貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

江東区: 深川の萬年橋 ケルンの眺めに似た橋!

2024-08-31 10:22:58 | 日記
令和6年8月31日(土)
江東区: 深川の萬年橋          
 深川萬年橋でちょっと休憩。

 いろいろな資料が橋の袂にあり。  
 ドイツのケルンの眺めに似た橋
を架ける。
 
 ケルンを想像しながら
眺めるとまた違った趣。


 川沿いを歩くと、
すぐ近くに目的地の展望庭園がある。
 階段を上がると、庭園だ。
 丁度開園時刻で、
女性の方が、
「今開けますよ。」
と声をかけてくれる。
「毎朝夕の開け閉めで、
○年になります。」

 後でわかったのだが、
芭蕉記念館にお勤めの方で、
自転車で開閉に来ておられるのだ。
感謝あるのみ!


『おくのほそ道』とは?

2024-08-30 10:16:55 | 日記
令和6年8月30日(金)
 ところで、『おくのほそ道』とは、何か。
 まず、奥羽の旅、

日光・白河・松島・平泉、尾花沢・
出羽三山・坂田・象潟。
 次いで、北陸の旅、
出雲崎・金沢・福井・敦賀。
 八月二十日過ぎに、大垣、
ここに九月六日まで滞在。
 上に書き連ねた所が、
『おくのほそ道』の舞台である。
 『おくのほそ道』は、
俳諧紀行の体裁を取っている。
 日記風の散文と、
その場で詠んだ俳諧とが
互いに寄り合って、
独特の表現力で迫ってくる。

 芭蕉の俳諧が
できあがっていく過程を知るには、
格好の文献でもある。
 我がまとめの目次からも
道程が・・・・!
1 深 川 ・・・・・
2 草  加  ・・・・

3 春日部 ・・・・・
4 小 山 ・・・・・
5 栃木・矢板 ・・・
6 日 光 ・・・・・
7 大田原 ・・・・・
8 殺生石 ・・・・・
9  白 河 ・・・・
10 須賀川 ・・・・
11 郡 山 ・・・・
12 二本松 ・・・・
13 福 島 ・・・・
14 白 石 ・・・・
15 名 取 ・・・・
16 仙 台 ・・・・
17 多賀城 ・・・・
18 松 島 ・・・・
19 石 巻 ・・・・
20 登 米 ・・・・
21 平 泉 ・・・・
22 一 関 ・・・・
23 大 崎 ・・・・
24 尾花沢 ・・・・
25 山 形 ・・・・
26 鶴 岡 ・・・・
27 にかほ ・・・・
28 酒 田 ・・・・
29 村 上 ・・・・
30 胎 内 ・・・・
31 新 潟 ・・・・
32 弥彦・出雲崎・・・・
33 長岡・柏崎 ・・・・
34  上 越 ・・・・
35 糸魚川 ・・・・
36 滑 川 ・・・・
37 富 山 ・・・・
38 射水・高岡 ・・・・
39 小矢部・金沢 ・・・・
40  小 松 ・・・・・
41 加 賀 ・・・・
42 あわら・坂井・・・・
43 福 井 ・・・・
44  敦 賀  ・・・・

45 大 垣 ・・・・



住み替わる芭蕉庵と千住大橋から出立!

2024-08-29 10:52:45 | 日記
令和6年8月29日(木)
草の戸も 
  住替る代ぞ 
    ひなの家
 さて、この句。
 この草庵の人の住み替わる時となり、
これからは雛飾りのある
賑やかな家になるであろうな、
の意。
 奥州への旅のために
芭蕉庵を手放し、
一切が変転することを
感得しての吟で、
本文冒頭の
「月日は百代の過客にして・・・」
に呼応する。

 三月二十三日付
落梧宛書簡等の
中七「住かはる代や」が初案。

 同書簡に、
「衣更着末草庵を人にゆづる。
此人なん妻をぐし、
むすめをもたりければ、
草庵のかはれるやうおかしくて」
とあり、
実際に華やかになった様を見て
の作とわかる。
 一方、
紀行本文には、
「住る方は人に譲り、
杉風が別墅に移るに」
として載り、
そこではこれからの変貌を
予想した句となる。
 「弥生も末の七日。
あけぼのの空朧々として、
付きは有明家手、
光をさまれるものから、
富士の峰かすかに見えて、
上野、谷中のはまのこずゑ、
またいあつかはと心ぼそし。
 うつまじきかぎりは
宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
 千住といふところにて
舟をあがれば、
前途三千里の思ひ胸にふさがりて、
幻のちあたは離別の涙をそそぐ。
行春や 
  鳥啼魚の 
    目は泪
これを矢立のはじめとして、
行く道なほ進まず。
 途中にたちならびて、
うしろかけの見ゆるまでは
と見送るなるべし。」
 さて、元禄二年(1689)
三月二十七日の早朝に
旅が開始された。
 門人の曽良を供として出立し、
見送りに来た人々とともに、
舟で千住まで行って別れた。


 前途には三千里もの道中が
予定されており、
上野や谷中の花とも別れて、
いささか心細い気持ちでの
出立であった。

 この文章、
はじめは威勢のよい美文だが、
終わりにくると、
別離の寂しさで、
元気がなくなってくる。
と、師匠は語る。
行春や 
  鳥啼魚の 
    目は泪
と、添えた一句の意味も
涙と心細さである。
 鳥は泣き声で叫び、
魚は泪を流し、
行く春を惜しんでいる。
けだし、別離の悲しさである。

 無事の踏破を祈る!


『おくのほそ道』の書き出し!出立前も今風に!

2024-08-28 10:19:11 | 日記
令和6年8月28日(水)
『おくのほそ道』の書き出し!
 歌に合わせて、
やっとの思いで暗誦!
「月日は百代の過客にして、
行きかふ人もまた旅人なり。
 舟の上に生涯を浮かべ、
馬の口とらへて
老ひを迎ふる者は、
日々旅にして
旅を住みかとす。
 古人も多く旅に死せるあり。
 予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて、
漂泊の思ひやまず、
海浜にさすらへ、
去年の秋
江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、
やゝ年もくれ、
春立てる霞の空に、
白河の関越へんと、
そぞろ神のものにつきて
心を狂はせ、
道祖神の招きにあひて
取るもの手につかず、
股引の破れをつづり、
笠の緒つけかへて、
三里に灸すゆるより、
松島の月まず心にかかりて、
住めるかたは人に譲りて、
杉風が別墅に移るに、
<杉風の別墅>


草の戸も 
  住替る代ぞ 
    ひなの家
 表八句を庵の柱に掛けおく。」
 この原文を今風にすると、
「月日は永遠の旅人であって、
行く年も来る年も、
李白の言うように
百代の旅人なのだ。
 舟の上で一生を送る船頭も、
馬の口を牽いて暮らしていく馬方も、
毎日が旅であって、
旅を住処にしているようなものだ。
 昔の人で名のある人たち、
能因・西行・宗祇・杜甫・李白
なども旅先で死んでいった。
 予も何歳の時からか、
小さな雪が風に乗って
飛んでいくのをうらやみ、
漂泊の望みが絶えず、
『笈の小文』の旅のように、
海辺をさすらい、
去年の秋、
川辺のあばらやの
蜘蛛の古巣を払って、
やがて年の暮れ、
春になって、
霞の空を見る頃には、
浮かれ神が身辺に取り憑いて、
心を浮き立たせ、
道祖神の旅の誘いに遭って、
何事も手につかず、
股引の破れを縫い合わせ、
笠の緒を付け替え、
健脚になるという
灸点の三里に灸を据え、
最高の名所松島の月が見たくて、
心が焦り、
住んでいた庵は人に譲り、
弟子の杉風の別宅に
引っ越して一句詠んだ。

草の戸も 
  住替る代ぞ 
    ひなの家
 娘や孫のいる人に
庵を譲ったので、
やがて雛を飾っている家になるだろう?
という連句の発句を
庵の柱に掛けておいた。
 さて、この句。
この草庵の人の住み替わる時となり、
これからは雛飾りのある
賑やかな家になるであろうな、
の意。
 元禄二年(1689)の作である。

 芭蕉の決死の覚悟、わくわく感や
ドキドキ感が見事にまとめられている。

芭蕉の古径が、ぼくの細道へ!

2024-08-27 10:52:06 | 日記
令和6年8月27日(火)
 蔵書の終活中、
『A HIKE JOURYRY』
『笈の小文・野ざらし紀行』
が出てきたこと、
 学生時代に義仲寺を好んだこと、
深川に新居を構えたこと、
 伊勢の産と
いう諸々の共通の要素に加え、
漂泊癖のある自分と
破れバショウの重なりが、
車での異時代体験を後押しする。
 「蕉道」の始まり、始まり!
「月日は百代の過客にして、
行かふ年も又旅人也。・・・
日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。」
「そゞろ神の物につきて
 心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひて
取もの手につかず・・ ・・・・」
 早速かつて住んだ深川に行く。
隅田川沿いにある芭蕉記念館を
手始めとし、
『奥の細道』の紀行通り、
行程を進めることにする。
 その後、もう一度
芭蕉の歩いたおくの細道を
味わうことに・・・。
 芭蕉の散文が日本語の表現として、
如何に優れて、
如何に美しいかと体験。
~つづく。