貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

亀谷観音堂と幸田露伴のつながり

2022-08-31 14:33:51 | 日記
令和4年8月31日(水)

  露伴亭の「露伴」に
何かゆわくがあるのかなと入ったが、
やはり勘は当たる。

 幸田露伴のペンネーム誕生の地
となった処が、
「亀谷」。
 北海道余市から文学を志し、
明治20年9月20日、
汽車の旅で福島まで来る。
 汽車賃が足りなくなるので、
郡山まで夜半歩き続ける。
 飲まず食わずに二本松へ。 
 亀谷坂で倒れ込み、
こうもり傘を立てて野宿。
 いつかのたれ死にする時は
こんな状態だろうと歌を口にする。
「里遠し 
   いざ露と寝ん 
        草まくら」
 と。
 2年後、文壇にデビューする。
 終生、この地で露と眠りこけたことを
忘れないようにと、
「露伴」と命名。

 観音様にも守られたのだろう。
 命名のいわれもわかり、
お店で「人参ジュース」をいただいた。
 千手観世音も御詠歌、
「そのかみは 
  いくよへぬらん 
      かめがいの 
   せんじゅのちかい   
       たのもしきかな。」
と口ずさみ、

この地を後にした。
願掛けなでなで地蔵



露伴亭傍の亀谷(かめがい)観音堂参拝!

2022-08-30 11:47:28 | 日記
令和4年8月30日(火)
二本松市: 亀谷(かめがい)観音堂  
 目的地に到着したが、
駐車場が見つからず。
 峠を行ったり来たり・・・・・。

 幸田露伴の露伴亭の駐車場があるので、
取りあえず停車。

 お店の人と話をすると、
「ここに停めて観音堂へどうぞ。」
と勧められる。
 手作りのお店のようだ。

 焼き物などもあちこちにあり、
帰りに楽しんだ。
 取りあえず、観音堂へ。

 参拝後、芭蕉句碑へ。

「人も見ぬ 
   春や境の 
     うらの梅」
が芭蕉の句。
                                                               「境の裏の模様の梅は、
ひっそりと春の訪れを告げている。
人が見もしない春とでも
いうべきであろう。」
と説明板には、解釈されていた。



神仏分離・廃仏毀釈のあおり

2022-08-29 13:43:35 | 日記
令和4年8月29日(月)
30番 高知市: 善 楽 寺        
 善楽寺は、
土佐国一宮の別当寺として、
大同年間(806~810)に
弘法大師によって開創された。

 土佐神社の別当寺には、
神仏習合の寺院として
善楽寺とともに神宮寺という寺もあり、
土佐の豪族であった
長宗我部元親公の帰依篤く
法灯を維持してきた。
 もともとはこの神宮寺が
四国霊場の第三十番札所だったという。
 だが、明治の初めに、
神仏分離・廃仏毀釈のあおりを受けて、
神宮寺と善楽寺は相次いで廃寺になってしまう。

 この時、本堂の阿弥陀如来像、
大師像、寺宝などが
第二十九番札所国分寺にへ預けられた。
 そして、明治九年(1876)神宮寺と善楽寺より
一足早く復興した安楽寺に本尊が移され、
公許を経て、
第三十番札所として安楽寺が代行業務を始めた。
 しかし、昭和四年(1929)には、
一宮在住の信者らの手により
旧別当寺医院跡に善楽寺が再興され、
国分寺から大師像、寺宝を迎えた。
 その後、二ヶ寺で納経ができるなど
混迷の時期を迎えたが、
平成六年(1994)一月元旦を以て
善楽寺が第三十番札所の奥の院と決まった。
 境内の奥にある本堂は、
昭和五十七年(1982)に改築された。

 その左隣には、修行大師像の姿があり、
大正時代に建立された大師堂も建っている。
 境内の梅見地蔵は、
文化十三年(1816)に造られ、
学業成就や目・耳・鼻など首から上の病の
平癒祈願の信仰を集めている。
 また、境内には、「子安地蔵尊」があり、
弘法大師作と伝わる地蔵尊が祀られている。

土佐神社も参拝!




安積山 芭蕉の古径満喫!

2022-08-28 09:35:11 | 日記
令和4年8月28日(日)
 花かつみは、幻の花。
 明治9年6月17日
明治天皇の東北巡幸の折、
日和田の安積山の麓、
横森新田のご休息所で、
花かつみを
「菖蒲に似て最(いと)些小(ちいさ)き花」
なるヒメシャガを花かつみとして
天覧に供する。

 以降、「ヒメシャガ」が「花かつみ」となる。
 
 芭蕉の小径には、

奥の細道の石碑がある。

 曾良が記したものが刻印されている。
 
 
 芭蕉の小径をいったん下り、
安積山公園の入口を出て、
また戻る。 

 天気にも時候にも恵まれ、
芭蕉の小径を登ると、
気分爽快。
 疲れも吹っ飛ぶ。      
 もう一度花かつみの株に寄り添い、
じっくり愛でる。
 満喫後、駐車場へ。 

 土日や休日には、
市民のいい憩いの場所だなあと、
その整備にも感心する。


あさかの山の はなかつみ?

2022-08-27 10:51:23 | 日記
令和4年8月27日(土)
郡山市日和田町: 安積山公園   

 野球場があり、丁度試合開始!
ちょっと観戦。
 皆さん高校などで本格的にやって
いたようで、見応えがある。
 0対0のまま3回ぐらいまで
観ていたが、お腹もすいてきたので、
頂上付近で昼食とする。

 その後、芭蕉の小径を下る。

 花かつみの表示を見つける。

 花かつみは、芭蕉と曾良が、
郡山に着いた時、必死にこの花を
探し求める。
 しかし、土地の人も分からず
残念無念の日々をおくったという花。
 花かつみという花は、
ヒメシャガのこと。

 芭蕉達がこの花を探した動機は、 
『古今和歌集』にある。     
「みちのくの
  あさかのぬまの
        花かつみ 
  かつみる人に 
      恋ひやわたらん」
という歌が起因。

 歌の意味は、
「みちのくの安積の沼の花かつみの名の、
かつみというように、
かつがつに不満足ながら、
ともかくも、ちょっと逢ったばかりの人
なのに、恋しく思って、
永く月日を暮らすことであろうか。」
 この歌により、
「花かつみ」は陸奥国の安積の沼の名物となる。
 多くの歌にも詠まれるようになったと
いう経緯。
『奥の細道』には、
「等窮が宅を出て五里斗、
檜皮(ひはだ)の宿を離れてあさか山有。
 路より近し。
 此あたり 沼多し。
かつみ刈比もやゝ近うなれば、
いづれの草を花かつみとは云ぞと、
人々に尋侍れども更知人なし。
 沼を尋、人にとひ、
かつみかつみと尋ねありきて、
日は山の端に かゝりぬ。」
と記されている。

 どうも花かつみには、
古より諸説があり、
幻の花とされていたようだ。

 そして、明治9年6月17日、
明治天皇の東北巡幸の折、
日和田の安積山の麓、
横森新田のご休息所で、
花かつみを
「菖蒲に似て最(いと)些小(ちいさ)き花」
なるヒメシャガを花かつみとして
天覧に供する。

 以降、
「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、
昭和49年、郡山市の花に制定される