図書館から借りてきた
故郷
十勝太出身の
上西晴治さん著作
「十勝平野」
今日やっと読み終えました
トカプチコタン(十勝太)を舞台に
和人たちが入り込む中で
翻弄されながら生きていく
3代にわたる
アイヌの生きざまを
息苦しくもあり
明るくもあり
リズミカルに表現して
魅せてくれました
時代は明治から
昭和まで
文中の情景や
その地域など
おじさんが暮らした十勝太そのもの
驚くほどのリアリティをもって読んでいました
おじさんは十勝太の小学校(十勝小中学校)に入学
(昭和27年ー1952年ー十勝沖大地震)
9名の同級生の中にも
複数のアイヌの仲間がいました
(おじさんはいじめられた思いはありますが差別意識はなかった)
そんなことから
フィクションなのか
ノンフィクションなのか
おじさんは
過去に暮らした現実と
創作の間を行ったり来たり.........
不思議な感覚をもって読みました
この感覚は
これまでの読書にはありません
これまでも
おじさん自身が抱いてきた
人間は自然だという主張は
アイヌの人の生き方に近いものがあります
文明が発達した社会に暮し
暮らしが豊かになったとはいえ
人としての心の豊かさは
真逆と感じるのは
おじさんだけかな
おじさんにとっては
郷土の作家
上西晴治さんを誇りに思い
読み終えました
以下は
一部引用させていただいたものです
帯広大谷短大の開学50周年を記念し
神谷忠孝氏が寄せた論文の中から
上西晴治さんにかかわる部分です
「日本近代文学の中の十勝」
“Tokachi”in the Japanese Modern Literature
神谷 忠孝*
Tadataka Kamiya
○「十勝生まれの人たち」の中から
~上西晴治は1925年(大正14)浦幌生まれ。浦幌高等小学校を経て札幌師範付設の小学校准訓導養成所に進み1941年(昭和16)に卒業して西
足寄の平和国民学校で教員生活に入る。2年後小樽の北海道青年学校水産教員臨時養成所に進学。1945年3月に卒業して塩谷村立青年学校に勤
務中に応召。9月に復員し翌年4月から増毛青年学校、のち増毛第一中学校で教えた。1950年、銭函中学校に移り、かたわら札幌文化専門学院夜間
部に通った。このころから文学に情熱をおぼえ、1951年4月、大東文化大学文政学部日本文学科3年に編入学。卒業論文に有島武郎を選んだことで
岩内の木田金次郎を訪問。八木義徳の「漁夫画家」(「文学界」1952・10)を読んで共感し小説を書き始めた。1953年から札幌工業高校で国語を教え
ながら創作を続け、1964年7月、「玉風の吹く頃」で第75回読売短編小説賞に入選。その後、「オコシップの遺品」(「文学展望」1977・1)で芥川賞候
補、「ニシパの歌」(「文芸」1964・9)で直木賞候補となる。『コシャマインの末裔』(筑摩書房、1979・10)で北海道新聞文学賞、『十勝平野』上・下(筑
摩書房、1993・2)で伊藤整文学賞を受賞。2009年11月10日死去。一貫してアイヌ差別の問題を題材とし『十勝平野』はその集大成である。
「秋風がごうごうと音をたてて一日じゅう原野を吹き渡っていた。秋味は川いっぱいに波を立てて遡り、鹿の群は山の斜面に日なたぼっこをし、コタンの
人たちは腹いっぱい食べて、ごろんとひっくり返った。エシリの家ではぺカンぺ(菱の実)やぺロニカルシ(椎茸)も採り、そろそろ冬越しの支度に取りか
かっていた。」(第一部・落日篇・八) 「はやばやと海の方から西南風(ひかだ)が吹いてきて、雪に覆われた原野は見渡すかぎり飴色に変わった。川岸に
堆く積もった雪が、ざ、ざ、ざっ、と音をたてて崩れ落ちる。だが凍てつく夜が明け、太陽が昇り始めるころ、広い氷原は無数の宝石を散りばめて美しく耀
く。すると、コタンの人々は橇を曳いて堅雪を渡り、枯枝を拾ったり、榛の木や猫柳の新芽を摘みとって忙しく動き回った。」(第二部・抵抗篇・一)
「昭和二十三年四月、孝二は浦幌高等小学校当時の担任の先生のすすめで、札幌師範学校に併設の小学校教員養成所に入所することになった。彼
は食料不足の街の暮らしは不安だったが、勉強はしたかった。」(第三部・苦闘篇・五十二)
孝二は作者の分身である。時代を十年ぐらい下げているが、作者の体験と重なる。『十勝平野』は十勝アイヌが受けた三代にわたる差別の歴史を描い
た大河小説として北海道の文学に大きな足跡を残した。~
○「今後の展望」の中から
~小説では上西晴治が『十勝平野』を完成させ、北海道文学と呼ぶにふさわしい作品を残してくれたことが特筆される。日本人によるアイヌ政策を真正面
から告発した作品は世界に発信できる文学である。長い間、十勝は創作に向かない土地とされてきた。その理由として厳しい自然にふりまわされてじっく
りものを考える余裕がないからだと言われてきた。可能性としてはロシア文学のように長い冬に耐えて長編を構想する方向が有効であると言われてき
た。そのことを上西晴治が成し遂げたのである。十勝文学の核は『十勝平野』にあることを確認しておきたい。~