時事解説「ディストピア」

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日本の右傾化について

2014-12-11 23:43:16 | 反共左翼
現在、白宗元氏の『検証 朝鮮戦争』とブルース・カミングス氏の『朝鮮戦争論』を読んでいる。

どちらも非常にスリリングな内容で読み応えがあるが、
特に白氏の著作は、北朝鮮の南侵論の根拠となる史料を丁寧に批判し、
開戦時の状況が未だに定かではないことを指摘しており、
この戦争に関する研究が未だに途上であることを感じさせる。


例えば、北朝鮮がスターリンに唆されて開戦した根拠の1つである
フルシチョフの回想録が、実は回想録ではなく、過去の発言を
アメリカのメディアが編集したものであったこと、その内容も矛盾点が多く、
史料として活用するには、やや力不足であることを「暴露」している。


ここで「暴露」とカギカッコ付きで表現したのは、
それだけ専門家であるはずの学者がこの点について無視していることを皮肉りたいからだ。


実際、朝鮮戦争については、極力、アメリカ(国連)の侵略性を
緩和させようとしているのではないかと思わせる記述が多い。


例えば、和田春樹氏の『これだけは知っておきたい 日本と朝鮮の100年史』だが、
同書では、一応、アメリカ側の批判もしているが、実は国連軍の日本への駐留を認め、
朝鮮有事の際には日本から出撃する権利を保障する国連軍地位協定が現在も有効であり、

横田、座間、横須賀、佐世保、嘉手納、ホワイト・ビーチ、そして普天間の七基地が
国連軍の基地でもあり、国連軍の旗が掲げられ、イギリスやオーストラリアなどの
朝鮮戦争参戦国の軍が日本政府との協議なしに自由に出入りしている
という
肝心の事実が記されていない


白氏は国連軍地位協定について
これらの事実は、朝鮮戦争は日本でもまだ終わっていないことを示している。
 停戦協定が平和協定に転換され朝鮮に平和が訪れない限り、
 朝鮮戦争はいつまでもこのような形で日本に不安な影を落としているのである。

とコメントしている。



和田氏の
「日本人は朝鮮戦争における朝鮮半島の人々の苦しみ、悲しみに無関心で、
 その戦争からもっぱら利益を得ました。

 それでも日本がその戦争に主体的に戦争に参加しなかったのはよかったことだと考え、
 将来をめざして、隣国の平和のために何ができるかを考え抜くことが必要だと思います」
というコメントと白氏のそれを読み比べてほしい。


他方は、日本の米軍基地が未だに存在する理由の一つには、
朝鮮戦争時に結ばれた協定が法的効力を未だに保っているからだと指摘し、
日本の平和(軍縮、米軍撤退)には朝鮮の平和(終戦条約の締結)が必要だと述べ、

もう他方では、日本は確かに朝鮮人に無関心で利益を得たが、
「それでも」主体的に参戦しなかったことは良かったと評価し、
隣国の平和のために何ができるかを考えることが必要だと結論付けている。


どちらが、より具体的で深刻な問題点を指摘しているかは言うまでもない。


そもそも、和田氏は朝鮮戦争が過去の惨事であるかのように述べ、
現在も継続中の問題なのだという白氏とは対照的な受け取り方をしている。


残念ながら、和田氏が朝鮮戦争を過去の教訓として矮小化し、
そのついでに「日本は悪いこともしたが良いこともした」という
右翼お得意の責任逃れを行っているのは明白だ。



白氏は朝鮮大学の歴史学者であり、総連の中央副議長を歴任した人間で、
和田氏は東京大学の名誉教授であり、ソ連史・北朝鮮史の権威で有名な社会運動家でもある。


客観的に見れば、和田氏のほうが実績も社会的地位もあるはずなのに、
両者が述べる見解になぜ、かくも大きな落差があるのだろうか?


悪の巣窟である総連の元・中央副議長のほうが
東大名誉教授でソ連史・北朝鮮史の権威、ヘイト・スピーチにも反対姿勢を取る
「良心的な」市民運動家よりも遥かに優れた意見を述べ、
後者が結果的に読者が日本に現存する問題点に気づきづらくさせるのは何故なのか?


結論から述べると、両者の違いは容共か反共かという点にある。


先日述べた白鳥事件有罪説が日本の左翼によって展開されていること、
慰安婦問題についても、向こうの右翼的言説を朝日新聞社が広めていることも
結局は現在の日本の右傾化は左翼の反共化であることを示している。


加藤哲郎などが典型的な例だが、日本の左翼は普段は平和主義を標榜し、
当たり障りのない正義を述べているが、いざ中国や北朝鮮、ロシアや中東、
南米、アフリカといった(欧米にとっては)左派系政権に関しては、
右翼と全くといって良いほど同じ見地に立ち、攻撃している。


北朝鮮打倒のために慰安婦問題は妥協して日本と協力関係を築けと
叫ぶ自称中立派の韓国人や、東北アジアに平和をと言いながら、
北朝鮮が常時米韓から軍事的圧力を受けていることを無視したり、
場合によっては「北の妄言」と一蹴する日本人もいる。

アベノミクスに反対しながら、その最も有力な反対政党として
近年成長している共産党に悪印象を持たせる言説を唱えたり、
イラク戦争に反対しながら、同じ理屈でアメリカがアフリカ、
ロシア、東欧に干渉すると、これは民主化運動の一環だと称賛する左翼。

彼らに共通しているのが、
アメリカ型の民主主義の絶対崇拝とコミュニスムの絶対否定である。

実際には、コミュニスムは地域ごとにその形態を変える多様なもので、
北朝鮮の主体思想と日本の科学的社会主義は全く異なるイデオロギーで
あることは明白なのだが、全てを単一のイメージで定義している。

人はそれを偏見と呼ぶ。

結果として、「民主化」のために地方の「独裁」を打倒することが
絶対正義のように主張されたり、そのためには右翼と共通の見解を
好んで主張したりする。「アラブの春」礼賛や北朝鮮バッシングはその典型例だ。

ISISやアル・カイダ、在特会やネトウヨは
一連の反共主義の産物でもあるのだが、彼らは元凶を作っておきながら、
いざ異常事態が発生すると、全てを右翼のせいにして雲隠れしてしまう。


今の左翼メディアは昔なら右翼と呼ばれた人間を講師として招いて、
「これが日本の良心的な意見です」と偽の紹介文を添え彼らの権威化に協力し、
結果的には右傾化に貢献する言説を垂れ流している。


特に左派系の代表格として君臨している岩波書店など、
先日、私がこっぴどく批判した佐藤優氏と池上彰氏に
積極的に原稿を依頼しているトンデモ出版社になっている。

これはアフガンやイラク、リビアに未だに米軍を送りこみ
現地の住民を殺害させているオバマを平和論者と紹介し、
彼にブッシュやマケインなどの超タカ派の批判をさせているようなものだ。


簡単に言えば、10万殺した人間が100万殺した人間を批判しているようなもの。

これは相対的に10万人を殺害したという事実を軽視・無視させることにつながる。




先日、ゲッペルス(ナチスの高官)の日記を用いて、
カチンの森事件(ソ連の代表的な虐殺事件の一つ)に論駁した本が
三省堂から出版されたが、朝鮮戦争といい、カチンの森事件といい、
欧米やソ連でも未だに論争中の話題であるにも関わらず、
なぜか共産党を非難する側だけを翻訳・紹介している。


無論、そうでない本もあるが、圧倒的に流通量が少ない。

この傾向が特に顕著なのが中国に関する本で、
同国の「功罪」を述べているのは大西広教授ぐらいのもので、
他は「罪」のほうだけ重点的に説明している。これが結果的に、
国内の中国や中国人へ対する差別意識、その口実としてねつ造される
歴史改竄工作を助長させているのだが、研究者も出版社も特に自覚していない。


岩波書店、白水社、日本評論社、同時代社、花伝社、社会評論社、
社会批評社、七つの森書館、みすず書房、御茶ノ水書房、筑摩書房。

パッと頭に浮かんできた左派系出版社だけでも、
これだけいるわけだが、こいつらのやってることは、

ガソリンを垂れ流しながら「火の用心~~!」と叫んでいる人間が、
いざ放火魔がこれ幸いと火をつけると憤慨・激昂するようなものだ。


傍から見れば狂人かと思われるに違いない。

今思えば、党内に歴史改竄工作員を抱えながら
東アジアの平和と歴史問題の解決、慰安婦への補償を考えていた民主党の
代表的な支持基盤が労働組合だったことも一連の現象の一環だったのかもしれない。


こういう現象は前々からあった。
文壇を見ても共産党系の作家は市場においてもマイノリティで、
大江健三郎や野間宏、大岡昇平や安部公房のほうが有名で評価されている。

「日本」文学史でも、プロレタリア文学は軽視・無視されている。

こういうコミュニスムの無視・軽視・反感が冷戦終結後、
加速化した結果、今日の驚くほどの右傾化になっているように思えてならない。


こういう中途半端な左翼、反共左翼の特徴としては、
一見、対立しているようで実は裏では右翼と共闘していたり、
問題の本質を隠した反対論を唱え、読者がより深い考察を行うことを
妨害することが挙げられる。言ってみれば、影の協力者とでも言うべき存在。


こういうのが前面に出て、右翼の反対者の代表を気取っているのだから、
結果的にどうなるかは目に見えてくるし、現にそうなっている。


マルクス流に言えば、彼らもブルジョア化して、
雑誌や単行本、放送といった場における発言権を独占している。


そのため、マイノリティはネットか自費出版で応じなければならない。

これが歪んだ形で噴出したのがネット右翼で、言説自体は極右のそれなのだが、
彼らは既存の右翼メディアを手ぬるいと判断し、より過激で差別的な発言を述べ、
言論におけるシェアを極右一色で埋めようと努力している。


そういう意味では、ネット右翼は左右問わず、商売敵であって、
文春と岩波がどちらも彼らを非難しているのは偶然ではない。


90年代以降、一部を除きコミュニスムは強く左翼に否定されるようになったが、
それは自身の右傾化(転向・保守化)を隠ぺいするためのものだったのではないだろうか?

あるいは自分たちが言論において権力を掌握したからこそ、
それを瓦解させかねない言説に目を瞑るようになったのではないだろうか?