何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

可愛さ

2019-08-01 18:10:17 | 詩はあいまいな哲学

なぜ人は人に惹かれるものかというと、自分にない魅力を補完して
時間や場を共有することで自分をもっと好きになりたいからだと思う。

転生を信じる仏教徒が大多数のタイでは
地位が高いひとは前世で徳を積んだ結果なので
地位が普通かそれ以下であると前世での善い行い、魂の徳がまだ足りてない。

これは地位の高い人、お金持ちとかに「嫉妬しては罰がある」ということになるので
今後の人生に更なる困難を回避したければ逆らわないことである。

可愛いという表現は、その対象を認め価値を高めるために表すのだけれど
「その価値を見出した私はさらに上を行く可愛さがあります!」
という尊大な自己主張なのである。
ไม่รักก็ปล่อย(Delete) - CookieCutter「Official MV」







何を可愛いとするかは個人の裁量と趣味判断で
素直に人の話を聞いてリアクションの良さから
互いが歩み寄り噛み合わせを矯正して行けて
咀嚼力をつけている様子が自分の懸念を払拭して成長する事のようで
固い大地のような頭の前髪を搔き上げ透明化された知性に見とれたり、
細い肩と腕で掴んだ何かが沈黙理に求めるものがあったり同情してたり。

「強くなれるように、優しくなれるように
君にも同じ孤独をあげたい。(宇多田ヒカル:FOR YOU)」

そういう仏の心からすると可愛いは「まだ私の方が勝っている」
という癒しであり、対等な相手への礼儀ではない。

やたらと「可愛い」を連発するのは
自分可愛さばかりの弱い人間であることの表明である。
では、可愛く思わなければいいのかというと

可愛くないものは可愛くないだけである。
コメント
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