。

科学とは何か?
それは知らないことを知らないと認め、それを知ろうとすること。
知らないことを知ったかぶりするとそこで進歩は止まる。
知ったかぶりはもっとも非科学的なことなのだ。

というわけで自分でも知ったかぶりをしないように気を付けている。
そしていつも知らんふりをする。
でもこれって賢いから?
いえいえ、実は単にしゃべるのが面倒なだけ。
話をするには顎の上下運動をしなければならない。
それが何とも煩わしい。
その点、聞くだけならそんな運動はいらない。
聞きたいことは聞いたらいい、聞きたくないことは聞いてるふりをして他のことを考えたてたらいい。

もともと無口な人間だけど、近年ますます無口になった。
このままではそのうち息をするのも面倒になるのではないか?
実はとっても真剣に不安になっている。
でも息はまだいい。
そのうち心臓も動くのが面倒くさくなって「やぁ~~めた!」と言って動くことをかもしれない。
でもさすがに突然そう思われても困る。
ぜひ前もって「やぁ~~めた!」という時を知らせてほしい。
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ウドの移植を・・・

2018年10月21日 17時32分50秒 | 田舎暮らし
今日は一日野良仕事。
ウドを移植すべく、畝を耕し堆肥とぼかしをつぎ込んで、今日の仕事は終わった。
あした移植しよう。

でもこんな単純作業大好き。
何にも考えないで体だけを使う。
まるで弥生時代に帰った気持ち。

いえいえ弥生に帰らなくても江戸時代の百姓もきっとそうだったんだろうね。
明治になって江戸の百姓の悲惨な暮らしを強調され洗脳され、
明治は夜明け、江戸は夜明け前の暗黒な時代。
なんて思われるだろうけど明治になって百姓一揆が頻発したことを思うと、
明治こそ百姓にとって夕暮れの時代だったと思う。

明日はウドの移植をしようね。
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「たつのに鉄道がやってきた」

2018年10月21日 07時25分50秒 | 田舎暮らし
飴は天敵。
飴を齧ると歯が抜ける。
飴はしゃぶってればいいのに、ついつい齧ってしまう。
すると歯の詰め物が抜ける。
わかっているのだけすぐにやらかしてしまう。
それで年に一度くらいは歯医者に行く。
飴はそんなに食べないのできっと他のものよりも危険度は高いだろう。
ガムで歯がとれたことはない。

とこでこんなことじゃなく、昨日、歯医者は行きすぐに接着してもらって、すぐに終わった。
それで時間があったのでのんびり龍野散策。

たまたま歴史文化資料館で「たつのに鉄道がやってきた」という特別展をやってたので見た。
鉄道オタクにはきっと必見の展示。
姫新線沿線の地元の人もとっても懐かしい展示。
でもこちらはどちらでもない。
適当に懐かしく見た。
ただ「幻の播電鉄道」の資料がもっと見たかった。

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龍野の写真

2018年10月21日 06時42分08秒 | 写真
小京都・龍野の写真。
観光地の写真を撮るのがとっても苦手なので、いつも撮る気にはならないけど、
朽ちかけた民家の土塀や茶室の壁に映る影など、よく見たら被写体いっぱいです・・・
















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里山

2018年10月19日 17時32分03秒 | 田舎暮らし
里山に15年以上も住んで里山へのイメージは昔と今とではずいぶん変わった。
いったい里山ってなんだろう?

本当の自然はそれ自体で循環する。
ところが里山はどうだろう?
絶えず人が手を加えないと維持できない世界ではないか。

里山を見ると現代の宅地造成地を思う。
宅地造成地と同じように、木を伐り山を削って自然を徹底的に破壊することによって里山ができた。
そのために里山を維持するためには絶えず人の手を入れないといけない。
それでも昔は人口増に対応すべく里山を作る意義は確かにあった。
でも人口減の今、果たして里山を維持する必要性があるのだろうか?

いったい本当の自然よりも、もののけ姫的のような自然よりも、里山の自然の方がいいのだろうか?
それなら、そう思うなら、知床の、白神山地の、屋久島の自然をつぶして里山に変えたらいい。
でもそうしろという人は誰もいないだろう。

本当の自然と人工的な里山の自然と、いったいどちらが優しいのだろう?
実は先日のC・W・ニコルさんの講演を聞いてとっても疑問に思った。
その中で「放置と保護は違う」という言葉に・・・
きっとニコルさんはイギリスの森を、イギリス風な里山をイメージして長野県にアファンの森を作ったのだろう。
クマ笹や倒木に覆われ誰も踏み入れることができなくなった所を、
ボランティアの人たちの協力を得て笹を切り、倒木を片付け、間伐材を伐採して、地面に日当たりを良くして、人が踏み入れる土地に変えて、
そして今のアファンの森ができた。
きっと今はきっと経営的にも成り立っているのだろう。

しかし、しかし・・・コスモス祭りや田んぼの学校のように、みんながそれをまねしたらどうなるのだろう?
競争社会、そしてその先に見えるのは共倒れ。

ニコルさんは言った、「放置と保護は違う」と。
では放置せずを得ない今の日本のほとんどの里山はどうしたらいいの?
税金を使って維持するのか。
砂漠にジョロで水まきするように税金を垂れ流しするのか?

ニコルさんは今でも里山の呪縛から逃れていないのではないか?
正直、今の気持をはっきり言う、日本の里山の9割はつぶれていい!と。
そして補助金やボランティアの無償奉仕などを当てにしないで、
まず自分達だけでこの里山を再生しようというところだけ生き延びればいい。

でもまずは誰も当てにしないで自分でできることだけをしよう!
そして、それだけで、満足して生きていこう!
絵本の「木を植えた男」のようにただただ偏屈に自分の好きなことだけをやったらいい。
木を植えるのが好きなら、好きなことをやったらいい。
それは村興しに繋がろうとも、繋がらなくとも、自分の好きなことをやったのだからそれで満足じゃないか。
そしてたまたまそれが村おこしに繋がったら、それはとっても嬉しい!!

自分たちが住んでるところじゃない?
その活性化にどうして人を当てにする?
まず自分でやる。
それでもだめなら集落のみんなに頼る。
それでもだめなら公に頼る。
それが普通じゃない?
そんなことができないなら、里山を自然にお返ししたらいい!
自然に「今までありがとうございました」と言って、里山をお返ししたらいい。


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楽死楽生

2018年10月17日 18時26分57秒 | 田舎暮らし


陶板を作った。
「楽死楽生」と書いた陶板を。

楽しく死んで、楽しく生まれ変わろう!
そんな願いを込めた陶板を。

ほとんどの場合、死は苦しみを伴う。
でも苦しければ苦しいほど、死は救い。
もし死がなかったら、そこにあるのは永劫の苦しみだけだ。

死は一度しか体験することはできない。
臨死体験はいっぱいあるけど、それは死ななかった体験でしかない。
人生でただ一度しか体験することができない死の瞬間。
そんな体験ができることは想像するだけでもとっても楽しい!
ただ残念なのはその体験を誰にも語ることができないことだ。

地獄や極楽・天国があるとは思えない。
地獄や極楽の思想は結局死んだ人のためでなく、生きてる人のこの社会のための道徳規範でしかない。
悪いことをしたら地獄に落ちるよ。
いいことをしたら極楽に行けるよ。
そのためにこの世で悪いことをしてはいけない、良いことをしようね。

地獄や極楽があるとは思えない。
しかしこんな道徳規範を持つことはいいことだ。
そのために地獄や極楽がある。
地獄や極楽はこの世界のためだけにあるのだ。

でも・・・もしあったら?
地獄はもちろんだけど極楽浄土にもとうてい行きたいとは思わない。
極楽浄土に行けるのは男だけだという。
男だけの世界って、きっと体育会系の世界。
そんな世界にはいきたくない。
どうせ行くなら、酒は美味いし姉ちゃんはきれい、な世界に行きたい。
根が軟弱な人間なのだ。

というわけで地獄や極楽はない、それが自分なりの結論だ。
そしてそう考えるととっても気楽になる。
葬式も法事も戒名も墓もまったく意味がなくなる。
法事もいらない、戒名もいらない、墓もいらない。
そんな煩わしいことはお断り!
それらはいずれも死んだ人のためでなく、残された家族の気持の問題、あるいは世間体の問題でしかない。
それで気が済むなら好きなようにやったらいい。

でもやっぱり思うな・・・
家族葬で樹木葬で、それも桜や梅や桃のような綺麗な花が咲く木の下に散骨してくれたら・・・
そして花が咲いた時、ふと思い出してくれたら・・・
そういえば、あのまったくどうしようもないぐうたらな呑兵衛がいたなぁ・・・
そしてビールや純米酒をのんで一滴でも土にこぼしてくれたら・・・

死は悲しいこと?
そんなことはない。
死は新しい旅立ち。
生の苦しみを絶ち、新たな未来への希望の旅立ち。
もしも多次元宇宙があるのなら、想像できる限りの自分にとって最高の宇宙に生まれ変わりたい!
こんなことを想像しながら死んで行くのはとっても楽しい。

そう、もっともっと楽しい宇宙に生まれ変わろう。
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再生可能イベント

2018年10月16日 16時31分21秒 | イベント
今ここではあちこちコスモス祭りが目に付く。
この市のあるところで休耕田にコスモスを植えてとっても評判になり、みんな真似するようになった。
なんせ自治体の人間は横並び大好きなのだ。
そうしてあちこちコスモス畑ができて客の奪い合い。
というか、客はまったく来ない。
いったい何のためにやってるの?
もちろん地元の人たちの楽しみのためにやってるというのならそれはそれでいい。
まちがってもそれで村おこししようなんて思わないことだ、
そして補助金をもらおうなんて思わないことだ。

田んぼの学校もそうだった。
子供たちを集めて田んぼで泥まみれになって遊ぶ。
このイベントが評判になり、あちこちでこれをまねして田んぼの学校が開かれた。
都会の人には信じられないだろうけど、ここら辺では子供が畑仕事をしている光景はまず見ることはない。
田んぼは機械化されているので子供たちが手伝うことはまずない。
ほとんどの農家では野菜は自給用にほんのちょっとしか作っていない。
とういうわけで田舎の子供はいも掘りさえもしたことがないらしい。
都会の子はきっと芋ほりのイベントなどで経験した子が多いだろう。

というわけで田んぼの学校の話。
田舎の子に田んぼに親しんでもらおうと始めた企画。
それが評判になり、どこもかしこも田んぼの学校。
その結果子供の奪い合いになり、子供はすっかりお客様。
こんなイベントに何の意味がある?

そこでまた話を戻します。
コスモス祭りの話。
どうしてあるところがコスモスで盛り上がったら、それをまねするのでなく、それではここでは他の花を植えよう、と思わない?
隣の町(平成の大合併前は隣の隣の町~)南光町はひまわりで有名。
全国的にはどうか知らないけど関西では有名でたくさんの人がやってくる。
ひまわりは鑑賞するだけでなく種を食べることもできるし種から油をとることもできる。
油を使った食品・加工品・石鹸などを作ることができる。
そして祭りを見に来た客に売ることができる。

ところがコスモスはいったい何ができるの?
確かにコスモスは見栄えがいいし、育てる手間がかからない。
でもわざわざ見に来てくれたお客さんに何を売ることできるの?
コスモスがどのような経済的利益を与えているの?
町興し・村興しと言ってもそれは所詮経済的利益があって言えることなのだよ。
自治体の補助金、地元の人たちの無償奉仕。
そんなイベントがいつまで続く?

田んぼの学校などのイベントに来た都会の人たちは、たくさんの人が集まって楽しい時間を送ったのを見て、きっと村おこしに協力したと思っているのだろうね。
でもその翌日来てほしい。
ひっそりした村、イベントに無償で協力した村の人たちの疲れた顔。
そして本来は村の活性化のためだった補助金を、自分たちの楽しみのために使ったことをすこしはわかってほしい。

いえいえこんな話じゃなくて、コスモス祭りの話。
よそがコスモスで活性化したなら、ここでは違う花で活性化しよう。
それもコスモスでなくもっと役に立つ花で。
どうしてそう思わない?
そう思ってほしい!

もっと役に立つ花や果樹・・・菜の花とか紅花とか花オクラとかツワブキもいいね。
果樹なら椿とか桃とか・・・
ラベンダーもいいね。
菜の花や紅花や椿は油がとれる。
ツワブキは晩秋黄色い花を咲かせる、フキと同じように食用になる。
桃は桜と同じく美しい花を咲かせそれ以上にとってもうまい実を成らせる。
ラベンダーは花もきれい、アロマ系のとっても役に立つ、何よりもいいことは鹿が食べない。
それから百合。
花もきれいだしゆり根が食べられる。
それからチューリップ。
チューリップをオランダ原産だと思っている人が多いけど、それは間違い。
中近東が原産地。そして球根を食用にしていた。
試しに一度食べたことがあるけどジャガイモとゆり根を合わせたような感じでジャガイモよりもうまいと思った。
きっと焼酎などに加工することもできるだろう。

というわけでこの旧出雲街道の国道沿いに年中花が咲いたら、
JRの姫新線沿いに年中花が咲いたら、
きっと年中この沿線に客は来てくれるだろう。
しかもコスモスのような非生産的な花でなく、再生可能なイベント。
補助金やボランティアの無償奉仕を当てにするのでなく、
自ら利益を産む、再生可能イベントが実現するだろう。

・補助金を当てにするな!
・ボランティアの無償奉仕を当てにするな!
・自ら利益を生み出せ!

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百合

2018年10月15日 17時27分18秒 | 花便り
鉄砲ユリの植え替えをした。
百合は大好きな花。
特に好きなのはカサブランカやスカシユリのような園芸種でなく、
純白の鉄砲百合、清楚で豪華!
薫りもとってもいい。

それで昔団地のベランダで育てた。
ところがどんどん増えて20本ほどになった。
するとベランダに出るととっても強烈な薫り!もう薫りではなく臭い!
頭がくらくらするほどだった。
鉄砲ユリは家から少し離れてるところに自然に生えてて、時々風向きによって百合の香りが漂ってくる、
そんな感じがいい。

でも本当は一番好きなのは笹百合。
山の中、藪の中に踏み入って、ふと見ると笹合百が咲いている・・・
とっても気品のある花。
一瞬、掘って家に植えようと思うけど、そんな邪な考えはすぐに捨てて、このままそっとしとこう・・・
そんな気になる花。

園芸店で笹百合の球茎は買えるけど、
そんなんじゃなくて、里山の奥で誰にも見られることなく、ひっそり、ひっそり、とっても美しく咲いてる・・・
そんな笹百合こそ本当の笹ユリだと思う。
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「たつのカメラ部写真展」

2018年10月15日 07時46分16秒 | 写真


昨日、「C・W・ニコル講演会」の後、時間があったので、龍野により「たつのカメラ部写真展」を見た。
この写真展毎年開かれている。
一応このカメラ部に入ってはいるけど一度も出展したことはない。
気楽に出展できる雰囲気だけど、ついつい面倒になり、ついつい気後れする。
展示写真を見ると来年は出してみようかなぁ~という気になる。
でも来年になるとまたまた同じことを考える。

ところで龍野は古い城下町、古い趣のある町家があちこちにある。
そして蔦が絡まった家もよく目にする。

それでたまに旧市街を歩くとついつい写真を撮りたくなる。








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「命の森~森から見る未来」~C・W・ニコル講演会

2018年10月14日 17時44分37秒 | 田舎暮らし
「命の森~森から見る未来」~C・W・ニコル講演会をある人のブログで知り、ふと行った。
実はニコルという人全然知らなかった。
でも森の話、ふと聞きに行ってみようかなぁ~と思った。
入場無料(!)というのも気に入った。
ただ整理券が必要らしく、それでそのある人の口利きで当日受付で整理券をもらえることになったので行くことにしたのだった。

さて受付が始まるころ会場に着き、「あの~~、整理券ないのですが・・・さんからここで整理券を・・・」
受付の人は最後まで聞かななで「どうぞ、どうぞ・・・」と愛想よく名前も確認することなく中に入れてくれた。
(ははぁん~~~、さては入場者が少ないのだな?)
中に入ると人はまばら。
でもまだ時間は早い、開演まであと20分以上ある。
入場者の年代はまばら、さすがに子供や子連れはいなかった。
静かな雰囲気、真面目な雰囲気。
主催は西播開業獣医師会。
日本獣医師会150周年記念後援会だとか。
えっ?150年?というと、会が始まったのは多分明治2年?
えっ、えっ、うそぉ~~~!と言いたくなる歴史!
まあまあそれは置いといてお決まりの、来賓のこの市の市長や西播開業獣医師会の会長(は病気でこれなかったらしく代理の人の)挨拶の後公演が始まった。

ニコルさんはイギリス・南ウェ~ルズ出身の人で、アングロサクソン系でなくケルト系の人。
それで日本人にはとっても親しみを感じられる人だった。
ニコルさんが特に強調したのは日本の豊かさ。
日本は北は流氷が南はサンゴ礁が・・・こんな自然にあふれた豊かな所は世界のどこにもない。
故郷のウェ~ルズは昔は自然豊かな所だった。
たくさんのサケが川を上ってくる、そんなところだった。
ところがニコルさんの子供のころは炭坑や鉱山で周りはぼた山だらけ。
わずかに残った貴族の狩猟場だった小さな森で遊んだ。
それだけに森への思いは人一倍強い。

日本は自然がとっても豊かな所。
イギリスは昔自然の木が38種しかなかったらしい。
その同じ時期、日本の縄文時代には1300~1500種類の木があったらしい。
その豊さがまったく違う。
その豊かさに感激すればするほど、
この豊かな自然を破壊したバブル時の日本、それが許せない!
自然林を伐採し、トラックが通り伐採した木材を運べるように道を作り自然を破壊した、それを憤りをもって語っていた、
その気持はとってもわかる。

家に帰ってきて、とっても興味を持ったのでニコルさんをネットで調べてみた。
子供のころ酷いいじめに合った。
教師や牧師の理不尽な仕打ちにも合った。
実父は戦争で日本軍につかまり捕虜となり処刑された。
そんな負の記憶をほとんど語ることなく、
美しい日本を、豊な日本の森を語る講演だった。
それだけに日本人としてとっても重くて思い深い講演だった。

ねぇねぇ、日本という国を、日本人であることを、もっともっと誇りをもっていいんじゃない?
そんな気になる講演だった。
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カノン

2018年10月13日 19時25分21秒 | 映画の話
今日は第2土曜日・サタデーシネマの日
今月は「カノン」(監督:雑賀俊郎)
とってもいい映画だった。

老舗料亭の女将が亡くなったとき、3人の孫の姉妹への遺言で、死んでたと思っていた母親が実は生きていたということを知る。
そこで今母親が暮らしている老人ホームに行く。
でも母親は自分の子供がわからない。
すっかりアルコール中毒による認知症になっているから・・・

夫(老舗料亭の女将の実子)は夢を追う人間、夢に逃げる人間、すぐに他に女を作りその挙句入水自殺する。
残された母親は、老舗料亭をでて、自活。
その挙句、しばしば子どもたちにつらく当たり自虐的にアルコールに溺れる・・・
こんな暮らしの果てに・・・

いえいえあまり粗筋を書きすぎてはいけないね。

実は根がぐうたらな百姓、死ぬときは酒を呑んで死にたい!呑みすぎて死にたい!!
死因・・・「アルコール中毒」!
きっとこれだとみんな納得してくれるだろう。
「やっぱりなぁ~」とみな思うだろう。

ところがアル中の現実はこんなものではないらしい。
もっともっと悲惨。
アルコール中毒で死亡じゃなく、まずアルコール性認知症になるらしい。

う~~~ん、それはつらいね。
それに呑む量も半端じゃない。
こちらはアル中で死になるべく毎日努力しているのだけど、
それでも肝機能はすべて正常値。
アルコール度の検査のγーGTPもなんと正常値!
今でもかなり呑んでるのに、いったいこれからアル中死になるためにはどれくらい呑まないといけないの?

やっぱりここにかけているものは精神的なものかもしれない。
根が軟弱な人間、今のような軟弱な環境だと、やっぱりかなり呑んでるようで、実は飲み方が軟弱なのだろうね。
ここは大いに反省せねば・・・

ところで表題のカノン。
カッペルベルのカノンがテーマがテーマの映画、大切な場面で流れる。
今まで知らなかったのだけど、これは3台のピアノで演奏するらしい。
すると初心者でも簡単に演奏することができる。
アル中の母親が最も大切にしてきたものもこのカッペルベルのカノンのオルゴールだった。

最後は結婚式の場面で実に効果的に3姉妹のカノンの演奏で終わる。
母親も気づき立ち上がる・・・
感動的なエピローグだった。
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多肉植物用植木鉢

2018年10月11日 14時03分20秒 | 陶芸
相変わらず多肉植物用の植木鉢を作っている。





















植木鉢は気楽に作れるのがいい。
これからもっと変わったものを作りたい。
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