貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

「もうつうじ」の由来! 毛越寺篇その2

2022-11-30 14:26:36 | 日記
令和4年11月30日(水)
<大泉が池の中島>

  World Heritage Motsuji  Temple  
としての毛越寺の由来には、
「白鹿伝説」がある。
「嘉祥3年(850)、
慈覚大師が東北巡遊の折 
この地にさしかかると、
一面雪に覆われ、一歩も前に進めなくなる。
<赤松の道を入る>

 ふと足下を見ると、 
地面に点々と
白鹿の毛が落ちている。
 大師は、その毛を辿ると、
白鹿が蹲っているのを見つける。
<慈覚大師を祀る開山堂>

 大師が近づくと、
白鹿は姿をかき消す。
 やがてどこからともなく、
一人の白髪の老人が現れ、
『この地に堂宇を建立して霊場にせよ』
と告げる。
 大師は、この老人こそ薬師如来の化身
と感じ、一宇の堂を建立。
嘉祥寺と号す。」
<嘉祥寺跡>

 これが毛越寺の起こり。
<大泉が池から遣り水を>

 毛越寺の「越」は、
慣用音で「おつ」と読む。
「もうおつじ」が
「もうつじ」になり、
現在の
「もうつうじ」になったという。


特別史跡と特別名勝を散策。平泉に到着!その1

2022-11-29 14:18:38 | 日記
令和4年11月29日(火)
平泉市: 毛越寺(もうつうじ)  
<毛越寺入り口>
<山門>

<本殿>
   
 浄土庭園とは仏堂と苑池とが
一体として配された庭園で、
毛越寺では北に塔山と呼ばれる小山を
背景として、
広々とした苑地美観を展開している。
 大泉が池は浄水をたたえ、
その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、
浪返しにあたる立石、
枯山水風の築山といった石組みや、
池に水を引き入れる遣水など、
自然の景観が表現されている。
 日本最古の作庭書「作庭記」の
思想や技法を今に伝える貴重な庭園として、
八百有余年を経た現在も、
四囲の樹木の景観と相まって、
訪れる人を楽しませてくれる。            
 「特別史跡」・「特別名勝」と、
その文化価値を国から二重に指定
されている毛越寺。
<毛越寺伽藍原図説明>

 境内には平安時代の堂塔伽藍を
偲ばせる礎石等の遺構が
多数残っている。
<毛越寺庭園説明>

 二十代前半横浜時代に、
友人数名と訪れて以来。
世界遺産に登録され、すっかり整備、
見応えもあり。
 ゆったり、じっくり散策すること
にする。
<南大門跡>

 つづく。

降らずとも、蓑と笠の準備!再現を!!!

2022-11-28 10:29:05 | 日記
令和4年11月28日(月)
登米市: 登米神社        
 山の中腹にあり。
 鄙びた閑静な神社。

 奈良時代以前からこの地には
「遠山(とおやま)村」という村があり、
これが「登米(とよま)」の語源?

 旧登米町周辺には
明治時代の建造物が多く、
「みやぎの明治村」と呼ばれ,
大切されている。
 登米神社の随身門の随身像も
印象に残った。
<随神門より>

<随神呍像>
 
<随神阿像> 

 芭蕉の句碑は、見つからず。
あれば、
「降らずとも 
  竹植うる日は 
    蓑と笠」

 再度、
参拝の御礼と旅の祈願をし、
浄めた心で 
神社を後にする。




おくのほそ道三百年祈念・歴代芭蕉一宿庵の石碑!

2022-11-27 09:45:26 | 日記
令和4年11月27日(日)
登米市: 水澤県廳記念館   
<入り口>
  
 戊辰戦争 (明治元年1868-1869)で
政府軍に敗れた仙台藩は、
領地を没収される。
 廃藩置県などの改革等の変遷も
影響を受ける。
 その中で、明治4年現在の宮城県の北部
と岩手県の南部を管轄する地域を
「登米県」と称し、
本町に登米県庁舎が設置されることになる。
 明治8年まで使用される。
 建物の玄関は堂々たる入母屋造の屋根
をかけ、破(は)風(ふ)には狐格子を
付した純粋な日本建築となっている。
<入母屋造りの屋根:洋風の平屋建て>

 しかし、
本棟は、洋風な木造平屋建てとなっており、
県内官公衙建築を代表する貴重な日本独自
の洋風建築だ。
<説明>

 元禄2年、
芭蕉翁「奥の細道」行脚の折、
戸伊摩(登米)に一宿せしを記念し、
宝暦の頃、
登米の俳人、金指紋兵衛が一宿庵を称えた。
 これは庵を建てたのではなく、
芭蕉翁の一宿の由縁を伝承する為の
庵号にして、現在二十代に至る。
<芭蕉一宿庵の石碑>

 町制施行百周年、
『奥の細道』紀行三百年にあたり、
歴代一宿庵の名を掲げ、
これを記す。  



戸伊摩は現在「登米市(とめし)」に!

2022-11-26 10:25:59 | 日記
令和4年11月26日(土)
登米市: 旧登米高等尋常学校 
<校舎>
 
 芭蕉は、
『心細き長沼にそふて、
戸伊摩と云ふ所に一泊して、
平泉に至る。
 其間廿余里ほどゝ(と)おぼゆ』
と記す。
 一泊した戸伊摩という所は、
現在の登米市登米町。
 訪れてみて初めて町の品格、
風格を知る。
<校舎玄関側>

 「登米市」は「とめ」、
登米町は、「とよま』という読み。
「とめし」の「旧とよま高等尋常小学校」
という呼び方となる。
  初めは戸惑ったが、
こういうのもまた楽し! 


<そのとなりに>
「教育資料館」でもある。