貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

しのぶもぢずり

2018-02-28 08:13:51 | 日記
しのぶもぢずり

平成30年2月28日(水)

 如月も本日で去って行く。

 朝の歩行禅も、コート要らず。

ジャンパーに変わる。手指の冷えも

なく、陽気に包まれていく。

 しかし、日が昇るという感動はなく

なる。

 今朝は、もう福島市。

福島市: 文字摺観音:普門院  

2017(平成29)年6月4日 16:00~

 文字摺観音の普門院の駐車場に入る。

 カーブしている所。

 

 山門前に、芭蕉の立像が見える。

 工事中でもあった。



『奥の細道』では、(しのぶの里)の項あり。

「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、

忍ぶの里に行。遙山陰の小里に石半土に

埋てあり。里の童部の来りて教へける、

『昔は此の上に侍しを、往来の人の麦草を

あらして、此石を試侍をにくみて、此谷に

つき落せば、石の面下ざまにふしたり』と

云。さもあるべき事にや。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺   」

と記している。

信夫文字摺公園の地図



文知摺観音の説明



文知摺観音は小倉百人一首の歌枕の地。

 松尾芭蕉、正岡子規などの文人墨客が多

数訪れた場所だ。

 全域が福島市の文化財に指定され、

日本最北端といわれる多宝塔は福島県の

重要文化財指定。

 資料館「伝光閣」(でんこうかく)には

美術資料とともに古文書や歴史資料が展示

されているという。

 行基菩薩作といわれる秘仏観音像の

ご開帳は33年に一度行われ、次回は2049年

の予定。 

 32年後だ。

 平成28年10月より、文知摺観音は曹洞宗寺

院・普門院として新たな歴史を歩み始めた。

新緑と秋の紅葉の時期の幾重にも重なる

モミジのグラデーションは特に見事だそう。

つづく。


美人猫と岩山と芭蕉

2018-02-27 08:06:50 | 日記
美人猫と岩山と芭蕉

平成30年2月27日(火)

 あっという間の2月だなあ!

衣更着は、弥生になりそう。

 2月は大切な知人・友人の葬祭等、

あっちこっちへ、行ったり来たり。

 涙することも多かったが、病に伏

せることもなくいつもの元気で過ご

せた。有難いことだ。

 さあ、美人猫で今朝は正対す。



そして、芭蕉と子規参詣の地の札を見つける。



これは、芭蕉の句碑か、子規の句碑か。



芭蕉は、『おくのほそ道』に、

「日は山の端にかかりぬ。二本松より

右にきれて、黒塚の岩屋一見し、

福島に宿る。」

と記し

曾良旅日記では、曾良が、

「ソノ向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。

又近所ニ観音堂有。大岩石タゝミ上ゲタル

所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。

右の杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らん、

ト別当坊申ス。天台宗也。」

写実的に記している。

バックに映るは、黒塚と呼ばれる岩屋のお岩。

高さは観音堂の屋根まである。





地震も何のその?



安堵石あり。





胎内くぐりも。



見応え有り。

思わず合掌!!!


安達ヶ原の鬼婆伝説

2018-02-26 08:33:11 | 日記
安達ヶ原の鬼婆伝説

平成30年2月26日(月)

 「春よ来い 早く来い」

 今週中に「春一番の到来」の予報。

 平昌のオリンピックも、パラリンピックに

バトン。日本選手の活躍も凄かったね。

 最強に近い良きライバルがいることが、

メダルへの近道!?

 さて、黒塚観世寺にやっとの思いで

入路、参拝。





観世寺の由緒、観世音菩薩のについて

も知る。



そして、住職に「宝物資料館」に

案内される。



「鬼婆伝説」についてビデオ鑑賞となる。

 黒塚(くろづか)は、福島県二本松市

(旧安達郡大平村)にある鬼婆の墓、

及びその鬼婆にまつわる伝説。

 安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山

東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという

「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」

として伝えられている。

 黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の

名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すよう

になっている。

 能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の

『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』

もこの黒塚の鬼婆伝説に基く。



 神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・

東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が

安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、

一軒の岩屋に宿を求めた。

 岩屋には一人の老婆が住んでいた。

祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が

足りなくなったのでこれから取りに行くと

言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと

祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。

 しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて

奥の部屋をのぞくと、そこには人間の

白骨死体が山のように積み上げられていた。

 驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して

血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、

あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋

から逃げ出した。         

 しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、

祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿

となって猛烈な速さで追いかけて来た。 

 祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。

 絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から

如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に

お経を唱えた。

 すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を

放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえ

て射ち、鬼婆を仕留めた。

 鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きに

より成仏した。

 祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って

鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれる

ようになった。      

 鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音

(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰

を受けたという。

 その昔、岩手という女性が京の都の公家屋

敷に乳母として奉公していた。

 だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらに

して不治の病におかされており、5歳になっ

ても口がきけないほどだった。

 姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いた

いと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気

に効くという易者の言葉を信じ、生まれた

ばかりの娘を置いて旅に出た。

 奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を

宿とし、標的の妊婦を待った。

 長い年月が経ったある日、若い夫婦が

その岩屋に宿を求めた。

 女の方は身重である。ちょうど女が産気

づき、夫は薬を買いに出かけた。

絶好の機会である。

 岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い

掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を

抜き取った。

 だが女が身に着けているお守りを目にし、

岩手は驚いた。

 それは自分が京を発つ際、娘に残した

ものだった。

 今しがた自分が殺した女は、他ならぬ

我が子だったのである。

 あまりの出来事に岩手は精神に異常を

来たし、以来、旅人を襲っては生き血と

肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果

てたのだという。

これらの話を、宝物資料館で唯ひとり

映像で観ることになる。

 大昔からある「嬰児殺し」。今もそちこちで

不幸なことは起こっているが、心痛む話でもある。

 ややブルーな世界に導かれたよう。

 そして、黒塚へ。



これが出刃洗いの池





そして、鬼婆の石像がある所へ。



鬼婆だ。



可愛らしくもある?

きれいなシャム猫がしっかり寺番。



つづく。


不便な万札

2018-02-24 08:34:34 | 日記
不便な万札

平成30年2月24日(土)

 いつ頃からか、硬貨を持ち歩く習慣が

なくなった。

 500円玉がある時は一枚財布のポケットに

入れておく。

 ところが、万札の不便さを味わうこととなる。

 500円玉の持ち合わせもなし。

 そこは、二本松市観世寺前。

2017(平成29)年6月4日  13:51~



観世寺は、別名奥州安達原黒塚として、

鬼女伝説の霊場として名を馳せている。

観世寺に着いたが、生憎細かいお金の

持ち合わせがなく、釣り銭で困らせるのも

迷惑な話だと察し、門前から眺めることと

なる。

平兼盛の歌碑もある。



奥のほそ道300年記念板も掲示されている。



 ここまで来て400円の入場料で・・・。

 一万円札をくずすお店などを探す。

ちょっと歩くと、五重塔に導かれる。



商店は近くに見当たらず。

 どりあえず五重塔を参拝。





母子観音様にお参り。

子どもの幸せを祈る。



 五重塔の下の方に親子で楽しめる

安達ヶ原ふるさと公園があった。



 そこまで降りると、

きれいなアミューズメントみたいな

建物があった。

 幼い子どもたちのお土産物が置いて

あり、ちょっと面白そうなシャボン玉

セットがある。

 近所の子にあげればいいやと購入し、

入場料の400円を確保した。





つづく。

いざ露と寝ん草枕

2018-02-23 08:27:39 | 日記
いざ露と寝ん草枕

平成30年2月23日(金)

 晴れマークの予報が覆って、曇り。

ちょっと前に雪も降り。

 寒い、寒い・・・・・。

「境の裏の模様の梅は、ひっそりと

春の訪れを告げている。

人が見もしない春とでもいうべきで

あろう。」という芭蕉の句から露伴へ。

露伴亭の「露伴」に何かゆわくがある

のかなと入ったが、やはり勘は当たる。

 幸田露伴のペンネーム誕生の地となっ

た所が、亀谷だ。

北海道余市から文学を志し、

明治20年9月20日、汽車の旅で福島ま

で来る。

 汽車賃が足りなくなるので、郡山まで

夜半歩き続ける。飲まず食わずで

二本松へ。

 夜半になる。

亀谷坂で倒れ込み、こうもり傘を立て

て野宿。

 いつかのたれ死にする時はこんな状態

だろうと歌を口にする。 

「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」

と。

 その碑が道路沿いにある。



2年後、文壇にデビュー。

終生、この地で露と眠りこけたことを

忘れないようにと「露伴」と命名。

観音様にも守られたのだろう。

命名のいわれもわかり、

お店で「人参ジュース」をいただいた。

露伴についての説明板



露伴ペンネームゆかりの地

露伴の句碑



 人参色に染められて、露伴亭を後にする。