貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

伊賀市釣月庵 『貝おほひ』を執筆した処

2023-11-30 10:18:38 | 日記
令和5年11月29日(水)
 生家奥:釣月軒          
 生家の裏にある
釣(ちよう)月(げつ)軒は、
芭蕉が29歳の時、
『貝おほひ』という
自ら署名出版した唯一の書物を
執筆した処。
<釣月庵 変容した写真ですみません>

 その序文には、
「寛文拾二年正月廿五日
伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にして
みづから序す」
とある。
 伊賀にいた頃の芭蕉は、
通称の宗(むね)房(ふさ)を
そのまま俳号として使っている。     
 芭蕉と名乗るようになった後も、
伊賀への帰省の際には、
この建物で起居している。


伊賀市 芭蕉翁生家 芭蕉翁のお出迎え!

2023-11-29 10:33:50 | 日記
令和5年11月29日(水)
伊賀市  芭蕉翁生家            
 次男として生まれた
芭蕉の生家である。 
<芭蕉翁誕生の地と生家>

 受付の50代の女性が、
いろいろと分かりやすく、
そしてちょっと文学的に説明
してくれる。
 ちょっとくつろいだ感じになり、
味わいも深くなる。
 上がり口には、
小型の芭蕉が
「いらっしゃい。」
と出迎えてくれる。
<ようこそ 芭蕉翁のお出迎え>

 この家で生まれた芭蕉は、
29歳まで過ごす。
 それ以降、幾度か帰郷。 
<土間から奥へ>

 晩年の貞享4年の暮れ、
この生家で自分の臍の緒を見つけ、
亡き父母や郷土伊賀への慕情を
怺えきれず涙。
「旧里や 
   臍のをに泣 
     としのくれ」
と詠む。
 その句碑が生家前に建っている。
<芭蕉句碑>

  当時の生活を見事に再現した
この生家は、芭蕉等家族の暮らし
ぶりがよくわかる。
 この土間の奥に、
「釣月庵」がある。
 また、「芭蕉瓦版」に、
米国の駐日大使キャロライン・ケネディ
さんが、
「奥の細道」の芭蕉の句を引用し、
着任したことも掲載されている。



伊賀市だんじり会館前庭「芭蕉『眉はき・・の句』英訳と我が影碑!」

2023-11-28 12:05:28 | 日記
令和5年11月28日(火)
だんじり会館前庭                
 上野天神宮の秋祭り
「上野天神祭」で使われる
だんじり3基と、
全国的にも珍しい鬼行列を
再現展示。
<だんじり会館>

 またハイビジョン映像で、
臨場感あふれる映像と音響も
体感できる。
 「忍者変身処」もある。
 このだんじり会館の前庭に、
芭蕉句碑がある。
 芭蕉の句碑には、
「自然(じねん)」という文字が
彫られ、  
<芭蕉碑「自然」>

「まゆはきを 
   俤にして 
     紅粉の花」
という句が、
ドナルド・キーンさんの英訳で、
"They make me recall 
    A lady's powder
   puff These saffron blossoms . "
   
と記されている。
<「眉はき・・」の句の英訳碑>

 今年亡くなられたドナルド・キーン
さんの追悼碑になる。

 我が影も映る!





伊賀市公園内③伊賀上野城 白鳳城とか伊賀文化産業城とか別称!

2023-11-25 10:15:22 | 日記
令和5年11月25日(土)
 ③ 伊賀上野城                      
 天正13年(1585)に
筒井定次が平楽寺・薬師寺の
あった台地に近世城郭としての
伊賀上野城を築く。
 菊岡如幻の
『伊水温(いすいうん)故(ご)』
によれば、城は高丘の頂上を本丸、
東寄りに三層の天守閣を建立。
 城下町は北側(現在の小田町)
を中心とする。
 慶長13年(1608)6月、
筒井定次は改易となるが、
天守閣は、
寛永10年(1633)頃に倒壊。 
 慶長13年(1608)8月、
家康は、伊予の国(現 在の愛媛県)
宇和島城主であった藤堂高虎に、
伊賀 の国10万石・
伊勢の内10万石、
伊予の内2万石、 
合わせて22万石を与え、
国替えさせる。
 高虎は康の信任が篤く、
築城の名手でもある。  
 大坂・豊臣方との決戦に備える
ため築城。
 筒井定次の城が大坂を守る型を
とっていたのに対し、
高虎は、
大坂に対峙するための城として築く。
 慶長16年(1611)正月、
本丸を西に拡張し、
高さ約30メートルの高石垣を
めぐらし、南を大手門とする。
 大阪城と並ぶ高石垣でも有名!
 五層の天守閣は、
建設中の慶長17年(1612)9月2日、
当地を襲った大暴風で倒壊。
 その後、外郭には、
10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)
と長さ21間(約40m)という
巨大な渡櫓(多聞)をのせた
東西の両大手門や御殿などを建造。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、
その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れる。
 その後、
幕府は城普請を禁じたため、
伊賀上野城では天守閣が再建され
ないまま伊賀国の城として認められ、
城代家老が藩政をあずかることに。
 幕末まで国替えなく、
この地を収める。
 現在の復興天守閣は、
当地選出の代議士、川崎克が
多くの支援者の協力を得ながら
私財を投じて藤堂氏の天守台に
建てたもの。
<昭和にやっと復興複合式天守閣>

 昭和7年(1932)に着工し、
昭和10年(1935)10月18日
に竣工する。
<天上には川合玉堂など鬼才の絵が>

 木造三層の大天守と二層の小天守
からなる複合式天守の”昭和の城”は、
伊賀地域の文化と産業の振興の拠点
として「伊賀文化産業城」
と名付けられる。
<天守閣から眺める城下町>

 「白鳳城」とも呼ばれるほどの
優雅な白というのが、
<白鳳城とも呼ばれる伊賀上野城>

 忍者の装束に身を包んだ家族や
外国の恋人(?)など見れ、
忍者の町、伊賀市を満喫!
 城内にも赤、青、黒忍者が
天井近くを這っている。

 忍者屋敷のショーは、本物で、
迫力がある。
 英語で喋ったりするので、
海外の人にも人気! 
 くノ一忍者も実演。




② 俳 聖 殿 芭蕉の旅姿を模した木造建築内の芭蕉座像!

2023-11-24 10:57:48 | 日記
令和5年11月24日(金)
伊賀市伊賀上野公園内
<公園内道案内>

  ② 俳 聖 殿                        
 芭蕉生誕300年を記念する
木造建築物。
<俳聖殿の門>

 昭和17年(1942)に建築家
伊東忠太の設計で建設される。
 外観は、
川崎克の着想を元に伊東忠太が
仕上げたものであり、
松尾芭蕉の旅姿を模したもの。

 上層の屋根が笠、
 下部が顔、
 下層のひさしは蓑と衣姿、
 堂は脚部、
 回廊の柱は杖と脚
を表している。
 下層八角形平面、上層円形平面の
木造建築であり、
屋根は桧皮葺である。

 内部には
芭蕉祭当日に表彰される顕詠俳句
特選句が飾られている。
<俳聖殿の中の芭蕉座像>

 芭蕉の命日である
10月12日には、
伊賀市により芭蕉祭が行われ、
安置されている大伊賀焼の
等身大の『芭蕉坐像』(川崎克の作)
が公開される他、
俳句の優秀作品等が表彰される。
<俳聖殿由緒記碑>

 平成20年(2008)3月19日、
三重県の有形文化財(建造物)
に指定、
 2年後には、国の重要文化財に
指定される貴重な建造物となる。