令和5年11月25日(土)
③ 伊賀上野城
天正13年(1585)に
筒井定次が平楽寺・薬師寺の
あった台地に近世城郭としての
伊賀上野城を築く。
菊岡如幻の
『伊水温(いすいうん)故(ご)』
によれば、城は高丘の頂上を本丸、
東寄りに三層の天守閣を建立。
城下町は北側(現在の小田町)
を中心とする。
慶長13年(1608)6月、
筒井定次は改易となるが、
天守閣は、
寛永10年(1633)頃に倒壊。
慶長13年(1608)8月、
家康は、伊予の国(現 在の愛媛県)
宇和島城主であった藤堂高虎に、
伊賀 の国10万石・
伊勢の内10万石、
伊予の内2万石、
合わせて22万石を与え、
国替えさせる。
高虎は康の信任が篤く、
築城の名手でもある。
大坂・豊臣方との決戦に備える
ため築城。
筒井定次の城が大坂を守る型を
とっていたのに対し、
高虎は、
大坂に対峙するための城として築く。
慶長16年(1611)正月、
本丸を西に拡張し、
高さ約30メートルの高石垣を
めぐらし、南を大手門とする。
大阪城と並ぶ高石垣でも有名!
五層の天守閣は、
建設中の慶長17年(1612)9月2日、
当地を襲った大暴風で倒壊。
その後、外郭には、
10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)
と長さ21間(約40m)という
巨大な渡櫓(多聞)をのせた
東西の両大手門や御殿などを建造。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、
その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れる。
その後、
幕府は城普請を禁じたため、
伊賀上野城では天守閣が再建され
ないまま伊賀国の城として認められ、
城代家老が藩政をあずかることに。
幕末まで国替えなく、
この地を収める。
現在の復興天守閣は、
当地選出の代議士、川崎克が
多くの支援者の協力を得ながら
私財を投じて藤堂氏の天守台に
建てたもの。
<昭和にやっと復興複合式天守閣>
昭和7年(1932)に着工し、
昭和10年(1935)10月18日
に竣工する。
<天上には川合玉堂など鬼才の絵が>
木造三層の大天守と二層の小天守
からなる複合式天守の”昭和の城”は、
伊賀地域の文化と産業の振興の拠点
として「伊賀文化産業城」
と名付けられる。
<天守閣から眺める城下町>
「白鳳城」とも呼ばれるほどの
優雅な白というのが、
<白鳳城とも呼ばれる伊賀上野城>
忍者の装束に身を包んだ家族や
外国の恋人(?)など見れ、
忍者の町、伊賀市を満喫!
城内にも赤、青、黒忍者が
天井近くを這っている。
忍者屋敷のショーは、本物で、
迫力がある。
英語で喋ったりするので、
海外の人にも人気!
くノ一忍者も実演。