白石城公園③蔵王600号記念子規の句碑や地元俳人句碑など! 2024-12-23 16:34:31 | 日記 令和6年12月23日(月)白石城公園③ 二の丸跡下の「山吹の小径」を散策していると、高浜虚子の句碑が見つかる。 虚子の句は、「羽と陸と 併せて蔵王 夏の山」。 地元出身の鈴木綾園の句は、「行秋の 山風あらき 籬(まがき)哉」。 松窓乙二の句は、「栗まくや わすわすの山 西にして」である。 白石城は、どこから見てもきれい! 松の間からも楽しむ。
白石市白石城公園②絶景の天守閣からの眺望と芭蕉句碑! 2024-12-22 15:05:21 | 日記 令和6年12月22日(日)白石市白石城公園② 土塁は当時のものがそのまま残っている。 天守閣からの眺めは、ほんとうに見飽きることはない。<天守閣からの眺め> 整備も素晴らしい!<片倉小十郎影綱の武具> 二の丸跡下の「山吹の小径」を散策していると、高浜虚子の句碑が見つかる。 その左手前に、 芭蕉の句碑。芭蕉の句は、 「奥の細道」出発直前に大垣で詠まれた、「かけろふの 我肩に立 かみこかな」である。~つづく。
白石市: 白石城公園① 波瀾万丈?白石城のいろいろ! 2024-12-21 13:50:47 | 日記 令和6年12月21日(土) 今日は冬至!比較的穏やかな一日!白石市: 白石城公園 ① ~ 主として仙台藩伊達氏の支城として用いられ、片倉氏が代々居住した。<白石城> 九州の八代城等と並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされ、明治維新まで存続する。 天守の代用となっていた三階櫓は、支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり「大櫓」と名づけられる。 かつての城は、本丸、二の丸を中心に、幾重にも外郭を備えた堅城である。 虎口のうち、大手門付近には幅が変化し、鍵の手に折れる通路等、特に工夫がみられる。 明治初頭の廃城令により廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却される。 天守閣は石垣なども撤去され、更地となる。 三階櫓など本丸の一部が、1995年に木造で復元され、現在は公園となっている。 現存する建物としては、厩口門が市内の延命寺山門に、東口門が市内の当信寺山門に、どこの門か不明な城門が名取市の耕龍寺山門に、煙硝蔵が市内個人宅に、移築されている。<復元された二の門>~つづく。
白石市田村神社:甲冑堂②おくのほそ道二文碑と桃隣の句碑! 2024-12-20 15:24:11 | 日記 令和6年12月20日(金)白石市田村神社:甲冑堂② 芭蕉と曽良は、元禄2年(1689) 5月3日に田村神社の甲冑堂を拝観。『奥の細道』の、 「二人の嫁がしるし、 先哀也。 女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつる物かなと 袂をぬらしぬ。」という二文が、碑に刻印されている。<おくのほそ道の文章碑> また、桃隣の句碑が残っている。 桃隣とは芭蕉の弟子で、本名は、天野勘兵衛。<桃隣の句碑> 芭蕉の(支考代筆)口述遺書中、「桃隣へ申し候。 再会かなはず。 力落さるべく候。 いよいよ杉風・子冊・八草子よろず御投げかけ、ともかくも一日暮しと存ずべく候」と書かれた人物である。 碑には元禄9年(1696年)に詠んだ句。「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」 。
白石市: 田村神社:甲冑堂①佐藤兄弟の奥方初音と楓の勇ましさ! 2024-12-19 15:10:51 | 日記 令和6年12月19日(木)白石市: 田村神社:甲冑堂 ① 田村神社の境内にある甲(かつ)冑(ちゆう)堂は、佐藤継信・忠信兄弟の妻の像を祀っている。 <社殿> 御影堂、故将堂等とも呼ばれる。 かつては、神仏が同居し、同敷地に別当寺真言宗遊王山高福寺が建てられる。<初音と楓の甲冑堂> 甲冑堂の扉の奥には、子の戦死を悲しむ母を慰めるために、夫の戦場での出立ちを身にまとい、夫に代わって凱陣を告げたという妻たちの勇ましい姿が蘇る。<由緒略記> 福島の医王寺の本堂にも、昭和37年(1962)2月に造られた甲冑姿の妻二人の像が安置されているが、顔の表情は甲冑堂の像と比べるとかなり現代的。 福島の医王寺では、継信の妻の名は若桜、忠信の妻の名は楓として伝えられている。 現在の甲冑堂は、昭和14年(1939)12月3日に再建。<甲冑堂>継信、忠信の妻の話(「佐藤一族と義経について」参照)が、国定教科書高等小学校読本で採り上げられたことをきっかけに、甲冑堂再建の気運が高まり、寄付金などにより再生が実現。~つづく。