しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

真備町「岡田更生館事件」その4・・・「鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児」から

2021年10月21日 | 昭和21年~25年
岡田更生館があった当時の日本は、
両親がいる子は、ぎりぎりの食事ができた。
片親の子は欠食がち、
孤児は、働くか、かすめとるか、その日暮らし。生存権以前。

戦災孤児が主役のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、国民的人気となり映画化され、主題曲は今でも童謡として歌われている。



(昭和23年「鐘の鳴る丘」主演・佐田啓二)


「この30年の日本人」 児玉隆也  新潮社  昭和50年発行 
鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児

”緑の丘の赤い屋根”に38歳の医師品川房二は東京からやってきた、
「あれから25年か」。

25年前の少年は、浮浪児と呼ばれていた。
5人の少年が、1人の復員兵と暮らした丘である。
そして”トンガリ帽子の時計台”は、その後700人を超える孤児たちの人生に時を刻んだ。
品川房二は、元の名を斎藤房二といった。
菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がまだ「時代」そのものであったころ、
彼は靴磨きの少年であった。

房二は、静岡空襲で父を失い、母は火傷を負って死んだ。
房二は兄弟と転々とするうち、ガード下に寝る少年となった。
やがて浮浪者狩りで捕えられ収容所に送られた。
12歳の房二は、収容所を三度脱走し、そのつど捕まっている。

昭和22年も夏に夏に入ろうとしていた時、新設された「葵寮」には60人の少年がいた。
汗と垢で異臭をはなち、ぼろぼろの衣類は寝小便と泥にまみれて、長く伸びた頭髪には虱が巣くっている。
葵寮の鉄格子に監禁された少年たちは
「銀シャリもってこい!」
「煙草吸わせろ!」
「大人のうそつき野郎!」
と、刑務所の暴動さながらに暴れ、やがて諦めて静かになった。
少年たちは、逃亡、入所、逃亡、入所をくりかえした。
夕方になるとラジオからひとつのメロディが聞こえてくる。

緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴ります きんこんかん・・・

葵寮の鉄格子が問題になり、職員間の内紛や思想的対立が表面化した。
昭和22年12月5日、品川博と5人の少年たちはリュックを背負い鍋釜を背負って寮を出た。
彼等は互いに誓文を書き、こんな一行をつけ加えた。
「この子供たちは浮浪児ではありません。浮浪児狩りには絶対に連れて行かないで下さい」
落ち行き先は、茨城県古河。
だが地元住民の反対にあい、一夜で上野の地下道に寝ることになる。
師走の地下道の淡い電灯の下には、復員乞食や男娼や、浮浪児であふれていた。

古巣に戻った少年たちは嬉々としてこんな仁義を切るのであった。
「おひかえなすって、おひかえなすって、
手前生国とはっしましては遠州でござんす。
石松で名高い森町ではございません、歴史に聞こえた三方ヶ原、
チンピラ浮浪児もふるえあがった、鉄の格子の葵寮、
鉄の格子で6ヶ月、すいとんかぼちゃばかり食ってはいたが、
いささか筋金が入ったしがねえ戦災孤児の旅烏でござんす。
頭を含めておいら6人、親はなくとも子は育つ、
仮寝の宿の地下道も皆さん方とは筋違い、
チャリンコ、カッパライは真っ平ご免、
げそ磨きはしていても希望は高し富士の山、
愛と誠のヤサを建て6人仲良く暮らすまで、苦難の道を奮闘努力、
奇特な御仁は切に御援助・・・・・」

少年たちは靴を磨いて食物を得た。
やがて少年たちは品川の故郷前橋に移り住む。
それから赤城山の麓の村に、赤いトンガリ屋根の時計台が立つまで労働が年々つづいた。


・・・・・・


5人の浮浪児はそれぞれの人生を得、この丘を下りていった。
家を自分たちで造る---という”あの時代”が、もう終わったことを品川房二は知っている。

品川博は、今年55歳である。
彼は、結婚をしないままこの歳になった。
時折「何か大きな仕事をする人は、その人の一番大切なものを捨てろ」というシュバイツアーのことばを思い出すことがある。
シュバイツアーは音楽を捨てた。
自分は、気がついてみると結婚を捨てていた。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した

2021年10月12日 | 昭和21年~25年
7~8年前ある旅行会社のツアーで3日間同じだった、広島市の方(中年女性)から”私の特技”的な自慢話を聞いたことがある。
彼女の自慢は「NHKのど自慢」に出場するのが特技だというのである。
出場するためには”秘訣”がある。
まず書類応募の際、歌う”曲選び”の秘訣、その曲を歌う理由の秘訣。
予選では客受けする衣装や踊りパフォーマンスの秘訣、話題の秘訣。
それができれば、ほぼ本番出場はOKであるそうだ。

今から76年前、NHKのど自慢が始まり、その年の秋
9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した。

・・・


「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行

観客席には、復員服の男や、モンペ姿の女たちが、ぎっしりひしめき合っていた。
そこは、横浜市伊勢佐木町に近い焼けビルの二階で、
場末の映画館を思わせる部屋の正面には、急ごしらえの、
粗削りの杉のステージが取り付けられていた。


「はい、次の方、お名前は」
「加藤和枝、九つ、長崎物語」

小っちゃななくせに、まるで大人の着るような裾の長い、
真っ赤なドレスを着た少女が現れた。
おでこの広い、鼻もちょっと上を向いて目だけがグリグリと大きい愛嬌のある子だった。
伴奏は天知真佐雄。
合図とともにこの子は歌った。


赤い花ならマンジュシャゲ
オランダ屋敷に・・・・
子供と思われぬサビのよく利いた声。

満場陶然たる中に、この子はすでに一曲を全部歌い終わってしまっていたが、
審査席からは何の合図もない。
島野アナウンサーも中ぶらりんの面持ちで、
「もう一曲、ハイ、何か」
と促した。
次にこの子が歌ったのは「愛染かつら」であった。

審査席では丸山・三枝両委員が複雑な表情をたたえながら顔を見合わせている。
その眼は・・・悪達者・子供らしくない・非教育的・・・ということを互いにすばやく語り合い、ついに丸山氏の手は横に振られた。

「はい、結構です。では次の方・・・」

・・・・・



美空ひばりが、のど自慢で鐘三つでなかったのは、よく知られた話だが、
ついでながら、
北島三郎は鐘二つ、
五木ひろしは鐘三つ、
島倉千代子は鐘二つ、
だったそうだ。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和21年 私の”死の行進”日記  本間雅晴

2021年10月11日 | 昭和21年~25年
「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行


昭和21年 私の”死の行進”日記  本間雅晴

昭和17年4月9日、飢えとマラリアに悩む米比混成軍76.000人が捕虜となった。
炎天下88キロを歩いて後方基地に収納されたのは54.000人。
”バターン死の行進”である。
この時のフィリピン方面第14軍最高司令官が本間雅晴中将。
戦犯に指定され、9月15日出頭。


昭和20年
9月18日

今のところ、私の罪名はバターンの俘虜7万余名を飲食を与えず炎天に遠い収容所まで行軍せしめ、そのため多数の死者を出したというのである
我が軍の総兵力に匹敵する俘虜を歓待し又は自動車で輸送することは不可能で、これ以外手がなかったのだ。

9月28日
私の罪は指揮官として部下の行為に対する責任である。
この間発表された比島における暴虐(昭和17年8月以降の日本軍の暴行)は私の時代のものではないが、日本の将兵も非常に野蛮だという証明になる。
私たちは明白に旧日本を清算するための犠牲である。
結局軍人になったことが大いなる災いの原因だったともいえる。

10月8日
朝起きるとすぐ、弱った南京虫6~7匹を潰した。
本日、山下大将の裁判が始まる日。
山下の刑は直ちに私の刑だ。

10月15日
新聞を読む毎に愉快な記事なし。
日本人の軽佻浮薄 (けいちょうふはく)驚くべきものがある。
これだから負けたのだとも思う。

10月12日
今朝の読売によると、私のマニラ行きは確実なりとしている。
佐渡の町村長や東京の知人等が私の放免運動をいてくれているとのこと、
その芳志感謝の言葉もない。

12月8日
大森を去って巣鴨に行く。
素っ裸で健康診断を受け、2畳半の独房に叩き込まれる。
せんべい布団2枚、毛布1枚、枕なし。
コンクリートの室はふるえる位寒い。
食事も悪く、ご飯になにか汁をかけたものだけ。小さなミツカン2個。

12月9日
山下の死刑のことを考え終夜うとうとして過ごす。
山下大将が死刑となれば私も極刑を免れぬ。
山下の部下の残虐行為は言語に絶するものがあり、その犠牲者も5万数千という。
しかし責任罰という点から区別をつけまい。

12月12日
朝4時に起こされ、これから30分以内に出発準備せよと無理な要求をする。
厚木飛行場に行き9時半出発。
沖縄の伊江島飛行場に着き、
マニラに着いたのは9時半。
以前官邸だった物置に入れられる。
蚊帳なしで、蚊がいて眠られぬ。

昭和21年
元旦

格別死を怖れてはしないが、死にたいという気持ちもない。
こんな苦しみを早く切り上げたいと思う。

1月3日
8時半から公判開かる。
裁判長まるで検事の如き態度で弁護団の申し出をことごとく蹴る。
高津少将、検事側の証人に立ち、私に対する反逆的証言のみする。

1月6日
日曜で公判休み。
生きながら地獄の如し。
自殺の方法を考えている。青酸カリがほしい。

1月8日
いよいよ「バターン」の行進に入り、米軍曹いきりたって嘘八百を並べ、
余りのことに腹が立って涙が出る。

1月11日
全く知らぬ残虐な実例が次から次へと出てきて、
聞いているのが苦しい。
心身疲労困憊す。
膝が力なく崩れるような気持がする。

1月14日
今朝妻等一行到着の由。

1月24日
妻の顔を見、子供たちの手紙を読んで著しく死生を超越した気持ちになった。
聖作は「お父さんは日本の忠臣だと思う」と書いた。
尚子は「お父さんを飽くまで信じ、少しも肩身の狭い思いはしない」と言った。
これ以上満足を与えるものがあろうか。
妻は最後まで勇敢に戦ってくれた、唯感謝あるのみ。

2月9日
宣告は2月11日の午後3時。
勿論宣告は受ける前からと言わんより、公判開始以前から決まっているので、
これはほんの形式だと言っていい。
死刑は絞殺だろう。
何でもモルヒネの注射をやって殺して置いてから絞殺という形にするとのこと。
長い苦しみではない、アッという間に済んでしまう。
本間家の歴史に国家的の死に方をしたもののある事を残すのも悪くはない。
長生きをしたところでこれから20年位だ。
もう何もいい残すことはないような気がする。

・・・



本間氏の最後

2月11日「銃殺刑」の判決が下る。
マニラからモンテンルパの監獄に移された。

罪状は
1・オープンシティ(無防備都市)となった後のマニラを爆撃した。
2・バターンの病院を爆撃した。
3・比島全国にわたって婦女子を強姦または虐待した。
4・米軍捕虜に、いわゆる「バターン死の行進」をさせた、
など47項目に上っている。

徳川頼貞、今日出海氏らが弁護人として法廷に立った。
富士子夫人も、2月8日の法廷で本間の妻たることを誇りにしていると証言した。

4月2日夕刻、刑場に連行され、3日12人の銃殺隊により執行された。

辞世一首
戦友ら眠るバタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよし




(昭和34年4月5日、岡山県井原市東江原町宝蔵院にて
右が本間中将未亡人富士子さん、左が山下大将の未亡人久子さん。
ニュー井原新聞・昭和34年4月11日)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立ち小便する「東京」

2021年10月11日 | 昭和21年~25年
「京女 立ってするのが 玉に疵」

祖母は、夏にアッパッパを着ることはあったが、下着は襦袢の一生だった。
とうぜん家でも畑でも、”立って”していたが、京女には程遠い農山漁村の貧しい農婦だった。
「もはや戦後ではない」(昭和31年)といわれた時代でも、その後でも、田舎の明治生まれの女性は、皆そうだったように思う。








「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行

立ち小便する「東京」

渡辺伸一郎(←NHK「私の秘密」の人・管理人)

今の東京は衣食住の三難に加えて、交通の第四難がある。
省線(JR)も昔のような正確無比、快適を誇っていたのとは事違い焼け残りの少ない車を無理に酷使、修繕もせぬ。
椅子のビロードが剥がれて中のバネや馬の毛みないな腸まではみ出していて、
これがことごとく発疹チフスのシラミの巣窟。
こうした車に、どっとばかりに押し乗り、まだどっと出る。寿司詰のことを西洋では「缶詰の鰯」という。
いつの日か、この缶詰にお目に掛かるであろう時、
「まるで敗戦直後の電車のようだ」と形容することであろう。

都の真ん中で、至るところ立ち小便できるのは敗戦日本の役得だ。
銀座の横丁で、焼け金庫の周りに麦を作る今日だ。
たまに共同便所があっても、黄金水の洪水で、底に穴の開いた安靴では踏み込むことは愚か、近寄ることすら出来ぬ。
焼け跡の立ち小便こそ便利なれ、よくぞ男に生まれけるだ
ある女代議士候補者はラジオで「何たる醜態でしょう、外国のお客様に笑われますよ」と放送していたが、男性を羨んでの故かも知れない。
「京女 立ってするのが 玉に疵」とあるからどうせ今や日本は世界に尻を捲って恥をさらしているのだ。
小便ぐらい何が恥ずかしかろう。

闇の女、百鬼夜行というのは昔の話。今や・・・・、
明るみの女、千鬼昼行である。

東京本社社会部 昭和21年6月2日





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後初の総選挙・婦人参政権

2021年08月27日 | 昭和21年~25年
女性が初めて議員の選挙に投票したのが、昭和21年4月10日の衆院選挙。
戦後で世は混とん。
管理人の家では、神戸から戦災で焼け出された親戚3人が同居中。家の中は10人同居。
初めての投票した時のことを母に聞けば、
「背中に二子をおんぶ、片手に一子の手をつなぎ」投票に行った。

初の選挙は戦後の混乱の想い出の中の(小さな)一つのようだった。





「昭和 第7巻」  講談社 平成2年発行
実現した婦人参政権
40年間の苦難の道





実現した婦人参政権

終戦の日から10日後の昭和20年8月25日、市川房江が「戦後対策婦人委員会」を結成し、9月11日第一回会合を開いた。
その目的は、戦後における婦人関係の諸対策を考究企画し、政府当局へ進言するとともに、その実現に協力することだっが、
さしあたり政府、貴衆両院、各政党に対して
婦人参政権、男女平等実現のため5項目を申し入れた。

昭和20年10月11日、GHQは五大改革指令を発するが、その第一に婦人解放があげられていた。
このGHQの意向を察知した日本政府は10月9日に成立した幣原内閣が翌10日の初閣議で、婦人参政権と男子の年齢引き下げを全員一致で決定する。

婦人運動家の原田清子は、当時を次のように回想する。
「交通事情の悪いなかを全国から200人近い人が参加しました。
熱気あふれる大会でした。
当時は人口は女の方が多かったのです。
参政権を獲得したからといって女はダメだといわれないようにしなくては・・・婦人の自覚と政治意識を高め、婦人の政治講座を開いたり講演会を次々開催しました」。

昭和21年、この時の総選挙で婦人投票率は66.9%(男子78.53%)
39人の婦人議員が当選した。
初めて投票する喜びを婦人たちは次のように語っている。
「私は非常に感激した。モンペ姿でソロゾロと出かけた」
「一人前になれた嬉しさを感じた。なにしろ一票入れたら全部よくなるという嬉しさを感じた」

ほぼ40年の長きにわたって、連綿と続けられた婦人参政権の獲得運動は、
戦後ようやく実を結んだ。
この背景には、日本の民主化を推進しようとするGHQの強力な指示があった。
戦争の最大の被害者は女性であるとの観点から、婦人への参政権賦与は日本の非軍事化と民主化のために大きな役割をはたすと考えたからである。



・・・・



「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行
昭和20年10月11日、閣議で婦人の参政権付与決定

終戦直後、日本の女性たちに「解放」の追い風が吹いた。
参政権が認められ、男女平等が高らかにうたわれた。

昭和20年10月11日、GHQは日本政府に「五大改革指令」を出した。
その筆頭が「選挙権付与による婦人の解放」だった。

敗戦後、市川房江や山高しげりら婦人参政権の活動家の動きは早かった。
8月25日に「戦後対策婦人委員会」を組織し、
9月に入ると日本政府とGHQの双方に、女性参政権の容認などを要請した。
10月11日の閣議で、選挙権と被選挙権の年齢引き下げげ、婦人の参政権付与を早くも決定した。
 
こうして選挙法改正が日本側の主導で進められた背景には、
戦前からの参政権運動の蓄積だけでなく、戦時中、
多数の女性が職場に進出、地域でも積極的に活動したことが挙げられる。

ただ男尊女卑の風潮のなお強い中、参政権によって「夫唱婦随の醇風美俗が壊れる」といった批判も相次いだ。

改正選挙法は昭和20年12月に公布され、翌昭和21年4月10日、戦後初の衆院選挙が実施された。
文部省は、「新しい日本は何で築く 男の命ばかりでなく女の命で築く」と記したポスターを貼り出した。
選挙権を初めて行使した女性の投票率は、政府が予想した40~50%を超え、67%を記録。市川らの戦前からの努力がここに結実した。





戦後初の総選挙

「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行


女性が投票所に行く

25歳以上の男子(戦前の普通選挙) 1241万人 (20.0%)
3688万人 (48.7%) 20歳以上の男女(戦後の普通選挙)
「満18歳以上」に引き下げられました、現在の日本では、満18歳以上の有権者は全人口の80%以上。

皮肉なことに、国民は敗戦を通じてようやく平等な選挙権を手に入れることになったのです。普通選挙の実現により、全人口の約48%が有権者となりました。


昭和21年4月10日には衆議院議員選挙、大選挙区定員10名、2名連記制
昭和22年4月20日には第一回参議院議員選挙、
昭和22年4月25日、戦後2回目の衆議院議員選挙、大正以来の中選挙区定員5人の二区。

戦後初の公選第一回の地方選挙は
昭和22年4月5日、知事、市町村長、
4月30日には県議会議員、市町村会議員が一斉に行われた。


敗戦の年の12月17日選挙法が改正され、婦人参政権が実現することになった。
ようやく完全な普通選挙制が実現する運びとなった。




「マッカーサーの日本」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

「日本の婦人に参政権を与えよう。
女性の参政権が、日本の軍国主義をやっつける力になるだろう」

マニラから厚木に向かう専用機の中で側近に漏らした
(昭和20年8月30日)マッカーサーの言葉は有名である。

昭和20年12月に婦人参政権が確立され、
昭和21年4月10日の初の総選挙で千三百七十万人の婦人が初めて投票権を使い、
婦人候補三十九人が当選した。

また、昭和21年1月23日公娼制度を禁止している。
これらはいづれも新憲法以前に、”緊急命令”として発したものである。






選挙の当選者
(Wikipedia)

第22回衆議院議員総選挙
1946年(昭和21年)4月10日

内閣 幣原内閣
解散名 終戦解散・GHQ解散
岡山県 全県
西山冨佐太・犬養健・近藤鶴代・星島二郎・黒田寿男・若林義孝・中原健次・滝澤修作・ 井上卓一・逢沢寛

・・・
第22回衆議院議員総選挙
1947年(昭和22年)4月25日

内閣 第1次吉田内閣
解散名・新憲法解散
岡山県 1区
黒田寿男・大村清一・小枝一雄・西山冨佐太・榊原亨
岡山県2区
星島二郎・中原健次・近藤鶴代・重井鹿治・多賀安郎





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦・倒される忠魂碑

2021年08月27日 | 昭和21年~25年
終戦後、倒されたり、撤去したり、隠されたりしたもの。
GHQが来る前に処理した・・・文書焼却
GHQが来て、思い込みで処理したものと、指示により処理したものがあるが、区分はよくわからない。
学校の大楠公や和気清麻呂や二宮金次郎像は、天皇との関係がない金次郎だけ残った。


大井地区忠魂碑(笠岡市立大井小)



昭和4年に在郷軍人会の手により大井小学校校庭に建立。
終戦により一時小平井光明坊地に移していたが、再び小学校に復元している。
「遺族三十年の軌跡」岡山県遺族連盟発刊





「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

記念碑等
終戦を契機に、戦没者への公葬は姿を消した。
忠魂碑などについても、除去や改革の処置がなされた。
たとえば、原村(東広島市)では忠魂碑(昭和16年建立)が倒壊され、
加計町(安芸太田)で戦役記念碑が取り除かれた。
山本村(広島市)では忠魂碑の文字をセメントで塗りつぶし、平和塔として存置した。
広島市皆実町の日清戦争の勝利記念として建立された「凱旋碑」も平和塔に改変されている。




「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

忠魂碑

忠魂碑は、台石や基壇の上に大きな板状の石碑を据え、表面に
「忠魂碑」「表忠碑」「彰忠碑」「誠忠碑」「「昭忠碑」などと大書し、
そのわきに題号揮毫者名を刻み、
裏面に多数の戦没者の姓名・官位・死亡年月日・造立年月日、造立者名・造立意趣などを刻むものが多い。

第号揮毫者は乃木希典をはじめとする元帥や大将など軍の最高幹部、
造立者は尚武会や在郷軍人会が多く、
軍部とそれを支える在地組織が造立に深く関わったことが知られる。

高さは2mを越えるものが主体で、5mに達するような巨大なものも稀ではない。
下から仰ぎ見るような位置にあることが特色である。
威圧感を持つ石碑が希求されていたことを如実に示す。
造立場所は、
社寺の境内のほか役場や学校など、公共施設の付近が多く、公共性が付与されていることに気づかされる。
1930年代になると、学校教育の中で忠魂碑への参拝などが行われ、忠魂碑が軍国主義教育の教材に供されるようになる。

1946年にGHQの指令によって軍国主義的性格を持つものとして撤去されることになり、大部分のものは地中に埋められたが、
1951年のサンフランシスコ平和条約締結後に再度掘り出され、再建されたものが多数みられる。
しかも、戦後新たに建設された忠魂碑の存在も少なからず知られており、
忠魂碑が持つ複雑な性格をうかがうことができる。

慰霊碑であり、宗教的・政治的・軍事的な機能を併せ持つ施設であるところに、忠魂碑の特色があるといえる。

・・・


忠霊塔

忠霊塔は昭和14年に設立された大日本忠霊顕彰会が、一市町村一基の忠霊塔を全国に建設する運動を展開するなかで広まった戦没者慰霊施設である。
形式は、規模の大小にかかわらず箱形の基壇上に角柱状の塔身を載せ、塔身に「忠霊塔」の文字を表したものである。
基壇の内部には、納骨施設を持ち、遺骨や戦死者名簿などを安置する。
忠魂碑と墓碑の性格を併せ持った。
忠霊塔に慰霊祭は地元の慣習に任されたので、仏教・神社の双方から反発を招いた。

・・・

招魂社
 
戦没者の霊魂を祀る神社である招魂社は、1869(明治2)年に東京招魂社が創建され、
鳥羽伏見戦争以来の政府軍戦没者の神霊を祀ったのを契機に、管理主体である藩が廃され荒廃していた地方の招魂場を整備する動きが現れたのを享けて、
1874年に内務省が各地の招魂社を官費で維持していく方針を打ち出したことによって制度的に確定した。
1934(昭和9)年内務省は招魂社を一府県一社とする方針を各府県に示し、1939年に制度化し、さらに招魂社を護国神社と改称することを命じ、護国神社制度が発足をみた。
大日本忠霊顕彰会が設置され、忠霊塔の建設が本格化するのもこの年のことであり、日中戦争の膠着状態のなかで国民を戦争協力に掻き立てるべく戦没者慰霊施設の整備が画策されたものと考えられる。






「昭和 第7巻」  講談社 平成2年発行

銅像追放
はじめに広瀬中佐
GHQの指令に基づき、東京都の忠魂碑銅像等撤去審査委員会は、
都内20基の記念碑・銅像の適否を21年12月から検討しており、その結果が5月に発表された。
残置が決まったのは,宮城前の楠公像や上野公園の西郷隆盛像など11基。
7月21日、都建設局は撤去作業を、神田万世橋の「軍神」広瀬武夫中佐の銅像から始めた。







福山市多治米町誌」

備後護国神社鳥居

新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。
戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。
神社跡は福山市民球場ができ、次いで昭和43年市立体育館が建設された。

その後、備後護国神社として昭和33年福山城背の阿部神社を改築し合祀された。
一基は昭和36年に発掘し現備後護国神社参道に再建された。
もう一基の方は埋めた場所が分からなくなり「幻の鳥居」と呼ばれていたが体育館駐車場下にあると分かり、昭和55年秋の大祭に間に合うよう再建された。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井笠鉄道 敗戦・戦後の混乱

2021年08月24日 | 昭和21年~25年
食べるもの・着る物は戦争が終わって、一層深刻化したが
鉄道やバス経営も、同じように昭和22・23年頃が営業難だったようだ。
煙を吐くバスは戦時中のイメージだったが、戦後の昭和25年までつづいている。



(くじば機関庫)


「井笠鉄道株式会社五十年史」  井笠鉄道  昭和37年発行

井笠鉄道 敗戦・戦後の混乱

戦後インフレの中で経営を打開しなくてはならぬ最悪の状態においこまれていた。
戦時中の打撃は極めて大きく、苦難の時代を乗り切ってきた関藤謙治氏は、
「戦時中の過度の輸送のため機関車を酷使し、且、自動車においても11台にのぼる車両供出をなし、修繕資材は品質劣悪で修繕意のごとくならず・・・」と述べている。
バス事業は昭和22年1月GHQによって代燃車をガソリン車に切り替えることを禁止していたため、新車しかガソリンは使用できず煙を吐いて走るバスがみられたのもこの時期であった。

ガソリンの供給は昭和24.25年頃から好転し、25年にはゴム原料の統制が撤廃され、タイヤ等の自由な購入ができ出し、ついに
昭和26年5月1日に代燃車をガソリン車に切替えることが承認された。
昭和27年6月30日に石油全製品の統制が撤廃された。
かくして日中戦争勃発以来強化されてきた物資の統制がなくなり、バス事業の本格的発展が開始された。





(吉田村と記されているが、今は畑が自然の山に戻っていて、吉田のどの付近かよくわからない)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伏鱒二と木山捷平

2021年08月23日 | 昭和21年~25年
昭和21年10月14日、井伏鱒二は笠岡の港でママカリを釣っていた。
そこで戦後初めて木山捷平と再会した。




「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

捷平は昭和19年の暮れ、自由な文筆活動のできる新天地を求めて日本脱出を図る。単身満州に渡る。
そして現地召集、特攻部隊配属、敗戦、難民生活と辛酸をなめる。

かくして敗戦後の1年間を「百年を生きたほどの苦しみに耐え」た捷平は、
昭和21年8月、妻子の疎開先である笠岡の生家へたどりつく。
豊かな自然と食糧事情にも恵まれた農村で、心身の傷をいやしながら生還できた喜びと平和の尊さをかみしめながら、「帰国」「幸福」「疎開者」などの10編の佳作を発表する。

一方、近郷に滞在中の井伏鱒二、古川洋二、小川祐二、村上菊一郎、藤原審爾、木下夕爾などと笠岡界隈でしばしば会合し、飲食と歓談を楽しむ。
「御大であり長老である井伏鱒二氏のかもし出す雰囲気にわれわれは酔った。
文壇のエース井伏氏をわれわれ疎開組だけで独占しているような快感」
(小説「井伏鱒二」)
を満喫しながら鋭気を蓄える。

昭和24年3月、単身笠岡を離れる。
捷平にとって戦後2年7か月の笠岡滞在は、飛躍に向けてのエネルギーを蓄積していた時期と言ってよいであろう。






昭和21年10月14日、井伏鱒二がママカリを釣っていた場所(多分、この付近)




「井伏鱒二と木山捷平」 ふくやま文学館  二葉印刷 2008年発行


満州から引き揚げてきた木山と、郷里疎開中の井伏とが再開したのは、
昭和21年10月14日のことであった。
戦後初めて二人が再会した。


井伏鱒二「木山君の人がら」1968年10月

終戦直後のころ、私が備中笠岡港でママカリ釣をしていると、
肩章のない兵隊服を着た木山君がひょっこりやって来た。
久しぶりの偶然の出会ひだが、いきなり木山君がかう言った。
「僕はね、こなひだ満州から引揚げて、この近くの僕の生まれ在所にころがりこんじゃった。」
「それで君は、その生まれ在所で何をしているんだ」と聞くと、僕は地主で、家内が小作人だと言った。
これは木山君の郷里に疎開している奥さんが、空閑地利用で菜園か何か作っていて、木山君自身はぶらぶらしているといふ意味に解された。
こんな風に木山君は、お互いに久闊でびっくりしている場合でも咏嘆的な言葉や感傷的な口吻を見せない人であった。
詩や随筆を綴る場合にもその傾向があった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特高警察「公職追放」

2021年08月22日 | 昭和21年~25年
昭和20年8月15日の玉音放送を母は、
「それを言うんじゃ、ゆうて、みんな言ぅた」と、放送の始まる前に内容(敗戦)を理解していた。
そういう国民の声には出ないが、秘められた世論を特高警察は正しく分析していたようだ。

知っても現実を見ようとせず、”一億総玉砕”いっぽんの帝国陸軍よりは、特高警察の方が冷静だったようにみえる。
終戦後の特高警察の解体には、その冷酷で冷徹さがよく示されている。





「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行

敗戦の予感

特高警察が敗戦不可避という認識をもつに至ったのは、
昭和20年春頃だった。

4月の小磯国昭から鈴木貫太郎への内閣交代時の「警保局長引継書類」では、
「民心の動向」について、
「ことに最近における敵の比島および硫黄島、沖縄等に対する侵寇ならび本土空襲の激化等、戦局の急展開に伴い、一般民衆は戦況の劣勢、戦局の不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつあり」ととらえるようになった。
5月の警保局、
人心は「正に総浮腰」となり、不安動揺は全国的に拡大しつつあると観測する。
7月10日、警保局保安課旬報、
「沖縄島失陥に伴う民心の動向は極めて顕著なる敗戦感一色に塗りつぶされたるやの感ありて、
これに基因する厭戦、反戦、自棄的無気魄状態の推移は極めて警戒を要するものあるとともに、
空襲激化、生活逼迫に伴う戦争疲労感の台頭と相俟って敗北主義的気運の浸透を懸念さるるものあり。
他面において戦況不振の責任を責任を糾弾する反軍、反官、反政府思想の深刻化、一般化ある等、
今後における民心の推移は極めて注意を要するものと認めらる。」


「特高警察の解体」

昭和20年8月15日の玉音放送で、為政者の最大の関心は「国体護持」=天皇制の存続であったが、その一端は自他ともに特高警察が担うべきものとされた。
むしろ敗戦の事態にこそ、特高警察の本領が発揮されるべきと考えられた。
警保局は9月下旬までに翌年度の予算要求として特高警察の倍増案を立てている。
今後、食糧問題・失業問題・悪性インフレなど「各種の治安上困難なる事象」が予想され、
各府県を含めて1万人以上の増員を計画した。

廃止論の広がり

治安維持法の撤廃についてまだどこでも問題となっていないのは「不思議な立遅れ」だとして、
維持法の撤廃、違反者の釈放から出発すべきである。
特高への恐れが大勢を占めていた。
満州国などの特高警察は、大日本帝国の崩壊とともに消滅した。
10月4日,GHQは「政治的、公民的、宗教的自由に対する制限の撤去」をつきつけた。
治安維持法等の一切の弾圧諸法廃止
「政治犯」の即時釈放
特高警察の廃止と、全特高警察官の罷免などが指令された。
東久邇内閣は退陣するほかなかった。



(昭和20年10月5日・読売報知新聞)



公職追放

合計4.990人が罷免となった。
まず休職となり、のち「依願退職」で、全警察官に対する割合は約6%である。
朝日新聞は10月6日「治安維持にも姑息な態度」と内務省首脳部の認識と行動をの「低調浅薄」を指摘する。
GHQの「要求してきたものは譲る、向こうで気の付かないものは現状のまま」という姿勢に終始した。
罷免の不徹底
基準を10月4日の現職者とした。1/3以上が他の公職に再就職することができた。
「退職特別賜金」も出た。数年後には復帰者も多かった。


公職追放(第二弾) 昭和21年1月4日

「8年以上、または昭和16年以降4年間以上特高警察に従事」した警部以上の者。
当初の試算では10.500人の個別審査が予定されたが、86人が該当された。

「憲兵と特高の政治警察は、民主主義実現の一大障害をなすものであった。・・・
これが廃止によって、暗い空の晴れゆく明るさを感じたことは事実である」
1月11日朝日新聞「天声人語」欄は、大方の受けとめ方といっていよい。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年代の農作物

2021年08月16日 | 昭和21年~25年

「鴨方町史 本編」  鴨方町  平成2年発行

昭和20年代の農作物
戦時中からの食糧増産政策が肥料需給率の低下で生産高を低下させ、
これに兵員に徴発されたことによる労働力不足が重なって農業を停滞させる結果となった。
戦後になっても事情は変化しなかった。
戦後の食糧難は深刻で、甘藷を栽培して食糧とすることも多かった。
昭和20年に74.5町で甘藷が栽培され、15万貫を生産しているが、
昭和24年には同一栽培面積で、26万貫を生産している。
畑作物の食用農産品の第一が甘藷であり、大根などを圧倒して栽培されていることに、
食糧難の世相が反映しているといえる。

昭和25年にはじまる朝鮮戦争を契機とする日本経済の活性化の中で、甘藷栽培も減少し、ようやく経済再建のきざしが見えはじめ、
このころから、戦前から特産品の一つになっていた桃の栽培が拡大する。
昭和20年に671本であった桃は昭和30年には1.5倍に拡大する。
梨と葡萄は停留し、
葉煙草が拡大傾向を示した。

昭和20年に185人が昭和26年には100戸増えた。専売品で安定で、換金する農家が増加した。
戦時中の輸出減退の中でバンコック帽や麦稈真田の極度の不振で、戦後になっても輸出は伸びす、国内向けの生産に切りかえ、総じて販売は拡大しなかった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする