貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

親が子を思い、子が親を慕う

2019-05-31 08:49:22 | 日記

親が子を思い、子が親を慕う

令和元年5月31日

 青いシートが雰囲気を

疎外する最中の拝顔となる。

 折れて修正した碑には、

「父母の しきりに戀し 

    雉子の聲」

と刻まれている。

「己れ生ある間は、子の身に

代らんことを念い、

己れ死に去りて後は、子の身を

護らんことを願う」

(父母恩重経)

 高野山の静まり返った山中に

立って、雉子の声を聞く。

 その一声、二声が杉木立ちに

こだまして、その声に亡き父

亡き母を思い出す。

 親が子を思い、子が親を慕う

人の道は、父母恩重経の中にも

説かれているところ。

 瓢箪を模った施茶翁の塚碑は

珍しい。

 初物である。

 施茶翁とは江戸の医者で、本名は

羽佐間宗玄。

 彼は、俗世を遁れ芝愛宕町に閑居し、

雅号を瓢仙と称す。

 常にに瓢(ふくべ)を愛蔵し、人に

抹茶をたてるのが楽しみで施茶翁、

と称されたという。

「地獄いや極楽とても望みなし 

又、六道の辻で施茶翁」

 但し、塚といっても、供養された

ものは、茶筅や瓢。

 ほんと、昔、よく瓢箪を育て、

池などにつけ、中身を採って、

瓢箪飾りも作ったなあ。

 我が子が小学校へ入った頃

だったかな?

 父母恩重経とは、

「母の恩重きこと、天の極まり
なきが如し。
善男子、善女人よ、別けて之を説けば父母 
十種の恩德あり。」
として、ひとつずつあげる。  
 一には懐胎守護の恩。
 二には臨生受苦の 恩。
 三には生子忘憂の恩。
 四には乳哺養育の 恩。
 五には廻乾就濕の恩。
 六には洗灌不淨の 恩。
 七には嚥苦吐甘の恩。
 八には爲造悪業の 恩。
 九には遠行憶念の恩。
 十には究竟憐愍の 恩。 
 ちょっと難しいかな、私には?
 基本的なことはわかるが。

令和初の記念の日!

2019-05-30 08:54:32 | 日記

令和初の記念の日

令和元年5月30日

 今朝は、令和初の記念の日となる。

 咲き誇る薔薇とブラシの木!

 そして、令和初の多摩川の写真

 そして、読売新聞!

「つらい」ことから「たのしむ」。

そう、スポーツ文化の変遷!

 大好きな富士!不二!

 不二の孫、今朝誕生!!!

 息子からのメールと写真、

動画で、知らせ!祝砲!!!

 我が家の、令和初の記念日となる。

 ほんと、感謝あるのみ!

 これから子ども中心に新たな

家庭が創造されていく。

 幸多きことを祈念!!!

 大願成就の記念日かな!

 


将軍家斉からペリー

2019-05-29 09:13:05 | 日記

将軍家斉からペリー

令和元年5月30日

 嗚呼、皐月も晦日!

 今朝の風は、秋風の心地!

 続いた猛暑日と熱帯夜の為せる

わざかな?

 今朝も、平間寺。続き。

 戦国期に作成された『小田原衆所領役帳』

に「大師河原」の地名がみられるが、

ここにも漂着神の俤が推定できる。

 寛永5年(1628)、江戸の商人に

よって境内に「六字名号塔」が建立され、

慶安元年(1648)には、幕府から

6石の朱印を拝領する。

 降って寛政8年(1796)、将軍家斉が

訪れて厄除け祈願を行い、文政元年

(1818)御成門も造営される。

 幕末に日本を訪れたアンベールは、

「川崎にはいくつも寺があるが、

その中で立派なのは大師河原平間寺で、

日本のもっとも純粋な仏教建築の

一つに違いない」(『幕末日本図会』)

と記し、

 ペリーは「ずっと見えていた目標は、

川崎近くの寺院の塔で、そのあたりは

川崎大師河原と呼ばれる名だたる

盛り場であった」

(『日本遠征随行記』)と記している。

 芭蕉句碑は、この五重塔の近く。

 周囲の工事で、青いシートが雰囲気を

疎外する最中の拝顔となる。

 折れて修正した碑には、

「父母の しきりに戀し 

     雉子の聲」

と刻まれている。

 つづく。


二つの伝承

2019-05-28 09:12:24 | 日記

二つの伝承

令和元年5月28日

 昨夜は29.9度が、就寝前の

室温。暑いはず。熱帯夜?

 冷房を入れるが、寝付きは

いつものようにいかず。

 久し振りの異変?

 けさは、やっと平年の皐月気温。

一安堵!

 自然への適応が追いつけず。

 ある種の適応障害かな?

 さあ、やっとお参りできる

川崎大師へ。

 平間寺、「へいけんじ」というのも

初めて知る。

 大師線の大師駅で降りると、

 すぐに厄除門。

 商店街通りを進む。

 仲見世通り。お店も開店している。

 

  これは、大山門。

 四天王が・・・。

 

 五重塔だ。

 本殿、拝殿へ。

 初の参拝!

 平間寺は真言宗智山派の大本山で、

金剛山金乗院平間寺と称し、厄除

弘法大師または川崎大師として、

昔から庶民の厚い信仰を集めて

いる。

 縁起によれば、平安時代・大治3年

(1128)平(ひら)間(ま)兼(かね)乗(のり)を

名のる漁師が操業中弘法大師像を得、

持ち帰って一(いち)宇(う)を建立安置。

寺号を平間寺とし、開創。

 一方、『新編武蔵風土記稿』は、

下平間村に称名寺という寺院があり、

ある時同寺は真言宗から浄土真宗に改宗し、

このため従来の本尊が不用となった。

 そこでこれを多摩川へ流すと、

河口の漁師が拾いあげ、堂宇に安置

して寺号を旧地の村名をとり平間寺

とした、

との異伝を記している。

 この2つの伝承から、平間寺は

日本人が昔から持っていた民俗信仰

である海上漂着、または水上漂着の

神仏を祀るという素朴な信仰によっ

て成立したこと、

有力な貴族・武士などによって

造営された寺院ではなく、地元の

漁師などによって支持され、地域に

結びついた庶民信仰の寺院である

という特徴をうかがうことができる。

 


一種と梅室の協同

2019-05-27 08:52:12 | 日記

一種と梅室の協同

令和元年5月27日

 昨夕の大相撲は、新にアメリカの賜杯

が追加。

 初優勝の朝乃山がアメリカの大統領

から賜杯が授与される光景は、微笑ま

しく、印象深いものとなった。

 今朝も八丁畷駅前。

 

 野ざらしではない芭蕉句碑。

 芭蕉句碑のみアップ!

 元禄7年(1694)5月、江戸に

住んでいた芭蕉は、子の治郎兵衛

と共に郷里の伊賀へ旅立つ。 

 芭蕉との別れを惜しむ江戸の

門人の利牛、野坡、袋水は

多摩川を渡り、川崎宿まで

見送りにきて八丁畷の榎だんご

という店で最後の別れをかわす。

 この時、芭蕉が詠んだ句が、

「麦の穂を たよりにつかむ

      別れかな」

 芭蕉が亡くなってから130年後

の文政13年(1830)8月、

俳人一種が桜井梅室(天保の三大

俳家)に揮毫してもらい、

麦の穂の句を八丁畷に建立した

という。

 至極貴重なもの。