岡田更生館があった当時の日本は、
両親がいる子は、ぎりぎりの食事ができた。
片親の子は欠食がち、
孤児は、働くか、かすめとるか、その日暮らし。生存権以前。
戦災孤児が主役のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、国民的人気となり映画化され、主題曲は今でも童謡として歌われている。
(昭和23年「鐘の鳴る丘」主演・佐田啓二)
「この30年の日本人」 児玉隆也 新潮社 昭和50年発行
鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児
”緑の丘の赤い屋根”に38歳の医師品川房二は東京からやってきた、
「あれから25年か」。
25年前の少年は、浮浪児と呼ばれていた。
5人の少年が、1人の復員兵と暮らした丘である。
そして”トンガリ帽子の時計台”は、その後700人を超える孤児たちの人生に時を刻んだ。
品川房二は、元の名を斎藤房二といった。
菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がまだ「時代」そのものであったころ、
彼は靴磨きの少年であった。
房二は、静岡空襲で父を失い、母は火傷を負って死んだ。
房二は兄弟と転々とするうち、ガード下に寝る少年となった。
やがて浮浪者狩りで捕えられ収容所に送られた。
12歳の房二は、収容所を三度脱走し、そのつど捕まっている。
昭和22年も夏に夏に入ろうとしていた時、新設された「葵寮」には60人の少年がいた。
汗と垢で異臭をはなち、ぼろぼろの衣類は寝小便と泥にまみれて、長く伸びた頭髪には虱が巣くっている。
葵寮の鉄格子に監禁された少年たちは
「銀シャリもってこい!」
「煙草吸わせろ!」
「大人のうそつき野郎!」
と、刑務所の暴動さながらに暴れ、やがて諦めて静かになった。
少年たちは、逃亡、入所、逃亡、入所をくりかえした。
夕方になるとラジオからひとつのメロディが聞こえてくる。
〽
緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴ります きんこんかん・・・
葵寮の鉄格子が問題になり、職員間の内紛や思想的対立が表面化した。
昭和22年12月5日、品川博と5人の少年たちはリュックを背負い鍋釜を背負って寮を出た。
彼等は互いに誓文を書き、こんな一行をつけ加えた。
「この子供たちは浮浪児ではありません。浮浪児狩りには絶対に連れて行かないで下さい」
落ち行き先は、茨城県古河。
だが地元住民の反対にあい、一夜で上野の地下道に寝ることになる。
師走の地下道の淡い電灯の下には、復員乞食や男娼や、浮浪児であふれていた。
古巣に戻った少年たちは嬉々としてこんな仁義を切るのであった。
「おひかえなすって、おひかえなすって、
手前生国とはっしましては遠州でござんす。
石松で名高い森町ではございません、歴史に聞こえた三方ヶ原、
チンピラ浮浪児もふるえあがった、鉄の格子の葵寮、
鉄の格子で6ヶ月、すいとんかぼちゃばかり食ってはいたが、
いささか筋金が入ったしがねえ戦災孤児の旅烏でござんす。
頭を含めておいら6人、親はなくとも子は育つ、
仮寝の宿の地下道も皆さん方とは筋違い、
チャリンコ、カッパライは真っ平ご免、
げそ磨きはしていても希望は高し富士の山、
愛と誠のヤサを建て6人仲良く暮らすまで、苦難の道を奮闘努力、
奇特な御仁は切に御援助・・・・・」
少年たちは靴を磨いて食物を得た。
やがて少年たちは品川の故郷前橋に移り住む。
それから赤城山の麓の村に、赤いトンガリ屋根の時計台が立つまで労働が年々つづいた。
・・・・・・
5人の浮浪児はそれぞれの人生を得、この丘を下りていった。
家を自分たちで造る---という”あの時代”が、もう終わったことを品川房二は知っている。
品川博は、今年55歳である。
彼は、結婚をしないままこの歳になった。
時折「何か大きな仕事をする人は、その人の一番大切なものを捨てろ」というシュバイツアーのことばを思い出すことがある。
シュバイツアーは音楽を捨てた。
自分は、気がついてみると結婚を捨てていた。
両親がいる子は、ぎりぎりの食事ができた。
片親の子は欠食がち、
孤児は、働くか、かすめとるか、その日暮らし。生存権以前。
戦災孤児が主役のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、国民的人気となり映画化され、主題曲は今でも童謡として歌われている。
(昭和23年「鐘の鳴る丘」主演・佐田啓二)
「この30年の日本人」 児玉隆也 新潮社 昭和50年発行
鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児
”緑の丘の赤い屋根”に38歳の医師品川房二は東京からやってきた、
「あれから25年か」。
25年前の少年は、浮浪児と呼ばれていた。
5人の少年が、1人の復員兵と暮らした丘である。
そして”トンガリ帽子の時計台”は、その後700人を超える孤児たちの人生に時を刻んだ。
品川房二は、元の名を斎藤房二といった。
菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がまだ「時代」そのものであったころ、
彼は靴磨きの少年であった。
房二は、静岡空襲で父を失い、母は火傷を負って死んだ。
房二は兄弟と転々とするうち、ガード下に寝る少年となった。
やがて浮浪者狩りで捕えられ収容所に送られた。
12歳の房二は、収容所を三度脱走し、そのつど捕まっている。
昭和22年も夏に夏に入ろうとしていた時、新設された「葵寮」には60人の少年がいた。
汗と垢で異臭をはなち、ぼろぼろの衣類は寝小便と泥にまみれて、長く伸びた頭髪には虱が巣くっている。
葵寮の鉄格子に監禁された少年たちは
「銀シャリもってこい!」
「煙草吸わせろ!」
「大人のうそつき野郎!」
と、刑務所の暴動さながらに暴れ、やがて諦めて静かになった。
少年たちは、逃亡、入所、逃亡、入所をくりかえした。
夕方になるとラジオからひとつのメロディが聞こえてくる。
〽
緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴ります きんこんかん・・・
葵寮の鉄格子が問題になり、職員間の内紛や思想的対立が表面化した。
昭和22年12月5日、品川博と5人の少年たちはリュックを背負い鍋釜を背負って寮を出た。
彼等は互いに誓文を書き、こんな一行をつけ加えた。
「この子供たちは浮浪児ではありません。浮浪児狩りには絶対に連れて行かないで下さい」
落ち行き先は、茨城県古河。
だが地元住民の反対にあい、一夜で上野の地下道に寝ることになる。
師走の地下道の淡い電灯の下には、復員乞食や男娼や、浮浪児であふれていた。
古巣に戻った少年たちは嬉々としてこんな仁義を切るのであった。
「おひかえなすって、おひかえなすって、
手前生国とはっしましては遠州でござんす。
石松で名高い森町ではございません、歴史に聞こえた三方ヶ原、
チンピラ浮浪児もふるえあがった、鉄の格子の葵寮、
鉄の格子で6ヶ月、すいとんかぼちゃばかり食ってはいたが、
いささか筋金が入ったしがねえ戦災孤児の旅烏でござんす。
頭を含めておいら6人、親はなくとも子は育つ、
仮寝の宿の地下道も皆さん方とは筋違い、
チャリンコ、カッパライは真っ平ご免、
げそ磨きはしていても希望は高し富士の山、
愛と誠のヤサを建て6人仲良く暮らすまで、苦難の道を奮闘努力、
奇特な御仁は切に御援助・・・・・」
少年たちは靴を磨いて食物を得た。
やがて少年たちは品川の故郷前橋に移り住む。
それから赤城山の麓の村に、赤いトンガリ屋根の時計台が立つまで労働が年々つづいた。
・・・・・・
5人の浮浪児はそれぞれの人生を得、この丘を下りていった。
家を自分たちで造る---という”あの時代”が、もう終わったことを品川房二は知っている。
品川博は、今年55歳である。
彼は、結婚をしないままこの歳になった。
時折「何か大きな仕事をする人は、その人の一番大切なものを捨てろ」というシュバイツアーのことばを思い出すことがある。
シュバイツアーは音楽を捨てた。
自分は、気がついてみると結婚を捨てていた。