貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

和歌山市紀三井寺②早咲きの桜の名所とその由緒も水も名水指定!

2024-07-31 11:31:44 | 日記
令和6年7月31日(水)
和歌山市紀三井寺②
 芭蕉句碑は、
231段の階段の中程、
清浄水の所にある。

「見あぐれば  
   さくらしまふて 
     紀三井寺」。  
 この句のように、
紀三井寺の桜は早く、
早咲き桜の名所として
知られている。
 因みに桜の木は500本ある
という。
 さて、紀三井寺の由緒は?
 紀三井寺は、
今から1230年前奈良朝時代
光仁天皇の宝亀元年(770)、
唐僧・為光上人によって
開基された霊刹。

 為光上人は、
伝教の志篤く、身の危険もいとわず、
波荒き東シナ海を渡って
唐より到来する。
 諸国を巡り、
観音様の慈悲の光によって、
人々の苦悩を救わんがため、
仏法を広める。

 行脚の途次、
たまたまこの地に至り、
夜半名草山山頂あたりに
霊光を観じられ、翌日登山。
 そこに千手観音様の尊像を
ご感得になったという。
 上人は、
この地こそ観音慈悲の霊場、
仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、
十一面観世音菩薩像を、
自ら一刀三礼のもとに刻み、
一宇を建立して安置される。
 これが紀三井寺の起こり。

 その後、
歴代天皇の御幸があり、
また後白河法皇が当山を勅願所と
定められて以後隆盛を極め、
鎌倉時代には
止住する僧侶も五百人を越えた
という。

 江戸時代に入ると、
紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、
「紀州祈祷大道場」として尊崇。
 正式には
「紀三井山金剛宝寺護国院」
という。
 紀三井寺とは、紀州にある、
三つの井戸が有るお寺ということで
名付けられ、今も境内には、
清浄(しようじよう)水(すい)、
楊(よう)柳(りゆう)水(すい)、 
吉祥(きつしよう)水(すい)の
三井より清水がこんこんと
湧き出して、年中絶えることはない。
(紀三井寺の三井水は
昭和60年3月、環境庁より
日本名水百選に!)
 ご本尊・十一面観世音菩薩様は、
厄除・開運・良縁成就・安産・
子授けにご霊験あらたかとされ、
毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、
日参、月参りの篤信者で賑わっている。
 春は、早咲き桜の名所として、
また、境内から景勝・和歌の浦を
はじめ淡路島・四国も遠望出来る
観光地としても有名。

 古来文人墨客にして杖引く人も多く、
詩歌に、俳諧に、絵画にと、
多くの筆の跡が遺されている。



和歌山市 紀三井寺①その由緒と厄除け坂と芭蕉句碑!

2024-07-30 10:01:16 | 日記
令和6年7月30日(火)
和歌山市  紀三井寺①               
 お寺の衆が
みんなで清掃と拝観への準備
真最中に詣でる。
<紀三井寺門前商店街>

 紀伊國屋文左衛門が、
若い頃母を背負ってこの坂を上り、
観音様にお詣りをしている。  
<本殿への参道>
 
 ある日、
途中で鼻緒が切れ、
困っているところに
玉津島神社の宮司の娘加代が
通りかかり、
鼻緒をすげ替えたのが縁で、
二人は結ばれる。 
 それからこの坂を、
結縁坂(けちえんざか)
と呼ぶようになる。
 今でも出会いをと
観音様にお詣りする人も
少なくない。 
 階段は、「女厄(33)除坂」とか
<女厄除け坂>

「還暦厄除坂」等と名付けられ、
<還暦厄坂>

階段にも功徳が施されるように
なっている。
<芭蕉句碑>

 芭蕉句碑は、
231段の階段の中程、
清浄水の所にある。
「見あぐれば  
  さくらしまふて   
    紀三井寺」
~つづく。

紀の川市粉河寺③粉河寺讃歌もグッド!

2024-07-29 09:55:20 | 日記
令和6年7月29日(月)
紀の川市粉河寺③
 有本芳水さんの粉河寺讃歌は、 
   
「馬の背にしてかへり見る 
 春暮れ方の
 紀伊の国 松原かげに 
 旅びとの すげ笠 
 あまた行きかひて 
 赤き夕日は たちば なの 
 花咲く上に 匂ふかな 
 紀の河   河原 河ぞひを 
 のぼれば ここは  
 粉河寺
 赤い負(おい)笈(ずる) 
 白き笠 巡礼の子に 
  打ち交り 
 西国三番 
 ちゝはゝの めぐみも深き 
 粉河寺 
 和讃を高う 
 誦(ず)するかな」
と詠い、立派な碑になっている。

 右側に3メートルほどの
幅の小川が流れ、整備されている。
 井戸水も豊富。
 川沿いに
念仏堂など由緒ある建造物も多く、
整備されている。
<鐘楼と銘木楠木>

 岩の庭も桃山時代のもので、
素晴らしい景観の奥に
本堂の屋根が厳かに輝いている。


                       
 ☆☆☆ 紀ノ川万葉の里で
ラーメンと柿の葉寿司を食し、
葛城温泉八風の湯につかり、
疲れをとる。
「青洲の里」という道の駅で泊まる。
朝まで我が車のみ。
 華岡青洲さんもあんぐり
開けっ放し?
 麻酔の効きすぎ?
 産地の野菜の直売所しかないのが
原因の一つ。
 二工夫あれと願い、
深謝して「青洲の里」を
後にする。



紀の川市粉河寺②由緒と牧水などの歌・句碑!

2024-07-28 10:10:30 | 日記
令和6年7月28日(日)
紀の川市粉河寺②
 後日、
一夜を泊めてもらった童行者は、
孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)
を叶えてやろうと、
七日七夜、庵に籠もり、
等身の千手観音像を刻み、
立ち去る。
<釈迦牟尼仏足跡碑など>
<釈迦牟尼仏足跡碑>

  時移りその後、
河内国の長者佐太夫の一人娘が
長患い。
 そこへ童行者が訪ね来て、
千手陀羅尼を誦して祈祷。
 やがて娘の病は回復する。
 童行者は長者がお礼にと申し出た
七珍万宝を断り、
娘が捧げるさげさや(お箸箱)と
袴のみを手に
「紀伊国那賀郡粉河の者だ」
とのみ告げ、立ち去る。

 翌年春、
長者一家は粉河を訪れたが、
探しあぐねて小川の傍らで一休み。
 ふと流れる水が米のとぎ汁の
ように白いのに気がつき、
粉河の証しであることを確信。
 さらに、
その川を遡り庵を発見する。
扉を開けると千手観音が安置され、
娘が差し出したさげさやと
袴を持たれていたので、
かの童行者は、
実は千手観音の化身であったことが
分かる。
 この開創の由来は、
当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等
にて伝えられている。
<五橘亭と塊亭の句碑>
 歌碑は、  
「水も嘸や                  
   白き粉河の
      山桜」 
        五橘亭
「風猛や
   名に似ぬ里の
      小春かな」 
        塊亭 
<若山牧水の歌碑>

「粉河寺
   遍路の衆の
     打ち鳴らす
   鉦々きこゆ
     秋の樹の間に」 
         牧水 
である。
~つづく。

紀の川市 粉 河 寺① 粉河寺由緒と讃歌

2024-07-27 10:30:29 | 日記
令和6年7月27日(土)
紀の川市  粉 河 寺 ①                 
 奈良時代末草創時この方、
粉河寺(こかわでら)は
多くの人達の信仰を受け、
繁栄する。
<山門>

 鎌倉時代には七堂伽藍、
五百五十ヶ坊、
東西南北各々四キロ余の広大な
境内地と寺領四万余石を有している。
 天正13年(1585)、
豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、
偉容を誇った堂塔伽藍と
多くの寺宝を焼失する。
<奈良時代末草創の粉河寺>
<本殿>

 その後、
紀州徳川家の庇護と信徒の寄進
によって、
江戸時代中期から後期に
現存の諸堂が完成する。
<巌庭園も見事>

 由緒話もある。                                          
 奈良時代末宝亀元年(770)の開創。
 当時、
紀伊国那賀郡に住む
猟師大伴孔子古は、
いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、
夜ごと猪や鹿を狙っていた。
 ある晩、光明輝く地を発見。
発心してその場所に柴の庵を建てる。
<粉河寺讃歌>

~つづく。