貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

塩釜市: 塩竈神社・志波彦神社①陸奥国一宮に式内と式外の二社!そして絶景!!!

2025-01-31 15:12:54 | 日記
令和7年1月31日(金)
塩釜市: 塩竈神社・志波彦神社①    
<鳥居>

 志(し)波(わ)彦(ひこ)神社・
鹽(しお)竈(がま)神社は、
宮城県塩釜市にある神社
(二社が同一境内に鎮座)。
<社殿>

 志波彦神社は
式内社(名神大社)。
 鹽竈神社は
式外社、陸奥国一宮。
  鹽竈神社は、
全国にある鹽竈
(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)
神社の総本社。
 塩釜市北西部の一森山に鎮座し、
古来より東北を鎮護する
「陸奥国一の宮」
として崇敬を集めている。
 境内の広さは
28ヘクタールに及び、
神社の杜は、
室町初期に植えられた
樹齢六百年の杉の木を筆頭に、
相当数の樹木で
緑の生活が営まれている。
<志波彦神社随身門>

 同じ山内の
志波彦神社の境内に立てば、
塩釜の浦の絶景を
一望することができ、
<ご神木の杉>

 晴れた日は、
遥か遠くの牡鹿半島や金華山
まで見渡すことができるという。

 「八百八島」
と形容される日本三景・松島
の半分以上の島が
塩釜市に含まれることから、
この一森山からであっても、
十分に湾内の眺望を楽しむことができる。
<歌柱>
~つづく。


多賀城市: 寶 国 寺 芭蕉や子規、そして鉄幹も!

2025-01-30 14:09:57 | 日記
令和7年1月30日(木)
多賀城市: 寶 国 寺          
 末の松山の麓にあり、
「末松山」の山号を有す。 
<寶国寺入り口>

 初めは隣障寺と称したが、
出羽国から当地に移り住んだ
天童頼澄の法名から
寶国寺と改め、
天童氏の菩提寺となる。
<本殿>

 『奥の細道』本文に、
「松のあひあひ皆墓はらにて、
はねをかはし枝を
つらぬる契の末も、
終はかくのごときと、
悲しさも増りて、
塩がまの浦に
入相のかねを聞。」
と綴られている。
<建立句碑と歌枕の説明>

 曽良は、
「末の松山」について
「塩カマノ巳午ノ方三十丁斗。
八幡村ニ末松山寶国寺
ト云寺ノ後也。
 市川村ノ東廿町程也。
仙台ヨリ塩カマヘ行ハ
右ノ方也。
多賀城ヨリ見ユル」
と、名勝備忘録に記している。

<末の松山と芭蕉などの説明>

 後に、
正岡子規や与謝野鉄幹なども
訪れている。


多賀城市: 沖 の 井(石)歌枕の井一周!

2025-01-29 14:12:34 | 日記
令和7年1月29日(水)
多賀城市: 沖 の 井(石)          
 直径約20メートル
岩が連なる池で
住宅地に陣取っている。
<住宅街で大切にされている沖の石>

<沖の井の奇石と松>

 説明板によると、
「今もって池の中の奇石は
磊磊(るいるい)とした姿を
とどめており、
古の情景を伝えている。
 元禄2年5月8日、
芭蕉と曾良はこの地を訪れる。
 四代藩主伊達綱村の時代には、
仙台藩により名所整備が行われ、
手厚い保護を受けていた」
と。
「わが袖は 
  しほひにみえぬ 
   おきの石の 
    人こそしらね 
     かわくまぞなき」
という
二城院讃岐の歌(千載和歌集)。
<沖の井の歌枕などの説明>

 そして、
小野小町(古今和歌集)の、
「沖のゐて 
  身をやくよりも 
   かなしきは 
    宮こしまべの 
     わかれなりけり」
の歌などで知られ、
歌枕の地としても
有名となっている。
<沖の井一周>

 ここは、
二度目の訪問。



多賀城市末の松山②貞観地震が末の松山の意味を生みだす!

2025-01-28 13:44:32 | 日記
令和7年1月28日(火)
多賀城市末の松山②
 しかし、
どうして「末の松山」と「波」は、
一緒に詠まれているのだろう?
<古今和歌集東歌碑>

実は、869年(貞観11)、
陸奧国で大地震が発生し、
多賀城の国府のそばまで
大津波が襲ったという
貞観地震。
 多賀城政庁の建物が壊れ、
千人以上の犠牲者が出る。
 標高10メートル程の
小山の末の松山の麓まで
津波が押し寄せたそうだが、
山を飲み込むことはなく、
無事だった。」
という記録が残っている。
<おくのほそ道の説明も>

 そのことから、
「末の松山」は、
決して波が越すことのない場所、
契りや約束を表す言葉として
詠まれるようになったのだ
といわれている。
<歌碑の説明碑>
 現在の二本の黒松は、
推定樹齢480年である。
<二本の黒松>

 名勝「奥の細道の風景地」
の二つ目を、前回見逃したので、
今回堪能。 
<末の松山碑と説明>

 壷の碑の管理事務所の方が
下さった資料のお蔭である。
 有難し!
 名勝「奥の細道の風景地」
の三つ目の、
 「沖の井」は、
すぐ近くにある。



多賀城市: 末の松山① 歌枕の地の有名な歌!さて?

2025-01-27 14:09:06 | 日記
令和7年1月27日(月)
多賀城市: 末の松山  
<沖の井の方から末の松山>
    
 多賀城には、
坂上田村麻呂や
万葉歌人である大伴家持らも
派遣されている。
 また、平安時代には、
風流を愛する都人が
「歌枕の地」として憧れ、
地名を詠み込んだ和歌を
たくさん作っている。
<末の松山の黒松>

 ここは、多賀城市八幡地区、
歌枕の地「末の松山」。
 有名な歌は、
小倉百人一首の、
清原元輔の歌、
「契りきな 
  かたみに袖を 
   しぼりつつ 
  末の松山 
   波越さじとは」 
      (後拾遺集)。
「約束しましたよね。
涙に濡れた着物の袖を
絞りながら。
 末の松山を
波が越すことなど
あり得ないように、
私たちの心も
決して変わらない」
という意。
<末の松山の句碑と説明>

 しかし、
どうして
「末の松山」と「波」は、
一緒に詠まれているのだろう?
~つづく。