貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

やっぱり平仮名!

2021-03-31 15:35:28 | 日記

やっぱり平仮名!

令和3年3月31日(水)

 弥生三月も大晦日。

 明日から新たな月、新たな年度

となるところも多い。

 先週末に、兄が大腸の検査に行き、

即入院となり、急遽横浜へ。

 着替えなど用意し、家の中も

退院後快適に過ごせるよう、

換気、戸締まり、お風呂の掃除など

して、入院先へ。

 血便もなく、食事も五分粥、

明日一日不整脈の検査をして何とも

なければ、退院とのこと。

 ちょっと安堵!!

 芭蕉の尊敬する仏頂和尚の最期の

庵を訪れての、 初句は、

 木啄も 

  庵はくらはず 

      夏木立

   深い夏木立の中にあっても、

尊い坊さんの庵は壊して中の虫を

食べてしまうこともないという

ことだ。

 「くらはず」では、ちょっと品が

ないかな。

   そこで、

 木啄も 

  庵は破らず 

     夏木立

 とする。

 しかし、「破らず」もちょっと

乱暴な感じ。

木啄も 

  庵はやぶらず 

     夏木立

 「破らず」を「やぶらず」と

平仮名に変える。

と、柔和でぴったし。

最終句となる。


一所不住の雲水の身の不本意な没居

2021-03-25 16:18:18 | 日記

一所不住の雲水の身の不本意な没居

令和3年3月25日(木)

木啄も 

  庵はやぶらず 

     夏木立

   元禄二年作。

 寺をつつくという木啄も、

この庵はつつかず壊さなかった

とみえ、夏木立の中にその姿を

保っている。

   この庵は、芭蕉の尊敬する仏頂和尚が

かつて住んだ庵。

 仏頂和尚は、深川臨川寺に逗留。

臨川寺へ芭蕉はよく出向き、教えを

受けた和尚さん。

 仏頂和尚の徳のためか、木啄も

この庵は遠慮をしたか。

 『おくの細道』紀行本文に

「当国雲岸寺の奥おくに

仏頂和尚山居跡あり」

とある。

 正しい寺名は「雲巌寺」。

 芭蕉の描く啄木鳥は、

夏から秋にかけて、巣作りではなく、

樹木に穴を開けて虫を食べるのだ

と解説書で知った。

 すると、庵の材木は腐っていて

虫の栖になっていたのだという

わけだ。

 仏頂和尚の庵は壊れやすいもので、

和尚の和歌に、

「堅横の 五尺にたらぬ 草の庵

 むすぶもくやし 雨なかりせば」

というほど小さなものであったらしい。

   初句は、

 木啄も 

  庵はくらはず 

      夏木立


三日月の美しさ

2021-03-24 16:31:06 | 日記

三日月の美しさ

令和3年3月24日(水)

初句は、

 有とある 

  たとへにも似ず 

     三日の月

   これは、多くの見立てを詠んでみた

後で、芭蕉が思わず吐く哀しみの句。

   いろいろなたとえ句を作ってみたが、

三日月の美をすこしも言い当てていない

という吐息である。

 現在夜空に上がっている三日月は、

見立てに少しも面白味もなく、

この下手くそな俳人達よと、

笑っているのではないかという

反省の句である。

ありとある 

  見立てにも似ず 

     三日の月

   これは、門人の知足に出した手紙に

急いで告白した句であるらしい。

 勉強のために多くの先人の句や和歌を

検索してみたが、どの作品も駄目だ。

 必ず作り直してみせるという宣言か。

 平静に表現する手法を選択、

最終句となる。

 何事の 

  見たてにも似ず 

     三かの月

   貞享五年(1688)尾張円頓寺での作。

濃尾平野の北に位置する高台の寺。

眼前には、猶美しく満天の星も

あったであろう。


三日月は見立てではなし

2021-03-23 16:14:11 | 日記

三日月は見立てではなし

令和3年3月23日(火)

   三日月は「見立て」即ち「なぞらえ」

によって俳句・和歌・戯作に表現

されることが多い。

 それが満月のように、

それ自体で、全てが光り輝き、

周囲の景色にそれを中心におく

事象との差である。

   三日月は日暮れてまだ昼の名残

のある時刻に空にかかるので、

見立て表現に使われて

周囲を引き立てる役目を

自らに背負わされやすい。

 それでも、私は三日月が大好きで、

三日月を見る度癒やされ、

強い安堵感を感じる。

 さて、芭蕉の三日月の句。

 何事の 

  見たてにも似ず 

     三かの月

    これは、三日月の特徴を

余すところなく言い当てている句。

   三日月の風趣は、三日月だけのもの。

何の見立てもしっくりこないという意。

 表現が見たてによることが

実は、三日月の本質ではなく、

むしろ三日月にいろいろ奇抜な見立

てをして喜んでいる俳人への戒め

としている感あり。

 三日月は、普通、釣り針、利鎌、舟

などに見立てられることが多い。

  例えば、

「鉤針や 

   月にさへかゝる 

        三日の月」

とか、

「天のはらの 

   草かり鎌か 

       三ケの月」

 貞享五年の作。

  初句は、

 有とある 

  たとへにも似ず 

     三日の月

流石 俳聖なり。


子規もほととぎす

2021-03-22 16:39:15 | 日記

子規もほととぎす

令和3年3月22日(月)

落くるや 

  たかく宿(しゆく)の 

     郭公(ほととぎす)

 前書に

「みちのく一見の桑門、同行二人、

那須の篠原を尋ねて、猶殺生石みんと

急侍るほどに、あめ降り出ければ、

先此処にとゞまり候」

とある。

 元禄二年作。

4月16日から二泊した庄屋宅での

挨拶吟。

 高久の宿だけに高い空から

時鳥の高い声が落ちてくることだ、

の意。

   普通は、「同行二人」というのは、

四国巡礼のように弘法大師と二人で

あるの意であるが、

此処では、曽良と二人で旅している

ということ。

 明日温泉の高久の里の殺生石を

見ようとして道を急ぐうちに、

天高く鳴いていたほととぎすが

急に落ちてくる気がしたと

いうのである。

 この鳥の高い声が高い天から落ちて

くるという出来事と、

殺生石の高久の里とをかけて、

死んだ鳥の落ちてくる様子の

三つを掛け持ちさせている。

  曇った日、雨の日に鳴く

ほととぎすの血を吐く声を、

「人生無常の象徴」にしている。

  梅雨時の雨の中で、

鳴いている鋭いほととぎすの声は、

いろいろな人に死期を知らせると

思わせる。

 芭蕉はこの一句に、人生の終末を表現

していたのだろうか。

 正岡子規の「子規」も「ほととぎす」。

結核で血を吐く自分に

「子規」という号をつけ、

「死期」の近い自分を表現していた

ことも、今回理解する。

 初句は、

 落来るや 

  高久の里の 

    ほとゝぎす

   これでもいいのでは?

しかし、高久の里という地名を出すと

場面が限定され狭くなる。 

 天が雨を降らし、ほととぎすの命も

雨とともに落ちてくるという、

「たかくの宿」という宇宙的なひろがりが

失われてしまうという感じもする。

 おそらく芭蕉はその狭隘さを嫌った

のであろう。

と師匠(?)は語る。

 奥が深い!